彰考館(読み)ショウコウカン

デジタル大辞泉 「彰考館」の意味・読み・例文・類語

しょうこう‐かん〔シヤウカウクワン〕【彰考館】

寛文12年(1672)水戸藩主徳川光圀とくがわみつくに江戸小石川藩邸内に設けた「大日本史」の編纂へんさん局の名称。現在、水戸偕楽園かいらくえん近くの徳川ミュージアムに諸資料を保存

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精選版 日本国語大辞典 「彰考館」の意味・読み・例文・類語

しょうこう‐かんシャウカウクヮン【彰考館】

 

(一)
 

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日本歴史地名大系 「彰考館」の解説

彰考館
しようこうかん

[現在地名]水戸市見川一丁目

()()西()()()()()

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「彰考館」の意味・わかりやすい解説

彰考館
しょうこうかん


()()16573()167212()()60168331169811退西()()()()23()6()9()18714()79稿190639



1928

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「彰考館」の意味・わかりやすい解説

彰考館
しょうこうかん

 
3 (1657)  12 (72) 591906  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「彰考館」の解説

彰考館
しょうこうかん

常陸国水戸藩2代藩主徳川光圀(みつくに)によって始められた「大日本史」編纂局。1657年(明暦3)江戸駒込の別邸内に編纂局が開かれ,72年(寛文12)に小石川の本邸に移り,彰考館と称した。のち水戸に移されるなどしたが,光圀死去後は江戸と水戸の両方にわかれた。1830年(天保元)には江戸を縮小,水戸を中心とする。明治維新以後も「大日本史」編纂を続け,1906年(明治39)の完成後に閉館。

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旺文社日本史事典 三訂版 「彰考館」の解説

彰考館
しょうこうかん

江戸前期,水戸藩主徳川光圀 (みつくに) が設立した『大日本史』の編纂所
1657年から江戸駒込別邸内に史局を設け編纂を開始したが,'72年小石川の本邸に史局を移し,彰考館と命名した。光圀の死後水戸にも置かれたが,1830年徳川斉昭が水戸に統一した。光圀自身も出勤し多くの儒者・筆生を集め,修史事業のほか,経書の講義も行われた。

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世界大百科事典(旧版)内の彰考館の言及

【大日本史】より


(13821412)73170126284397(5)21657(3)72(12)(1829(12))

【徳川光圀】より

…学問上では南朝正統の立場を強調した《大日本史》の編纂がある。この修史事業のために開いた彰考館には全国各地から学派にこだわらず学者を招き,多いときは館員が60名を超すこともあった。この学者の間に一つの学風が生まれ,これが天保期(1830‐44)に大成されて,水戸学となった。…

【豊田天功】より


1820(3)41(12)

※「彰考館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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