改革開放(読み)カイカクカイホウ

デジタル大辞泉 「改革開放」の意味・読み・例文・類語

かいかく‐かいほう〔‐カイハウ〕【改革開放】

 
1978  

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「改革開放」の意味・わかりやすい解説

改革開放
かいかくかいほう

中国で1978年から開始された経済政策。鄧小平の主導により市場経済への移行が図られた。当初は「改革開放」という表現が明確に用いられたわけではなく、1979年の人民公社の解体に始まる農村の体制「改革」、対外「開放」政策を初めとして、それぞれ用いられるようになった。

[天児 慧 2018年4月18日]

改革開放路線への転換と鄧小平体制の確立(1978~1988年)

農村と沿海部から始まった改革開放

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鄧小平体制の確立

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党内対立の顕在化と経済改革の行き詰まり

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政治改革論議の高まりと胡耀邦失脚

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  2018418

改革開放路線の危機と南巡講話(1989~2007年)

第二次天安門事件と中国経済の低迷

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改革開放を再加速させた南巡講話

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  2018418
WTO加盟

1978年から始まった高度経済成長は1991年までは年平均9.3%であったが、1992年から2001年まではさらに伸びて10.4%を記録するまでになった。しかし投資の過熱による高インフレも起こり(1994年は24.1%を記録)、賃金改善を要求する労働者の増加、環境汚染の深刻化などが顕在化し、いよいよ経済成長は「天井」を迎えるかに思われた。しかし、21世紀に入っても経済は低迷するどころかいっそう成長のアクセルが踏まれたのである。

 その最大の理由は世界貿易機関(WTO)への加盟実現であろう。1994年以降、中国はWTOの前身であるガット(関税および貿易に関する一般協定)への加盟に本格的に乗り出したが、社会主義経済の国にどこまで資格があるか延々とした議論を余儀なくされた。しかし2001年11月、念願のWTO加盟が承認された。加盟によって、手続の不透明性や、契約・交渉の突然の変更や破棄、一方的な数量制限など、市場経済には不適合な国内の諸制度などの大幅な改善が見込まれ、そのうえ大幅な関税の引下げなども進み、経済の活性化が予測された。事実、直接投資の受け入れは大幅に増加した。2003年にアメリカを抜いて世界一の受け入れ国となり、同年には実行金額が過去最高の535億ドル、2004年には606億ドルにまで急増した。国内の外資系企業数も2004年までの累計でほぼ51万社に上った。WTO加盟による国際的圧力で国内の改革障壁を突破したといっても過言ではないであろう。これを国内的に支えたのが大量の農民工の出現であった。すなわち農村からの移動に制約があった農民たちが、大量の安価な労働力(農民工)として沿海都市に流入したことによって、外資系製造業が飛躍的に発展していった。国内総生産(GDP)は2002年9.1%増、2003年10.0%増とふたたび上昇し、2007年には14.2%増といった驚異の持続的成長を実現したのである。

[天児 慧 2018年4月18日]

成果と課題

世界第二の経済大国に成長

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  2018418
進まぬ国有企業改革と人民元改革

一方で、改革の核心ともいわれ続けてきた国有企業の改革は容易に進んでいない。朱鎔基時代に本格的に取り組まれたが、WTO加盟によって国際競争力が求められ、「抓大放小(そうだいほうしょう)」(大企業を優遇し、中小企業は市場に放つ)の方針が強調されるようになった。そのため大型基幹産業は政府の庇護(ひご)下で強化され、とくに江沢民(こうたくみん)時代に膨大な既得権益をもつようになった。石油派、石炭派、電力派、海外資源開発といったエネルギー部門、交通運輸部門、さまざまな経営を行う軍部などはそれらの典型である。習近平は就任直後から反腐敗闘争を呼びかけ、既得権益グループの有力者の打倒に力を注いだ。こうした反腐敗の試みが、真に既得権益層を打撃し、本格的な国有企業改革につながるか否かはまだ不透明である。

 低いレートで抑えられてきた人民元の切上げを含めた人民元改革の問題も、この間、頭を悩まし続けてきた課題である。人民元が切り上げられれば当然輸出にブレーキがかかり、中国経済の牽引車であった労働集約型産業が打撃を被る。人民元の国際化に向けた改革に踏み込まねば国際社会からの圧力も一段と強まるであろう。いかにして産業の構造転換を図り、切上げリスクを克服し国際経済におけるチャイナ・インパクトを強めるかが喫緊の課題になってきている。

[天児 慧 2018年4月18日]

高度成長の弊害――格差増大、環境破壊、少子高齢化



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  2018418
政治改革の停滞

加えて、政治改革の停滞問題がある。習近平指導部は2014年の第18期四中全会で「理論を貫徹し、整った法律規範システム、効率的な法治実施システム、厳密な法治監督システム、力強い法治保障システムを形成する」と力強く宣言した。もっともその大前提に「共産党による指導の下」という用語をつけることは忘れていなかった。そしてほぼ同じころから、法に基づいて不当な被害を受けている人々にさまざまな支援をしてきた弁護士、学者、専門家らを拘束、逮捕、投獄するといった強引な権力行使が頻繁に繰り返されるようになってきた。確かに1989年の天安門事件以来、鄧小平自身、政治体制改革の必要性・推進をいわなくなった。以後、胡錦濤・温家宝(おんかほう)の時代に「民主主義はよいもの、普遍的概念である」(兪可平(ゆかへい))といった主張がみられたが、民主化を進めるような制度的改革はほとんどみられなくなった。習近平政権は明らかに民主化に対する締め付けを行い、彼自身への集権化を進めている。とりわけ、2017年11月の第19回党大会前後で習近平を「党の核心」とし、習近平の冠のついた思想を党規約に盛り込み、彼への権威化、集権化は一段と進んだ。

 しかし、民主化を推進しようとする勢力が党内に存在していることは確かである。社会においても陰に陽に民主化につながるさまざまな活動が浸透している。締め付けが厳しくなるなかでのソーシャルメディアによるインフォーマルな「自由言論空間」の浸透も無視できない。それでも今のところ政治改革に関しては、党自身がシナリオを描くことができなくなった。加えて非共産党の勢力もなんらかの方向にまとまっていく様相もみえてこない。第2期政権の後、一段と習近平の独裁化が進むのか、それとも混沌(こんとん)とした状況が出現するのか、見通しのきかない時代に入っているのが現状である。

[天児 慧 2018年4月18日]

『丸川知雄著『現代中国経済』(2013・有斐閣)』

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百科事典マイペディア 「改革開放」の意味・わかりやすい解説

改革・開放【かいかくかいほう】

 
197019781211319791979︿19791975︿19794=1989調1993︿沿
 

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旺文社世界史事典 三訂版 「改革開放」の解説

改革開放
かいかくかいほう

鄧小平が進めた中国における経済改革政策
1978年以降中国においては鄧小平の指導のもと,資本主義的市場経済が導入された。具体的には経済特区・外資の導入などを行い,急速な経済成長を遂げ,中国独自の社会主義市場経済を形成してきた。1997年に鄧小平が死去したのち後を継いだ江沢民のもとで,この政策は継承され発展している。しかしその成長の陰で,農村における貧富の差の拡大や,大量の失業者が発生しているという問題点も存在する。

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