明智光秀(読み)アケチミツヒデ

デジタル大辞泉 「明智光秀」の意味・読み・例文・類語

あけち‐みつひで【明智光秀】

 
15281582()()101582()
131938  

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精選版 日本国語大辞典 「明智光秀」の意味・読み・例文・類語

あけち‐みつひで【明智光秀】

 

(一)()()祿
 

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改訂新版 世界大百科事典 「明智光秀」の意味・わかりやすい解説

明智光秀 (あけちみつひで)
生没年:1528?-82(享禄1?-天正10)


157127537980西1579811573808182561223


︿使︿17991118001808

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明智光秀」の意味・わかりやすい解説

明智光秀
あけちみつひで
(?―1582)


()()()()()()()()()15712()()()157536()11()1576()()()4157915825西()()()62()()()135557()()調



寿19581973

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朝日日本歴史人物事典 「明智光秀」の解説

明智光秀

 
10.6.13(1582.7.12)
1?(1528)
,,,11(1568),,12(),,1(1570),,2,3,1(1573),2,,,38 西,,,,,,,,84,9,98,,104,,西,,(),6113000,,,,(),613,,<参考文献>寿  
()
 

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百科事典マイペディア 「明智光秀」の意味・わかりやすい解説

明智光秀【あけちみつひで】

 
()()()1582
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明智光秀」の意味・わかりやすい解説

明智光秀
あけちみつひで

 
[]1(1528).
[]10(1582).6.13. 
3 (1575) 9 (1566) 2 (1571) 51062 ( ) 13 ()   

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「明智光秀」の解説

明智光秀 あけち-みつひで

1528-1582 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)元年生まれ。細川ガラシャの父。美濃(みの)(岐阜県)の土岐氏の一族とされる。故実,典礼に通じた教養ゆたかな武将で,はじめ朝倉義景(よしかげ)につかえ,のち織田信長の家臣となって足利義昭の上洛に尽力。義昭や寺社,公家との交渉役をつとめる。元亀(げんき)2年近江(おうみ)坂本城主となり,惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称した。丹波攻略などに功をたて,亀山城主となる。天正(てんしょう)10年信長を本能寺に討つが,羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れて逃走中の6月13日農民に殺された。55歳。通称は十兵衛。
【格言など】仏の嘘(うそ)をば方便といい,武士の嘘をば武略という。是を以て之を見れば,土民百姓は可愛きことなり

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「明智光秀」の解説

明智光秀
あけちみつひで


?1582.6.13

1568(11)71(2)75(3)()7982宿()()()()

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旺文社日本史事典 三訂版 「明智光秀」の解説

明智光秀
あけちみつひで

?〜1582
安土桃山時代の武将
通称十兵衛。美濃(岐阜県)の守護土岐氏の一族。織田信長に仕え,1571年近江坂本に築城,近江国を領有し,日向守となった。'79年丹波の波多野氏を討ったが,この際の処置を信長にきびしく叱責された。'82年信長の中国攻めの途中,本能寺にこれを攻めて自殺させたが,豊臣秀吉との山崎の戦いに敗れ,敗走の途中,農民に殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の明智光秀の言及

【織田信長】より

…そして翌82年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入,武田勝頼を田野に敗死させ,信濃・甲斐・上野に部将を分封して国掟を与えた。ついで神戸信孝らに四国征伐を命じ,6月中国征伐の指示を与えるため上洛し本能寺に宿泊したところを明智光秀に急襲されて2日朝自殺,信忠も二条城で敗死した(本能寺の変)。 織田政権の軍事的特質は加地子(かじし)領主として農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し,鉄砲・長槍で武装,専業武士団として機動性を与えたところにあった。…

【亀山】より

…口丹波の交通の要地。地名の起りは1579年(天正7)明智光秀が築城して亀山城と名付けたことによる。城郭は大堰川右岸の台地にあり,城下町はその南部に建設されたが,人家を移住させた柏原(かせばら),三宅,古世などの9ヵ村を母体に,惣外堀内に取り込んだ城下町16町と城下外の4町で構成された。…

【時桔梗出世請状】より

…1808年(文化5)7月江戸市村座初演。先行の浄瑠璃《祇園祭礼信仰記》《三日太平記》《絵本太功記》などに拠りながら武智光秀(明智光秀)が主君小田春永(織田信長)を本能寺で討つまでの経緯を主軸に脚色した作品(太閤記物)。序幕は祇園社拝殿から饗応仮御殿までの5場で,光秀が蜘蛛の振舞いを見て怪しむくだりは饗応仮屋の木戸前の場,春永が蘭丸に鉄扇で光秀の眉間を割らせるのが饗応仮御殿の場。…

【福知山[市]】より

…平安時代末期から中世にかけては皇室領六人部(むとべ)荘,松尾社領雀部(ささいべ)荘など,いくつもの荘園が置かれていた。1579年(天正7)に明智光秀が横山城を改修して福智山城と名付け(のち福知山と改める),城下町が形成された。また京都や綾部,山陰と結ぶ街道の宿駅,由良川の河港として水陸交通の要衝であった。…

【細川ガラシャ】より



【本能寺の変】より

…1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は,とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ,みずから近臣を伴って5月29日上洛した。…

【山崎の戦】より

…1582年(天正10)6月13日羽柴(豊臣)秀吉,織田信孝らが山城乙訓郡山崎付近で明智光秀を破った戦い。備中高松城を攻囲中に本能寺の変を知り直ちに毛利氏と講和,6日播磨姫路に帰った秀吉は,摂津の諸将を糾合して富田に着陣,信孝らの兵を合わせ,軍を山手,中手道筋,川手の三手に分け13日進撃し,一方これより前に山崎の天王山を占領させていた。…

※「明智光秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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