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「日立製作所[株]」の意味・わかりやすい解説
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日立製作所[株] (ひたちせいさくしょ)
日本を代表する世界有数の総合電気機械製造会社。1905年︵明治38︶久原房之助が赤沢銅山を買収し久原鉱業所日立鉱山と改称したが,08年に同鉱山内に鉱山用電気機械の修理工場が設置されたのに始まる。10年には同鉱山工作課長小平浪平がこれを日立に移転,日立製作所とした。12年,久原鉱業所の改組に伴い久原鉱業︵株︶日立製作所となる。当時,生産も修理も欧米に依存していた電気機械の国産化を目的として設立された。
1911年以降外部への供給も開始,第1次大戦中はヨーロッパからの輸入途絶で急速に拡大し,20年2月には久原鉱業︵株︶から分離独立して日立製作所となり,電気・産業機械メーカーとしての地歩を固めた。初代社長には小平が就任。昭和恐慌では,外国の大電機会社と提携している強みをもつ他の電機会社︵三菱電機や東京芝浦電気など︶が優位を確保していったのに対し,日立は創業以来の国内技術開発と国産化の基本線を守りつづけた。満州事変︵1931-35︶以降重工業化がすすんで日本の電機産業が確立されるが,日立のこの基本政策は,今度は逆に海外市場開拓で,技術提携上の制約がなく有利に働いた。またこのころになると業容も拡大し,重電機器,通信機器,車両・一般機械,弱電部門にまたがる一大総合電機会社に成長した。この間,軍需転換をすすめたが,親会社の日本産業︵株︶︵日産コンツェルンの中心をなす持株会社︶が日立を中心に機械製造部門を統合する方針から,日産所有の子会社を吸収合併させるなどしたため,第2次大戦終了時には関連企業80以上を支配する独立コンツェルン化していた。
戦後は,空襲による日立工場の全焼,過度経済力集中排除法による分割,小平の公職追放などから経営危機を迎えたが,倉田主税らの新指導層のもとで50年大合理化︵1949年12月日立争議発生︶を行い,また朝鮮戦争特需や51年以降の電源開発ブームもあって再発展に向かった。55年ころからは,すでに始まっていた家電ブームに乗るべく急速に家電部門に進出,この分野でも大手となり,さらに62年にはコンピューター部門を設置,また1954年ころから進出した原子力部門では66年にゼネラル・エレクトリック社︵GE︶とBWRタイプ原子炉で提携するなど本格化させた。コンピューター部門でも急速に力をつけ富士通とともにIBM社を追い上げている。日立は現在では,産業用から民生用までをカバーする日本最大の総合電機会社として,また日本有数の企業グループである日立グループの総帥として世界市場に進出している。資本金2820億円︵2005年9月︶,売上高9兆0270億円︵2005年3月期︶。
執筆者‥青木 良三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日立製作所(株)
ひたちせいさくしょ
総合電機のトップ・メーカー。1910年︵明治43︶久原(くはら)鉱業所日立鉱山工作課長小平浪平(おだいらなみへい)が茨城県日立町︵現日立市︶に鉱山用電気機械修理工場を設置したのに始まる。変圧器、電動機、発電機の製作を手がけ、しだいに外部にも供給するようになり、1920年︵大正9︶株式会社日立製作所として独立。ほかの財閥系電機会社が外国企業と資本、技術を提携したのに対し、日立は国産自主技術の方針で臨んだ点に特色があり、大正末以降、他社をはるかに上回る急速な企業成長を実現していった。さらに日中戦争期以降は軍需関連生産に転換しながら、重電機器、弱電機器、通信機器、一般機械、車両などにまたがる総合電機会社に発展し、関係会社も30社近くに上った。
第二次世界大戦後は旧経営陣の公職追放に加えて、1950年︵昭和25︶に5000人以上に及ぶ人員整理をめぐる3か月のストライキに直面したが、同年に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の特需で蘇生(そせい)。続く1951年以降の電源開発ブームによる発電機受注急増は、日立の戦後発展の基礎となった。1955年以降は﹁神武(じんむ)景気﹂にのって家庭電化ブームが出現したが、これに対して扇風機、洗濯機、冷蔵庫の工場を新設、拡充するとともに、テレビ、トランジスタラジオの生産を開始し、家庭電器部門を急速に拡大した。また1962年にコンピュータ事業部を設置、1964年に国産初の大型コンピュータHITAC(ハイタック)5020を完成させるなど電算機部門でも積極的経営戦略を推進した。1970年代以降は、エレクトロニクスを軸とした事業に力を注ぎ、半導体の増産やコンピュータのソフトウェア業務の拡大が目だつが、近年は、情報・通信システムが成長の原動力となっている。とくに研究・技術開発に定評があるとともに広範囲の関係会社を擁し、グループとしての総合力を発揮してきた。2003年︵平成15︶三菱電機と合弁で半導体会社ルネサステクノロジを設立。資本金2820億円︵2008︶、売上高2兆8073億円︵2008︶。
﹇中村青志﹈
﹃株式会社日立製作所編・刊﹃日立製作所史1~4﹄︵1960~85︶﹄
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
日立製作所
ひたちせいさくしょ
Hitachi, Ltd.
総合電機メーカー。多数の企業を傘下に収める日立グループの中核企業。幅広い分野にわたる電気機器類を生産する日立グループの中で,おもに情報・通信システム,社会・産業システム,電子装置・システムセグメント製品の製造および販売・サービスを行なう。1910年設立の久原鉱業所日立鉱山の修理工場を前身として,1920年に設立。その後数多くの合併,吸収を経て発展。1956年電線部門を分離して日立電線,鉄鋼部門を分離して日立金属工業︵現日立金属︶設立,1963年化学製品部門を分離して日立化成工業︵現日立化成︶へ譲渡。1976年照明器具部門を分離して日立照明を設立。1995年日立家電を吸収合併した。1999年事業グループを再編。2002年家電部門を分離して日立ホーム・アンド・ライフ・ソリューション︵今日の日立アプライアンス︶を設立,また,産業機器部門を分離して日立産機システムを設立した。2004年トキコ,日立ユニシアオートモティブを合併。2016年日立メディコ,日立アロカメディカルを合併し,ヘルスケア事業を強化。そのほかアメリカ合衆国のゼネラル・エレクトリックやジョンソン・コントロールズ,三菱重工業など多くの企業と合弁会社を設立している。
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日立製作所
ひたちせいさくしょ
総合電気機械企業。1910年(明治43)久原鉱業所日立鉱山工作課長の小平(おだいら)浪平が付設電気機械製作工場を新設,12年(大正元)同工場は久原鉱業株式会社日立製作所と称した。18年久原鉱業佃島製作所を併合して亀戸工場とし,20年久原鉱業から分離独立して株式会社日立製作所となる。翌年日本汽船笠戸造船所を買収して笠戸工場とし,鉄道車両生産に進出。昭和初期にはドイツから蒸気タービン技術を導入,火力発電部門にも進出。第2次大戦後は事業の一部分割を余儀なくされたが,電源開発ブームによって立ち直り,高度成長期以降は家電・エレクトロニクス部門の相次ぐ拡張によって急成長した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
日立製作所
正式社名「株式会社日立製作所」。英文社名「Hitachi, Ltd.」。電気機器製造業。明治43年(1910)「久原鉱業所日立鉱山」の修理工場として発足。大正9年(1920)設立。本社は東京都千代田区丸の内。総合電機・重電メーカー。国内最大手。主に情報通信システムや電力・産業システム、民生機器などの製造・販売を行う。東京証券取引所第1部・名古屋証券取引所第1部上場。証券コード6501。
出典 講談社日本の企業がわかる事典2014-2015について 情報
日立製作所
情報通信、家庭電化、重電などの機器を製造・販売する総合電機メーカー。1910年創業。会社設立は1920年。現在、「Prius」シリーズおよび企業向けパソコン「Flora」シリーズなどを販売している。外部リンクhttp://www.hitachi.co.jp/
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典ASCII.jpデジタル用語辞典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の日立製作所[株]の言及
【勝田】より
…旧市域の大半は那珂台地に開け,畑地と平地林がめだち,南縁部を那珂川が流れる。1939年,日立製作所の鉄道車両,製鋼部門が立地,軍需工場として急速に拡大して工業都市化を促した。第2次世界大戦後,経済の高度成長下に日立製作所とその傍系の電気機器,自動車機器などの工場進出もめだち,工業団地の造成,従業員増加に伴う住宅地化も進み,常磐線勝田駅を中心とする商業地区も成立した。…
【機械工業】より
…さらに芝浦製作所(現,東芝の前身)も1909年にGEに資本の4分の1を,また1899年設立の日本電気はウェスタン・エレクトリック社と,1923年設立の富士電機製造(現,富士電機)はドイツのジーメンス社と,同じく三菱電機はアメリカのウェスティングハウス・エレクトリック社といずれも資本提携をして技術導入をせざるをえなかったのである。ただ1908年,日立鉱山の電気機械修理工場として設置され,後に1920年に独立した[日立製作所]のみは,大手企業のうち外国資本と結合をもたない唯一の企業であった。 この電気機械工業の生い立ちにみられるように,遅れて出発した日本の機械工業は,まず輸入品によって国内市場が開発され,その国産化のために外国の技術・資本の導入を余儀なくされ,外国技術を模倣し〈体得消化〉するという過程をたどることとなったのである。…
【コンピューター産業】より
…60‐61年ころになると,パラメトロンはトランジスターに比べ速度が遅く消費電力が大きいため,コンピューターの回路素子に用いられなくなり,回路素子の主流はトランジスターとなった。トランジスター式コンピューターは59年に東芝のTOSBAC2100型,[日立製作所]のHITAC301型,[日本電気]のNEAC2203型が開発され,60年沖電気工業のOKITAC5090型,61年[富士通]のFACOM222型が開発され,これらは証券会社や商事会社,生命保険会社などに納入された。なかでも1960年完成の日本最初のオンライン・リアルタイム・システムである国鉄の自動座席予約装置,MARS‐1は,最新のコンピューター利用法として評判が高かった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」