デジタル大辞泉 「徳宗」の意味・読み・例文・類語 とく‐そう【徳宗】 ﹇742~805﹈中国、唐の第9代皇帝。在位779~805。代宗の子で、安史の乱後の財政再建のため、両税法を施行。書道に長じた。 清の光(こう)緒(しょ)帝(てい)の廟(びょ)号(うごう)。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
改訂新版 世界大百科事典 「徳宗」の意味・わかりやすい解説 徳宗 (とくそう)Dé zōng生没年:742-805 中国,唐の第9代皇帝。在位779-805年。姓名は李适。徳宗は廟号。代宗の長子として生まれ,安史の乱には天下兵馬元帥となり河北平定に当たった。即位後は宰相楊炎の献策により両税法を採用。財政をたて直し藩鎮勢力を削除しようとしたが,強硬にすぎて失敗,河朔三鎮︵盧竜,成徳,魏博︶は独立して王を称し,淮西︵わいせい︶節度使李希烈の乱に加えて,この鎮圧に徴した涇原の兵乱を招き,徳宗は奉天︵現在の乾県︶に逃れ,己を罪する詔を発して民心の収攬を図った。しかし藩鎮の跋扈に苦しみ,抑えることができずにその生涯を終えた。 執筆者‥藤善 真澄 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳宗」の意味・わかりやすい解説 徳宗とくそう(742―805) 中国、唐朝第9代の皇帝︵在位779~805︶。姓名は李适(りかつ)。第8代代宗の長子。母は睿真(えいしん)皇后沈氏。安史の乱に天下兵馬元帥として史朝義(しちょうぎ)を討って功をたて、764年皇太子、779年皇帝の位についた。翌年、宰相楊炎(ようえん)の議を入れ、租庸調制を廃して両税法を創始し、中国税制史上の一大改革を行い、財政の立て直しを図った。安史の乱後強大となった藩鎮(はんちん)を抑え、集権政治の回復を策したが、かえって藩鎮の激しい反撃にあい、一時奉天︵陝西(せんせい)省乾(けん)県︶に逃れた。多額の軍費は両税以外に雑多な諸税を生み、民衆の恨みを買った。それから徳宗は藩鎮に対して姑息(こそく)となり、奢侈(しゃし)の生活はかえって藩鎮からの寄進を歓迎し、他方、政治はほとんど宦官(かんがん)にまかせ、後の憲宗の対藩鎮強硬策の素地をつくった。 ﹇松井秀一﹈ 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
旺文社世界史事典 三訂版 「徳宗」の解説 徳宗とくそう 742〜805 唐の第9代皇帝︵在位779〜805︶ 第8代代宗の長子。安史の乱後の国勢を回復するため,宰相に楊炎 (ようえん) を登用し,780年,正税として両税法を施行,財政のたてなおしをはかった。また節度使の勢力を抑えようとしたが成功せず,晩年は宦官 (かんがん) の横暴に苦しめられた。 出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報