枢密院(読み)スウミツイン(英語表記)privy council
conseil du roi[フランス]
Staatsrat[ドイツ]

デジタル大辞泉 「枢密院」の意味・読み・例文・類語

すうみつ‐いん〔‐ヰン〕【枢密院】

 
1211888221947
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精選版 日本国語大辞典 「枢密院」の意味・読み・例文・類語

すうみつ‐いん‥ヰン【枢密院】

 

(一)  
(二) 
(一)[] (107273)
(三) 1884
(四) ()1888
 

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改訂新版 世界大百科事典 「枢密院」の意味・わかりやすい解説

枢密院 (すうみついん)
privy council
conseil du roi[フランス]
Staatsrat[ドイツ]




 18884︿︿使12189025調

 ︿1898退219000309221917調3調調22便便調西19163419252730調退21947

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「枢密院」の意味・わかりやすい解説

枢密院(日本)
すうみついん

明治憲法体制下の国政に関する天皇の最高諮問機関。1888年(明治21)大日本帝国憲法草案審議などのために創設され、翌年発布の明治憲法第56条で「枢密院官制ノ定ムル所ニ依(よ)リ天皇ノ諮詢(しじゅん)ニ応(こた)ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と規定された。創設者伊藤博文(ひろぶみ)らの意図は、議会開設後に予想される政府=藩閥官僚と、議会=政党との対立、紛議の調停者として枢密院を機能させることにあった。構成は議長、副議長、顧問官、書記官長、書記からなり、内閣総理大臣、国務各大臣および丁年に達した親王は会議に出席し評決に加わることができた。顧問官は12名以上とされたが、1890年には25名となり、1913年(大正2)以来24名となった。顧問官は「元勲及ヒ錬達(れんたつ)ノ人」とされたが、多くは官僚が任命された。諮問事項は枢密院官制第6条で、(1)憲法および憲法付属法令の改正案、(2)重要な勅令、(3)外国との条約および行政組織計画、(4)その他とくに諮問された事項、などとされた。会議は天皇の諮問をまって開かれ、審査委員会で審議し、審査報告書を本会議に提出し、審議のうえ決定し、天皇に上奏した。その後1900年(明治33)に山県有朋(やまがたありとも)内閣は政党勢力の官僚機構への侵食を防ぐため御沙汰(ごさた)書をもって、諮問事項に内閣各省官制、文官任用令など官僚組織に関する勅令および教育に関する勅令などを加えて、枢密院の権限を強化して官僚の牙城(がじょう)とした。

 枢密院は「施政ニ干与スルコト」を禁じられていたにもかかわらず、政党内閣が出現すると、政府の法案に意見を付け加えたり、異なった決定をすることにより政府と対立した。1925年(大正14)の普選法制定に際しては治安維持法との抱き合わせを図り、27年(昭和2)には台湾銀行救済の緊急勅令を否決して若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣を倒し、30年のロンドン軍縮条約批准に際しては浜口雄幸(おさち)内閣を攻撃するなど、きわめて政治的な役割を果たした。31年の満州事変以後、政党勢力が後退するとその役割は低下した。第二次世界大戦敗戦後の47年(昭和22)日本国憲法施行に伴って廃止された。

[由井正臣]

『美濃部達吉著『枢密院論』(『現代憲政評論』所収・1930・岩波書店)』『朝日新聞政治経済部編『枢密院問題』(『朝日政治経済叢書5』1930・朝日新聞社)』『諸橋譲著『明治憲法と枢密院制』(1964・芦書房)』


枢密院(イギリス)
すうみついん
Privy Council


1314217

 

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百科事典マイペディア 「枢密院」の意味・わかりやすい解説

枢密院【すうみついん】

 
1888124019201947
 

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「枢密院」の解説

枢密院
すうみついん

枢府とも。大日本帝国憲法下の天皇の最高諮問機関。憲法草案審議のため1888年(明治21)4月30日設置。議長・副議長各1人および枢密顧問官12人(のち増員)がおかれた。同年5月~89年2月に明治天皇親臨のもと憲法・同付属法令・皇室典範の草案を審議した。天皇の諮問に応じて重要国務を審議するものとされ,90年改正の枢密院官制により,諮詢(しじゅん)事項は皇室典範に関する事項,憲法やその付属法令の草案や疑義,戒厳の宣言や緊急勅令の発布,列国との条約の締結などで,のちに重要な官制や文官任用などに関する勅令も諮詢事項に加えられた。議長・副議長・顧問官のほか国務大臣も会議に出席し表決に加わった。議長は初代伊藤博文以下,藩閥政治家の有力者が任命されたが,1920年代後半以降,学者出身者の任命も増加した。施政に関与しないものと定められていたが,政党政治が行われるようになると,官僚派の牙城としてしばしば内閣と対立した。27年(昭和2)には金融恐慌のさなか台湾銀行救済の緊急勅令案を否決し,第1次若槻内閣(憲政会)を総辞職に追いこんだ。民意に反するものとして批判の対象となり,敗戦後の47年5月2日,日本国憲法の施行を前にして廃止された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「枢密院」の解説

枢密院
すうみついん

 

18881947  

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旺文社世界史事典 三訂版 「枢密院」の解説

枢密院
すうみついん

 

51 () 使 ()  () 923 ()   

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「枢密院」の解説

枢密院(すうみついん)


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世界大百科事典(旧版)内の枢密院の言及

【行政裁判】より

…とくに高等法院は,判決の形式で一般的な立法をなすことのできる権限や法令の登録権によって,国王の試みる改革的立法を妨害してきた。こうした状況のもとで国王は官僚機構の権限の拡大に努めるとともに,行政事件に関する裁判権を国王顧問会議(コンセイユ・デュ・ロアConseil du Roi)にゆだねたのであった。これがフランスにおける行政裁判の端緒といわれる。…

【イギリス】より


cabinetcabinetPrivy Council2

【カナダ】より






 ︿1867︿1982

【軍制】より

…ときに100万をこす膨大な禁軍によって中央,地方,辺境の軍隊が構成され,軍権は皇帝の手に一元的に集中した。軍政の元締めは枢密院であり,軍隊は三軍(殿前司・侍衛馬軍司・侍衛歩軍司)に分かれ,それぞれ都指揮使・副都指揮使・都虞候らが指揮にあたった。地方の要地に経略使,安撫使など高い肩書の官が置かれたが,これは文官の兼任するものであった。…

【元】より


【制度】
 初期モンゴル帝国の統治機構は多分に粗放なものだったから,それを具体化した官制もきわめて簡単である。中央政府としては,ハーンのオルドに近侍するケシク(宿衛)の隊長がのちの枢密院使(軍政長官)と宰相とを兼任するほか,別に司法長官に相当するジャルグチ(断事官)が加わって構成されるだけであった。地方官制も太祖元年(1206)の制定にかかる千戸制(88功臣をもって95の千戸が任命された)に基づいて,これまた軍民兼領の千戸長Mingghan・百戸長Jaghunがモンゴル系・トルコ系遊牧民の統治を担当するものだった。…

【権限争議】より


(KompetenzKompetenz)() (61)(20)(45)()(761281)

【枢密使】より

…唐代に宮中で内枢密使が任命され,表面にあらわれない形で軍事関係の謀議に参画して権力を振るった。五代になると表にあらわれて公式の機関として枢密院が設置され軍事に関するいっさいを扱い,行政全般を掌握する中書と併立し,あわせて二府と称された。枢密院の官僚は,五代以降普通の官僚が任命され,宋代では文官が任命され,その長官が枢密使,次官が枢密副使であったが,長官が知枢密院事と称されるときには次官は同知枢密院事,さらにその下が簽書(せんしよ)枢密院事と称された。…

【宋】より


 使使

【内閣】より



沿
 19Privy Council17cabinetcabinet council

※「枢密院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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