大院君(読み)ダイインクン(英語表記)Taewǒng-gun

デジタル大辞泉 「大院君」の意味・読み・例文・類語

だいいんくん【大院君】[人名]

 
18201898()()()()()


だいいん‐くん〔ダイヰン‐〕【大院君】

朝鮮、李朝における国王の実父の尊号。

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精選版 日本国語大辞典 「大院君」の意味・読み・例文・類語

だいいん‐くんダイヰン‥【大院君】

 

(一)[1]    
(二)[2] ()
 

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改訂新版 世界大百科事典 「大院君」の意味・わかりやすい解説

大院君 (だいいんくん)
Taewǒng-gun
生没年:1820-98


1863261863-19071021866711868-76︿1871退1873

 1882調1882-8595

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大院君」の意味・わかりやすい解説

大院君
だいいんくん
(1820―1898)


()26()1863252()60()()47()()調66退9退()

 ()()187382()()()485()()95使()使()退


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百科事典マイペディア 「大院君」の意味・わかりやすい解説

大院君【だいいんくん】

 
()2618631873()退188218941895
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大院君」の意味・わかりやすい解説

大院君
たいいんくん
Taewǒngun

 
[]20(1820).12.21. 
[]2(1898)
 () 49 (1843)  14 (63)  ()  10 (73) 退1921退32  

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「大院君」の解説

大院君(だいいんくん)


182098

26(())()21873()退82()3退

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旺文社世界史事典 三訂版 「大院君」の解説

大院君
たいいんくん

1820〜98
李氏朝鮮の王族
第26代高宗(李太王)の生父。名は李昰応 (りしおう) 。1864年,李太王の即位によって大院君に封じられ,約10年間権力を独占し,強力な内政改革,キリスト教弾圧,鎖国攘夷政策などを行った。王妃閔妃 (びんひ) 一派と争い,壬午 (じんご) 軍乱で復帰したが,清の策謀で軟禁された。1895年日本の勢力を背景に閔妃勢力を倒し,開化政府にかつがれたが,まもなくしりぞけられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大院君」の解説

大院君
たいいんくん
Tae-won-gun

1820.12.21~98.2.22

李氏朝鮮の国王高宗の父。1863年高宗即位にあたり摂政となり,対内的には中央集権・王権強化策,対外的には鎖国政策を推し進めたが,閔(びん)氏戚族と対立し一時勢力を失った。82年(明治15)壬午(じんご)事変で擁立されたが,中国の保定に幽閉され,94年には日本の後援で摂政となり,翌年閔妃(びんひ)殺害事件でも担がれたが,国王のロシア公使館への脱出で失脚。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大院君」の解説

大院君
たいいんくん

1820〜98
李氏朝鮮末期の王族
第26代高宗(李太王)の生父。1863年王の即位とともに実権を握り,積極的な政治改革と排外的政策を行った。王妃の閔妃 (びんひ) 一派と争い,'82年壬午 (じんご) 軍乱に関係し,'94年日本は大院君を擁立して朝鮮内政改革を実施。'95年閔妃殺害事件後一時政権に復帰したが,親露派の復活とともに失脚。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大院君」の解説

大院君 テウォングン

李是応(イ-ハウン)

大院君 だいいんくん

李是応(イ-ハウン)

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367日誕生日大事典 「大院君」の解説

大院君 (だいいんくん)

生年月日:1820年12月21日
朝鮮,李朝末期の執政者
1898年没

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世界大百科事典(旧版)内の大院君の言及

【衛正斥邪】より

…その結果,明治維新の後,欧米の先進文化の受容に努める日本も洋夷と同一(倭洋一体)とみなした。19世紀後半の大院君の鎖国攘夷政策はこの思想に支えられて行われた。しかし,衛正斥邪思想の本質は,対外的危機に際して朝鮮王朝の支配体制を固守し,国内外の情勢の変化に即応する一切の変革を拒否するものであった。…

【江華島事件】より

…ところで朝鮮は清の属国とされていたので,〈皇〉〈勅〉は朝鮮にとって清の皇帝とその命令を意味するものと考えられていた。その結果,大院君政権は,日本がこれらの文字を使用したのは従来の交隣関係を破棄して朝鮮の上に立とうとすることを示したものとして,書契の受理を拒絶した。いわゆる書契問題である。…

【壬午軍乱】より


1882()7()1873()

【洋擾】より

…19世紀後半に,鎖国を続ける朝鮮にフランスとアメリカが武力を用いて開国を強要した事件で,丙寅(へいいん)洋擾と辛未(しんみ)洋擾がある。いずれも大院君政権(1863‐73)の鎖国攘夷政策(衛正斥邪)の下で起きた。丙寅洋擾は1866年(丙寅の年)の二つの事件,ゼネラル・シャーマン号事件とフランス艦隊襲撃事件の総称である。…

【李恒老】より


()()

【李朝】より

…19世紀前半から半ばへかけて,封建的支配に反対する民衆の反乱が続出したが,他方では欧米列強の朝鮮侵入も激しさを増し,こうした内外からの危機の深化を背景に,1860年,崔済愚(さいせいぐ)が反封建・反侵略の民衆宗教・思想である東学を創出し,またこのころ,知識層の中からは呉慶錫,劉大致らによって開化思想が形成された。一方,1863年に成立した大院君(だいいんくん)政権は王権の強化と衛正斥邪(えいせいせきじや)(朱子学の正統性を守り,キリスト教=欧米勢力を排除する)政策によって危機の克服をはかった。こうしてその後の朝鮮近代史を規定する内外の諸要因が1860年代初めに現れてくるのである。…

※「大院君」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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