デジタル大辞泉
「楽焼」の意味・読み・例文・類語
らく‐やき【楽焼(き)】
1手(てづ)捏(く)ねで成形し、低火度で焼いた軟質の陶器。天正年間︵1573~1592︶京都の長次郎が千利休の指導で創始。赤楽・黒楽・白楽などがある。2代常慶が豊臣秀吉から﹁楽﹂の字の印を下賜されて楽を家号として以降、楽家正統とその傍流に分かれ、前者を本窯、後者を脇窯という。聚(じゅ)楽(らく)焼き。楽。
2 一般に、素人が趣味などで作る、低火度で焼いた陶器。
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らく‐やき【楽焼】
(一)〘 名詞 〙
(二)① 陶器の一つ。千利休の指導を得て京都の長次郎が創始した茶器。豊臣秀吉から﹁楽﹂の印を賜わってから、家号としてこれを用いる。中国の交趾焼の技術をもとに、手捏(てづく)ねで成形し、低い火度で焼きあげたもので、釉薬の色から白楽・黒楽・赤楽などの呼び名がある。聚楽焼。︹雍州府志︵1684︶︺
(三)② ①と同系の低い火度の釉薬を用いて、素人などが趣味で作る焼物。
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楽焼
らくやき
日本の陶器の一作種。楽焼はいわば普通名詞としての楽焼と、固有名詞としての楽焼とに大別される。普通名詞の楽焼とは、手捏(てづくね)で成形し、軟陶胎の素地(きじ)に鉛釉(ゆう)を用いて上絵付(えつけ)する三彩の一種で、800℃内外の焼炎で焼き上げた低火度施釉陶である。これには楽しみの焼物という意味も含まれ、趣味の焼物として広く愛好されている。
固有名詞としては、京都の茶陶窯である楽焼をさす。創始期の桃山時代には聚楽(じゅらく)焼と称されており、のちに楽焼とよばれるようになった。豊臣(とよとみ)秀吉が1586年︵天正14︶京都で建立に着手した聚楽第の御庭(おにわ)焼が、その発祥ではないかと推測される。瓦師(かわらし)の長次郎を祖とする楽焼は1574年︵天正2︶にその活動が知られ、86年のときには、﹃松屋会記(まつやかいき)﹄に﹁宗易(そうえき)形の茶碗(ちゃわん)﹂の記述が認められる。これは、千利休(せんのりきゅう)︵宗易はその号︶が好尚をもった茶碗を長次郎に焼かせて、侘(わ)びの茶の湯にふさわしい茶碗の一つの象徴を具現したといってよい。半筒形の独特の形で、赤土に透明性鉛釉を施す赤楽(あからく)釉、赤土か白土に鉄呈色の鉛釉を施し、焼成中に一挙に窯から引き出してしまう黒楽釉のほか、緑釉、黄釉も用いて一家流をなした。茶碗のほか香炉、水指(みずさし)、食器なども焼いたが、その技術は、16世紀にかなり輸入されて珍重されていた南中国製の三彩陶︵当時は交趾(こうち)焼とよんだ︶に従っていたことは疑いない。
創始期の楽焼の工房は、長次郎以外にも宗慶(そうけい)、宗味(そうみ)、庄右衛門(しょうえもん)、吉左衛門、常慶らが参加していたことが1688年︵元禄1︶の楽家文書にみえる。宗慶は田中姓で、その子常慶が楽家2代目を相続したが、1635年︵寛永12︶に常慶が没し、その長男吉兵衛道入(どうにゅう)︵俗称のんこう︶が3代目を継ぎ、長次郎の古典を破って即妙な名碗を焼き、茶碗づくりの道統を展開させた。その後は一入(いちにゅう)、宗入、左入、長入、得入、了入、旦入(たんにゅう)、慶入、弘入(こうにゅう)、惺入(せいにゅう)、覚入と続き、当代吉左衛門は15代になる。楽家が田中姓を改めて現行の楽姓を名のる時期は判然としないが、5代宗入︵1664―1716︶のころと推測される。
楽家の茶碗づくりは、脇窯(わきがま)とよばれる支流を生んでいる。江戸初頭の天下の数寄者(すきしゃ)である本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)・光甫(こうほ)︵祖父と孫︶は脇窯とはされないが、楽家との交流のなかから楽焼茶碗中の珠玉の名作をつくった家職としての脇窯には、一入の庶子弥兵衛(やへえ)が京都府綴喜(つづき)郡井手(いで)町玉水(たまみず)に築いた玉水焼、また、大樋(おおひ)長左衛門が1666年︵寛文6︶に金沢の卯辰(うたつ)山山麓(さんろく)に開いた大樋焼があり、この二つが脇窯の代表的存在とされている。
﹇矢部良明﹈
﹃赤沼多佳編﹃日本陶磁全集21 楽代々﹄︵1976・中央公論社︶﹄
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楽焼 (らくやき)
ろくろを用いず手づくねによって成形され,家屋内の内窯︵うちがま︶と呼ばれる小規模な窯で焼かれた施釉陶器。焼成温度は比較的低い。作品の多くは茶碗で,ほかに水指︵みずさし︶,向付︵むこうづけ︶,香合などの茶器も焼かれている。本来楽焼は,京都の陶工長次郎に始まる楽家歴代︵本窯︵ほんがま︶と呼ぶ︶の作品と,楽家の作陶法をある時期にうけついだ脇窯︵わきがま︶,さらに楽家の窯を基本として各時代の茶人が手づくねによって造った別窯︵べつがま︶の作品をいうが,広義には京都の諸窯や各地の御庭焼︵おにわやき︶で焼造された同質の陶器を,すべて楽焼と呼んでいる。脇窯には道入の子が山城国綴喜郡玉水︵たまみず︶でひらいた玉水焼︵玉水楽︵たまみずらく︶︶,道入の弟道楽の道楽焼,楽家4代一入︵いちにゆう︶の弟子大樋︵おおひ︶長左衛門が金沢にひらいた大樋焼などがあり,別窯では本阿弥光悦,光甫らの作品がある。
長次郎は千利休の創意をうけて楽焼を始めたとされ,その技法は長次郎の作品中にみられる三彩の器から推して,中国の交趾焼︵こうちやき︶の流れをくむものと考えられている。現存する楽焼のもっとも早い例は,天正2年︵1574︶の銘をもつ赤楽の獅子像であるが,楽茶碗の創始された時期は,天正年間︵1573-92︶の中ごろと考えられている。長次郎を初代とする楽家歴代は,2代常慶-3代道入︵のんこう︶-4代一入-5代宗入-6代左入-7代長入-8代得入-9代了入-10代旦入-11代慶入-12代弘入-13代惺入-14代覚入であるが,初代長次郎といわれる代には,ほかに宗慶,宗味︵そうみ︶などの人物が含まれている。なお今日,専門の陶工以外の人々に趣味的につくられる低火度焼成のやきものも楽焼と呼んでいる。
執筆者‥赤沼 多佳
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楽焼【らくやき】
轆轤(ろくろ)を用いず手づくねによって成形され,低温度で焼かれた施釉陶器。茶碗が大部分で,皿,向付,水指等もあるが雑器はない。天正年間田中長次郎︵長次郎︶に始まり,2世常慶︹?-1635︺のとき豊臣秀吉から天下一の称号と︿楽﹀の印を与えられた。以後代々業を継ぎ,現在14世。この系統を本窯と称し,一族の玉水焼,道楽焼,大樋焼などは脇窯という。ほかに本阿弥光悦,空中,尾形乾山らの作陶もある。現在では専門の陶工以外の人が趣味で作る手づくりの焼物もいう。
→関連項目釉|茶碗|のんこう|リーチ
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楽焼
らくやき
ろくろを用いず手作りで成形した低温焼成の軟質陶器で,特に楽家の茶陶をさす場合が多い。水差し,向付 (むこうづけ) ,皿などもあるが茶碗が主。通常は黒楽と赤楽の2種類。天正7 (1579) 年頃,千利休の指導によって初代長次郎が創始し,聚楽焼と呼ばれた。楽焼の名は2世常慶が豊臣秀吉から﹁楽﹂字の印を与えられ,3世道入 (俗称ノンコウ) からこれを高台 (こうだい) 内に押印したのに始る。道入時代から焼成火度が高まり釉 (うわぐすり) に光沢が現れ,器形や施釉法にも変化が目立つようになった。道入以前を﹁古楽﹂と呼ぶこともある。道入以後,楽家は現在の15世まで業を継いでいる。また楽焼にはこの本窯のほか,脇窯として楽一族の玉水焼,道楽焼,宗味焼などがあり,別窯として本阿弥光悦,本阿弥光甫,尾形乾山などの作陶がある。なお,しろうとが作る焼成度の低い焼物も,一般に楽焼と呼ばれる。
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楽焼
らくやき
京都楽家の茶陶をさすが,広くは同じ系統の焼物の総称としても用いられる。聚楽(じゅらく)焼という称もあるため,聚楽第の御庭(おにわ)焼と推測する説もある。長次郎を祖とし,千利休(せんのりきゅう)の指導をうけて鉛釉を使った黒楽・赤楽の茶碗を創始したのは1586年(天正14)頃である。以後現代まで,千家の美意識に従った茶碗を作り続けている。同じ技で楽茶碗を作る脇窯(大樋(おおひ)焼・玉水(たまみず)焼など)も楽焼の支流で,各地に窯があった。鉛釉の陶器を広く楽焼ともいう。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
楽焼
らくやき
低温度で焼かれた手づくりの陶器で,茶碗・茶入・水指などがある。初代長次郎に始まり,2代目常慶が豊臣秀吉から﹁天下一﹂の称号と楽字の金・銀印を与えられて楽姓を称し,千利休の指導ですぐれた茶陶を生んだ。江戸初期にでた3代目道入は﹁のんこう﹂と称され,本阿弥光悦の影響で独特な軽妙さを示し,以後代々個性的な作風で有名。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の楽焼の言及
【長次郎】より
…1516年(永正13)京都に生まれたとする説もあるが,明らかではない。楽焼︵らくやき︶の創始は千利休の創意によるもので,天正年間(1573‐92)中ごろには長次郎によって作られたとされている。伝世する作品は意外に多く,黒楽,赤楽の茶碗を主に飾瓦,香炉,皿,焙烙︵ほうろく︶などがあるが,ことに茶碗では作行きの違いによっていくつかのタイプに分けられる。…
【陶磁器】より
… 締焼陶の世界では前代の系譜を引いて,壺,甕,擂鉢の3種を中心に日常雑器生産に終始しているが,備前と信楽では早く16世紀中葉から,侘茶の影響を受けて美濃と共通した造形がみられ,締焼陶独特の素地を生かした茶陶が焼かれている。伝統的な窯業地以外では新たに天正年間(1573‐92)に興った京都の[楽焼]がある。長次郎を祖とする楽焼は交趾︵こうち︶焼の流れを引く低火度焼成の施釉陶であり,千利休の好みを反映した茶陶である。…
【本阿弥光悦】より
…【郷家 忠臣】 光悦の作陶は,1615年鷹ヶ峰の地を拝領してからと考えられている。伝世する作品はおもに楽焼の茶碗で,光悦の手紙によれば,楽家の赤土,白土をとりよせ,あるいは楽家に釉を掛けさせて焼かせるなど,光悦の作陶は楽家2代常慶,3代[道入]親子の助力を得ておこなわれている。また太衛門という陶工にあてた手紙が現存しており,楽家以外の大窯(おおがま)にも作品を焼かせたようすがうかがわれる。…
※「楽焼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」