応仁文明の乱(読み)おうにんぶんめいのらん

改訂新版 世界大百科事典 「応仁文明の乱」の意味・わかりやすい解説

応仁・文明の乱 (おうにんぶんめいのらん)


1467-771-9西

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百科事典マイペディア 「応仁文明の乱」の意味・わかりやすい解説

応仁・文明の乱【おうにんぶんめいのらん】

 
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鹿  

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世界大百科事典(旧版)内の応仁文明の乱の言及

【紀伊国】より


[畠山氏の分裂と根来・雑賀衆]
 永享年間(1429‐41)には,高野山で学侶と行人の抗争が起こり,守護畠山氏の勢力にもかげりがみえてくる。1460年(寛正1),細川勝元に支援された政長によって義就が守護を罷免されて以降,畠山氏は両派に分裂し,紀伊国は河内・大和国とともに激しい抗争の舞台となり,これが応仁・文明の乱に発展した。50年間にもおよぶ畠山氏の抗争は16世紀初頭に終息するが,この間に勢力をたくわえてきたのが根来衆と雑賀(さいか)衆である。…

【斯波義廉】より

…義敏が大内氏の力を背景に一時家督を回復すると,義廉はただちに義父山名持豊を頼んで再び家督についた。この家督争いが応仁・文明の乱の一因となった。西軍に加わった義廉は,67年(応仁1)管領となったが,朝倉氏の勢力台頭によって衰えていった。…

【斯波義敏】より

…61年斯波家の家督を義廉に替わられた。66年(文正1)大内氏の助力によって3ヵ国守護職を回復するが,山名持豊を頼った義廉に再び奪回され,細川勝元を頼ることとなり,応仁・文明の乱の要因になった。乱の過程で衰えた斯波家は二度と興隆しなかったが,81年(文明13)斯波家嫡流の事跡を記した義敏作の《斯波家譜》は,その顕彰碑だったともいえよう。…

※「応仁文明の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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