デジタル大辞泉
「日本武尊」の意味・読み・例文・類語
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日本武尊 (やまとたけるのみこと)
︽古事記︾︽日本書紀︾︽風土記︾などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第3皇子,母は播磨稲日大郎姫︵はりまのいなびのおおいらつめ︶とされ,幼名に小碓︵おうす︶命,倭男具那︵やまとおぐな︶王がある。年少にして勇武人にすぐれ,諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが,長途の征旅,漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されている。
ヤマトタケル物語の大要
︽古事記︾と︽日本書紀︾とでは叙述に相違があり,文学として後者は前者にはるかに及ばない。以下︽古事記︾にもとづいて物語を要約する。小碓命︵ヤマトタケル︶の兄の大碓︵おおうす︶命は父天皇の召し上げた乙女を盗み,ために朝夕の食事に参会しなかった。そのことを教えさとせと父から命じられたオウスは,兄が朝の厠︵かわや︶に入るところを捕らえ手足をひき裂いて菰︵こも︶に包んで投げ捨ててしまう。その勇猛に恐れをいだいた天皇は,オウスを西方の賊平定に派遣する。これがこの皇子の征旅と漂泊の生涯の発端である。まだ少年のオウスは女装して熊曾建︵くまそたける︶︵熊襲魁帥︶兄弟の宴席に入り,宴たけなわのときに兄弟を剣をもってあいついで刺し通した。虫の息のクマソが皇子をたたえてヤマトタケルの名を奉ったがオウスはそれを聞きおえるや否や,相手を熟苽︵ほぞち︶のように振りさいて殺したという。
ヤマトタケルとなった皇子はさらに各地の山の神,河の神,海峡の神を征し,出雲の出雲建を詐術で討ち,西方平定をしとげて天皇に復命した。しかし天皇は重ねて追い立てるように,東方十二道の荒ぶる神,王化に従わぬ者を征討せよと命じる。ヤマトタケルは出発にさいし伊勢の大神に参り,斎宮であるおばの倭比売︵やまとひめ︶命︵倭姫命︶から草那芸剣︵くさなぎのたち︶︵草薙剣︶と袋を授かるが,そのとき︿天皇はこの私に死ねというのだろうか,西方のいくさから帰りまだ時をへぬうちに軍勢も賜らずなお東国に遣わそうとする﹀と述べ,憂い泣いたという。東国においてもまつろわぬ神・人をことごとく平らげる。その間,相模国では国造︵くにのみやつこ︶に欺かれて野火に囲まれるが草那芸剣と袋の中の火打石によって難を逃れた。また走水︵はしりみず︶の海︵浦賀水道︶では,渡りの神の妨害にあい,后の弟橘比売︵おとたちばなひめ︶︵弟橘媛︶が皇子に代わって入水し神の心をなごめて船を進めることをえた。足柄の坂でヤマトタケルは三たび嘆いて︿あづまはや﹀︵わが妻よああ︶といい,それが︿あずま﹀の地名の起りとなったとされる。そこより甲斐,信濃を経て尾張に至り,往路に婚約した美夜受比売︵みやずひめ︶︵宮簀媛︶と結婚する。だがミヤズヒメのもとに草那芸剣を置いて伊吹山の神を討ち取りに出かけた皇子は,神の降らす氷雨に惑わされ,以後,当芸野︵たぎの︶,杖衝坂︵つえつきざか︶と進むにつれて疲れを増し,三重についたときは足が三重に曲がるほどの状態になる。やがて能煩野︵のぼの︶より大和の国をしのんで,︿倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭し美︵うるわ︶し﹀など3首の思国歌︵くにしのびうた︶をよむが,ここから病状があらたまり間もなくして世を去る。死後の皇子は︿八尋白智鳥︵やひろしろちどり︶﹀︵大きな白鳥︶と化して天がけり,葬を営む后や御子たちがその後を泣いて追った。白鳥は河内国の志幾︵しき︶にまで飛び,そこにヤマトタケルの墓,白鳥陵を築いたところ,さらに白鳥は天のかなたへ飛び去ったと伝える。
ヤマトタケル物語の意義
記紀の天皇記はまず神武天皇による大和の平定にはじまり,崇神天皇における祭祀の確立,垂仁代の部︵べ︶の設置などを経て,景行記に至り王権支配の全国的拡大を扱っていると見られる。ヤマトタケルの西征・東征譚はそうした枠組みに含まれており,諸方に設けられていた建部︵たけるべ︶なる軍事的部民の存在よりすれば,国内の政治的統一の過程における戦闘の諸経験がここに物語的に集約され,大和の勇者の意にほかならぬヤマトタケル像に典型化されたとすることもできる。ただ︽日本書紀︾のヤマトタケルはそうだとしても,︽古事記︾のそれはもっと独自な物語の主人公として造形されている。︽古事記︾はこの皇子を勇猛なるがゆえに天皇から疎外されたという父と子の対立緊張関係のもとにおいて描き,そこからヤマトタケルを一個の悲劇的英雄として形象する。皇子のヤマトヒメに述べた述懐は自己の運命に対する痛切な自覚を示しており,以後の皇子の足どりは征討というより,死によってしか終えることのできない流離・漂泊の旅となってゆく。その終焉近くよまれた思国歌の情調,また天空に飛び去る白鳥の姿はいずれもこの皇子の物語にふさわしい結末となっている。ヤマトタケルの漂泊と死には国家のもとにおける英雄的個人の運命を強く暗示するものがあり,そうした体制と人間の相克・矛盾をとらええている点に︽古事記︾ヤマトタケル譚の傑作たる理由があろう。
執筆者‥阪下 圭八
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本武尊
﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄の伝説で活躍する,景行天皇の皇子で,わが国の古代伝説の代表的英雄。﹃古事記﹄では倭建命(ヤマトタケルノミコト)。名は小碓命。別名,日本童男,倭男具那王。﹃常陸国風土記﹄では倭建天皇とも記す。﹃古事記﹄によれば,父の天皇から,食事に出てこなくなった,双子の兄の 大碓命 を諭せと命じられ,殺して筵に包み投げ捨ててしまう。乱暴を恐れた天皇に,熊曾建兄弟の討伐を命じられ,伊勢の斎宮で叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から衣裳を賜って九州へいき,女装して宴席に入り,兄弟を刺し殺し,そのとき弟から,ヤマトタケルの名を献上された。帰途に出雲(島根県)に寄り,出雲建(イズモタケル)を,友誼を結び油断させておいて,騙し討ちにして殺す。帰って報告するとすぐにまた,東国の征伐を命じられ,伊勢にいき,ヤマトヒメから 草薙剣 と袋を授かり,危急のとき袋の口を開いてみよと教えられる。尾張(愛知県)で美夜受比売(ミヤズヒメ)と婚約したのち,相模(神奈川県)で国造に欺かれ,野火に囲まれるが,草薙剣で周囲の草を刈り,袋の中にあった火打ち石で,逆に火を燃やして難を逃れる。房総半島(千葉県)に向け海を渡ろうとして,渡の神に妨害され,船が進まなくなり,后の弟橘比売が入水して,荒波を鎮めた。東征を果たして帰途に足柄の坂で﹁吾妻はや﹂といって后の犠牲を嘆き,それが東国を﹁吾妻﹂と呼ぶ起源になった。甲斐(山梨県),信濃(長野県)を経て尾張に帰り,ミヤズヒメと,月経の血で衣の裾が汚れていたのにかまわず,契りを結んだのち,草薙剣を彼女のもとに置き,伊吹山(滋賀,岐阜両県の県境)の神を素手で退治しにいったが,その神の毒気にあてられて重病になり,重い足を杖で支え,苦しみながら旅をして,三重の能煩野まで辿り着いたところで力尽き息絶えた。大和(奈良県)から后たちと子たちがやってきて,御陵を造り,泣きながら葬ろうとしたが,尊は八尋白智鳥に化して飛び翔り,后たちと子たちが懸命に追っていくと,河内の志幾(大阪府南河内郡)に留まった。そこでその地に白鳥陵を作り,鎮座させようとしたが,再び天翔り去ったという。 大略このような伝説は,全体が明らかに,典型的な英雄神話のパターンに則って構成されており,ギリシャ神話のヘラクレスとの類似は,ことに著しい。両者は共に,劣弱な双子の兄弟を持っているうえに,肉親(兄と実子)の殺害と,友誼を結んだ相手(イズモタケルとイピトス)に対する騙し討ちと,愛人(ミヤズヒメとイオレ)の色香への異常な耽溺が,それぞれの履歴の重要な結節点になっている。どちらも最後には毒に当たり非常に苦しんで死に,葬儀を受けたが昇天した。またヤマトヒメとアテナが両伝説で果たしている援助者の女神(神女)の役割にも,明らかに共通したところがあると思われるからだ。名古屋市の熱田区熱田神宮の相殿神であるほか,静岡県清水市の草薙神社や,焼津市の焼津神社などに祭られている。<参考文献>吉田敦彦﹃ヤマトタケルと大国主﹄
(吉田敦彦)
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日本武尊
やまとたけるのみこと
景行(けいこう)天皇の皇子で、仲哀(ちゅうあい)天皇の父。この皇子の像は﹃古事記﹄と﹃日本書紀﹄で大きな相違があり、われわれが悲劇的皇子の物語として感動を受けるのは前者であるが、後者では天皇支配の体制に適合する姿に修正されている。記では、皇子は臼(うす)を人格化した小碓命(おうすのみこと)の名で登場し、兄に食事に出席するように願えとの天皇の命令を取り違えて、兄を惨殺する。この豪勇を恐れた天皇は、熊襲建(くまそたける)の討伐に皇子を派遣し、16歳の皇子はおばの倭比売(やまとひめ)の衣装で女装して熊襲建に近づき、これを殺す。このとき倭男具那(やまとおぐな)と名のっていた皇子は、熊襲建から日本武尊の名を奉献される。そしてその帰途、出雲建(いずもたける)を偽刀(ぎとう)の計で倒し、山、川、海峡の神を服属させて帰還する。しかし帰京後まもなく今度は東征を命ぜられ、﹁天皇は私に早く死ねと思っておられるのか﹂と嘆きつつ伊勢(いせ)神宮に奉仕する倭比売を訪ね、剣と袋をもらって出発する。
東征では多くの困難が起こった。まず相模国造(さがみのくにのみやつこ)にだまされて野火の難にあい、また浦賀水道の神に航行を阻まれる。皇子は野火の難を倭比売から賜った剣で草を薙(な)ぎ、袋の中の火打石(ひうちいし)でこれに火をつけて逃れ、浦賀水道では愛する弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水(じゅすい)により死を免れる。だが東征の帰途、熱田(あつた)の宮簀姫(みやずひめ)のもとに伊勢の神剣を預け、素手で伊吹(いぶき)山の神に立ち向かった皇子は、神の正体を誤認したために大氷雨(おおひさめ)に打たれて深手を負い、伊勢の能煩野(のぼの)にたどり着いて死ぬ。物語はこのあたりから歌を交え、生と死の悲劇性を高めていくが、とくに、死後白鳥となって翔(かけ)り行く皇子を后(きさき)や御子(みこ)たちが追う終章は、この物語の白眉(はくび)である。
皇子がいくつかの名をもつことから理解されるように、この物語は多くの話がまとまって成立した東西平定の物語である。それは﹃古事記﹄のなかで、崇神(すじん)朝の国家体制の確立を受け、神功(じんぐう)皇后の朝鮮半島征服へと展開させる意味をもつが、われわれに与えるこの物語の感動は、父である天皇に遠ざけられて異域で死なねばならなかった皇子の死が語りかける、一人の人間の悲劇的生涯である。
﹇吉井 巖﹈
﹃吉井巖著﹃ヤマトタケル﹄︵1977・学生社︶﹄
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日本武尊
やまとたけるのみこと
日本の古代史における伝承上の英雄。﹃古事記﹄では倭建命と書く。﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄では景行天皇の皇子で,幼名をオウスノミコト︵小碓命︶という。武勇に優れていたため,父天皇の命による西方の熊襲征伐には童女に扮して川上梟帥︵かわかみのたける︶に近づきこれを討った。そのとき梟帥が,日本で最も強い男という意味からオウスノミコトに﹁日本武﹂皇子の名を奉ったという。しかしこれは一個人の名前ではなく,歴史的には何人もの﹁日本武﹂がいたものとみられる。その後オウスノミコトは東方の蝦夷平定に向かう途中,天叢雲剣︵あめのむらくものつるぎ。→草薙剣︶で野火の難をはらい,走水︵はしりみず︶の海では妃のオトタチバナヒメノミコト︵弟橘比売命︶の入水により海上の難を逃れたが,伊吹山で荒神を征伐中,伊勢国の能褒野︵のぼの︶で崩じたという。死後その霊は白鳥となり大和の琴弾原︵ことひきはら︶に渡ったので当地に陵をつくったが,さらに白鳥は河内の旧市邑︵ふるいちのむら。→古市︶に飛び去ったためそこにも陵をつくり,ともに白鳥陵と称したという。このように﹃日本書紀﹄は日本武尊の死を﹁崩﹂とし,墓を﹁陵﹂と記すなど天皇に準じており,また﹃常陸国風土記﹄では倭武天皇と記している。古市の白鳥陵古墳は古市古墳群の一部として 2019年世界遺産の文化遺産に登録。
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日本武尊【やまとたけるのみこと】
記紀における英雄伝説の主人公。景行天皇の皇子で,大碓(おおうす)皇子と双生児。小碓(おうす)尊,日本童男(やまとおぐな)とも。景行天皇の27年熊襲(くまそ)の川上梟帥(かわかみのたける)︵︽古事記︾では熊曾建兄弟とする︶を女装して討伐。40年東夷征討のため出発。途中伊勢神宮で倭姫(やまとひめ)命から天叢雲(あめのむらくも)剣を受け,駿河,相模,上総(かずさ),日高見国を平定。帰途尾張の熱田神宮の地に剣をとどめ,伊吹山の悪神のため病を得て,伊勢の能褒野(のぼの)で客死。大和朝廷発展期の数次の東西平定事業の集約的・抽象的人物とみられる。
→関連項目熱田神宮|熊襲|仲哀天皇|能褒野|本朝神仙伝
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日本武尊
やまとたけるのみこと
﹁古事記﹂では倭建命,本名は小碓(おうす)命。記紀伝承上の人物。景行天皇の皇子。母は皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなひのおおいらつめ)。大碓(おおうす)尊は双子の兄。景行天皇に命じられて九州南部の熊襲(くまそ)を平定し,さらに東国に派遣されて蝦夷(えみし)を討ち,帰途病をえて伊勢に没した。その間に草薙剣(くさなぎのつるぎ)の霊力や弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水,尊の死後その霊が白鳥と化するなどの話があり,とくに﹁古事記﹂には多くの説話がおりこまれる。大和政権による地方の平定を1人の勇者の物語として伝えたものと思われるが,﹁古事記﹂の説話が孤独な英雄として描き,人間性・文学性豊かなものであるのに対し,﹁日本書紀﹂は天皇の命をうけて征討の任にあたる国家の将軍として描いており,両者にはかなりの相違が認められる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
日本武尊 やまとたけるのみこと
仲哀(ちゅうあい)天皇の父。九州の熊襲(くまそ)の首長を攻めほろぼしたとき,熊襲から日本武尊の尊称をえる。のち伊勢(いせ)(三重県)にいた叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣(くさなぎのつるぎ)をさずかって東国の蝦夷(えみし)を平定,帰途伊勢の能褒野(のぼの)で病死したとされる。﹁日本書紀﹂によれば,このとき30歳。名は小碓(おうすの)尊。別名に日本童男(やまとおぐな)。﹁古事記﹂には倭建命とあり,名は小碓命。別名に倭男具那命。
︻格言など︼倭(やまと)は国のまほろばたたなづく青垣山隠(ごも)れる倭しうるはし(﹁古事記﹂)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
日本武尊
やまとたけるのみこと
﹃古事記﹄の表記は﹁倭建命﹂。景行天皇の皇子で,名は小碓尊 (おうすのみこと) 。熊襲建 (くまそたける) ・出雲建 (いずもたける) を討ち,さらに東征し,伊勢神宮の天叢雲剣 (あめのむらくものつるぎ) を授けられ蝦夷 (えみし) を征討。帰還の途上,伊吹山の悪神に敗れ,伊勢の能褒野︵能煩野︶ (のぼの) で病死,その霊は白鳥と化し大和に向けて飛び去ったという。大和政権の全国統一を一人の英雄に象徴したと考えられている。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の日本武尊の言及
【弟橘媛】より
…記紀の神話で[日本武尊](やまとたけるのみこと)の妃とされる女性。ヤマトタケル東征のおり,走水(はしりみず)の海(浦賀水道)の神が波浪をおこして行く手を妨げたところ,媛はみずから犠牲となって海中に入り船を進めることができた。…
【建部大社】より
…滋賀県大津市神領に鎮座。日本武︵やまとたける︶尊をまつる。創建年代不詳。…
【建部】より
…武部とも書き,︿たける﹀は勇者の意。︽日本書紀︾景行紀43年条には景行天皇が子の[日本武︵やまとたける︶尊]の功名を伝えるために建部を定めたとし,︽出雲国風土記︾出雲郡健部郷の条にも同様の伝承がある。また︽続日本紀︾延暦3年(784)11月条では,雄略朝に︿健部君﹀の名を賜ったとする。…
【倭姫命】より
…︽日本書紀︾垂仁朝に語られる伊勢神宮起源譚の主人公。垂仁天皇の娘,[日本武︵やまとたける︶尊]のオバにあたる。崇神朝に宮廷内からいったん倭の笠縫邑︵かさぬいのむら︶に遷されていた[天照大神]︵あまてらすおおかみ︶は,垂仁朝によりよき宮処を求めて東国諸国を遍歴した末,大和の東方伊勢度会︵わたらい︶の地に鎮座することになった。…
※「日本武尊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」