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役行者 (えんのぎょうじゃ)
7世紀末に大和国の葛城︵木︶山を中心に活動した呪術者。生没年不詳。役小角︵えんのおづぬ︶,役君︵えのきみ︶などとも呼ばれ,後に修験道の開祖として尊崇される。︽続日本紀︾によると,699年︵文武3︶朝廷は役君小角を伊豆国に流した。葛城山に住む小角は,鬼神を使役して水をくませ,薪を集めさせるなどし,その命令に従わなければ呪術によって縛るという神通力の持主として知られていたが,弟子の韓国連広足︵からくにのむらじひろたり︶が師の能力をねたみ,小角が妖術を使って世人を惑わしていると朝廷に讒訴︵ざんそ︶したために,流罪が行われたという。葛城山一帯には,古くから一言主神をまつる勢力が蟠踞︵ばんきよ︶し,大和朝廷に対して微妙な関係にあったと考えられるが,役小角はその葛城山に住む呪術師であり,韓国連広足はその名から考えて,外来の呪術を伝える者であったと想像される。︽続日本紀︾編纂当時,役小角の名は世間に知られていたようであるが,少しおくれて平安時代前期に書かれた︽日本霊異記︾には,まとまりのある役小角の説話が収められている。それによれば,役優婆塞︵えのうばそく︶︵︽日本霊異記︾の編者は,呪術的な力を持つ半僧半俗の行者を優婆塞と呼んでいる︶は,賀茂役公︵えのきみ︶,のちの高賀茂朝臣の出で,大和国葛木上郡茅原村の人という。生まれながらに博学で,虚空を飛んで仙人と交わり,仙宮に行きたいと願った役優婆塞は,岩窟にこもって修行を積んだ結果,孔雀明王の呪術を修得し,鬼神を駆使できるようになった。そこで,鬼神たちに命じて,吉野の金峰山と葛城山との間に橋をかけさせようとしたところ,鬼神たちは困惑し,一言主神が役優婆塞を朝廷に訴えた。朝廷は役優婆塞を捕らえようとしたが容易に捕らえられないのでその母を縛ると,母の苦痛を思った役優婆塞はみずから縛についた。伊豆に流されると,昼間は伊豆にあったが,夜は駿河国の富士山に登って修行を重ね,遂に天を飛ぶことができるようになった。後に道照が入唐の途中,新羅の山中で法華経を講じたところ,聴衆の中から日本語で質問する者がいるので,その名をただすと役優婆塞と答えた。一言主神は役優婆塞に呪縛され,今に至るまで解かれないままでいるという。︽日本霊異記︾のこの説話は,役小角を当時貴族社会に広まりつつあった密教の行者として説明しようとしているが,同時に古くからの山岳信仰や道教など,いわば当時の反体制的な諸信仰をあわせた行者として描き出しており,後世の役行者の説話や伝説のもとになった。 平安時代中期以降,役小角の説話は︽三宝絵詞︾︽本朝神仙伝︾︽今昔物語集︾などに収められ,鎌倉時代に入っては︽古今著聞集︾︽私聚百因縁集︾︽元亨釈書︾などに,くわしく記されるようになった。それらの説話の中で役小角は,役行者と呼ばれて修験道と深く結びつけられるようになり,その修行地は生駒山,信貴山,熊野などにひろがり,やがて全国各地の修験道の山が,役行者の聖跡とされるようになった。また,役行者は孝養の心厚く,父母の供養につとめたり,母を鉢に乗せてともに唐に飛んで行ったという説話も生まれ,当麻︵たいま︶寺の四天王像は役行者の祈禱によって百済から飛んで来たという話をはじめ,当麻寺との密接な関係を説く説話も多い。鎌倉時代中期の︽沙石集︾には,役行者が金峰山の山上で,蔵王権現を感得したことが記されているが,修験道の本尊としてまつられるようになった蔵王権現を祈り出した役行者は,修験道の開祖とされるようになり,金峰山の山上ヶ岳山頂の蔵王堂の開創者と信じられることになった。山伏が語って歩いたため,役行者の伝説は各地にあるが,鎌倉時代中期の舞楽書︽教訓抄︾には,役行者は笛に巧みで,その音色をめでた山の神が舞を伝えたという話も見える。南北朝時代を経て山伏の活動は一段とさかんになり,室町時代には修験道の組織化が進んだが,各地の山々に割拠し,仏教各宗の寺院に属していた山伏たちは,役行者を開祖としてつながりを持つようになった。︽役行者顚末秘蔵記︾︽役君形生記︵えんくんぎようしようき︶︾︽役行者講私記︾︽役行者本記︾をはじめ,役行者に関する数々の書が,修験道の教典として作られ,1799年︵寛政11︶には,朝廷から役行者に対して神変大菩薩という諡号︵しごう︶が贈られた。役行者の画像や彫刻は数多く作られたが,その姿は,僧衣に袈裟をまとい,長いひげをたくわえ,手には錫杖を持ち,高下駄をはいて岩に腰かけ,斧を持つ前鬼︵ぜんき︶と棒を持つ後鬼︵ごき︶を従えているのが一般である。役行者が従える鬼については五鬼とする説もあり,1603年︵慶長8︶に刊行された︽日葡辞書︾には,︿五鬼。役の行者という名前のある山伏が打ち負かし服従させた五匹の悪鬼﹀とある。悪鬼を従え,天を飛ぶという役行者は,日本で最も強力な呪術者として広く知られ,さまざまな伝説を生み,歌舞伎の︽役行者大峯桜︾をはじめ,舞台や物語に登場し,坪内逍遥の︽役の行者︾も近代の戯曲として名高い。
執筆者‥大隅 和雄
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役行者
えんのぎょうじゃ
7世紀後半の山岳修行者。本名は役小角(えんのおづぬ)。役優婆塞(えんのうばそく)ともいう。日本の山岳宗教である修験道(しゅげんどう)の開祖として崇拝され、江戸末期には神変大菩薩(じんぺんだいぼさつ)の諡号(しごう)を勅賜された。多くの奇跡が伝えられるので、実在を疑う人もあるが、﹃続日本紀(しょくにほんぎ)﹄文武(もんむ)天皇3年︵699︶5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在したことは確かである。多くの伝記を総合すれば、大和(やまと)国︵奈良県︶葛上(かつじょう)郡茅原(ちはら)郷に生まれ、葛城山(かつらぎさん)︵金剛山︶に入り、山岳修行しながら葛城鴨(かも)神社に奉仕した。やがて陰陽道(おんみょうどう)神仙術と密教を日本固有の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を確立した。そして吉野金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねさん)、その他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流された。この経緯が葛城山神の使役や呪縛(じゅばく)として伝えられたものである。彼が積極的に大陸の新思想や新呪術を摂取したことは、新羅(しらぎ)や唐に往来したとする伝承にうかがうことができ、その終焉(しゅうえん)も唐もしくは虚空(こくう)に飛び去ったとされている。
﹇五来 重 2017年5月19日﹈
﹃五来重著﹃山の宗教――修験道﹄︵1970/新版・1999・淡交社︶﹄▽﹃和歌森太郎著﹃山伏﹄︵中公新書︶﹄
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役行者【えんのぎょうじゃ】
7世紀末に大和(やまと)の葛木(かつらぎ)山にいたという呪術(じゅじゅつ)者。役小角(えんのおづぬ)とも。︽続日本紀(しょくにほんぎ)︾によれば,役君小角(えのきみおづぬ)といい,秩序を乱したので699年に伊豆(いず)に流された。鬼神を使って家事を手伝わせたともいう。修験道(しゅげんどう)の祖とされ,山岳仏教のある各山に役行者の伝説が残る。坪内逍遥に同名の戯曲がある。
→関連項目金峯山寺|三仏寺|慈光寺|峰入り|室生寺
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役行者
(通称)
えんのぎょうじゃ
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 元の外題
- 役行者大峯桜
- 初演
- 宝暦1.11(京・中山座)
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世界大百科事典(旧版)内の役行者の言及
【優婆塞・優婆夷】より
…山岳・山林にいた修験者的な呪術者は〈優婆塞〉とも〈禅師〉ともいわれた。このような宗教者の典型は役小角(えんのおづぬ)([役行者])であり,彼は役優婆塞とよばれている。《日本霊異記》には沙弥・禅師とともに優婆塞に関する説話が多く出ている。…
【蔵王権現】より
…金剛蔵王菩薩ともいう。修験道の開祖[役行者]︵えんのぎようじや︶が金峰山︵きんぷせん︶の頂上で衆生済度のため祈請して感得したと伝える魔障降伏の菩薩で,釈迦仏の教令輪身。胎蔵界曼荼羅虚空蔵院の金剛蔵王︵こんごうぞうおう︶菩薩とは別体。…
【剣山地】より
…︻相馬 正胤︼
﹇剣山の信仰﹈
剣山はもとは石立︵いしだて︶山とよばれていたが,頂上にある宝蔵石という巨石の下に安徳天皇の剣を奉納して以来︿つるぎさん﹀とよぶようになったという。剣山は7世紀に[役行者]︵えんのぎようじや︶が開いたと伝えられるように,古くから修験道の霊山とされ,近年まで女人禁制が守られ,現在も先達に導かれた多くの信者が登拝する信仰の山となっている。剣山はその東西で信仰の趣が異なる。…
※「役行者」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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