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「江蘇省」の意味・読み・例文・類語
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江蘇[省] (こうそ)
Jiāng sū shěng
中国東部の沿海地帯,長江︵揚子江︶下流の省名。全面積は10万2600km2。人口7304万︵2000︶。この中には中央直轄の上海市の分は含まれていない。13地級市,31県級市,33県からなり省都は南京市。山東・浙江・安徽の3省と隣接し,全国総面積の1.05%に当たる。平原部が68%を占め,丘陵地がきわめて少なくわずか15%であるのに対し,河川湖沼の面積が17%にものぼるのは他に例をみない。人口密度の高いことも全国第一で,世界最高の稠密な地域の一つである。1km2当り693人,長江三角州はとくに密度が高くて平均800~1000人,なかには1000人を超えるところもある。古くは華北からみると後進地域で,とくに海岸地帯や長江三角州の開発は新しい。それが2~3世紀のころから北方の漢民族の移住が活発になって,年とともに繁栄し経済・文化の上で華北をしのぐようになったのである。
河川,湖沼のひろがる沢国
平原部は黄淮平原,江淮平原,東部沿海平原と長江三角州とからなっている。黄淮平原は淮河故道︵淤︵お︶黄河︶以北にあるので淮北平原ともいう。黄河,淮河および淮河の支流である泗河︵しか︶,沂河︵きか︶,沭河︵じゆつか︶などが形成した沖積地であるが,西部は山東山地の南縁が浸食を受けたところで,あちこちに低い丘陵が残っている。平均200m前後,中で黄海岸の雲台山は642.8mで,省内最高である。東部の沖積地は1194年︵紹熙5︶に黄河が南東に流れを変え,淮河道をへて海に入ってから,1855年︵咸豊5︶に河道が再び北に移るまでの間に作られた。
江淮平原と東部沿海平原とは一連のもので,淮河故道から南,新通揚運河までの間をさす。串場河︵せんじようが︶をもって交界とするが,一括して淮南平原ということもある。江淮平原は大運河が南北に貫通し,その東側は周辺が高く盆形をなしている。これは黄河,淮河,長江によって運ばれ海底に沈殿した砂泥が,海流のため海岸地帯に堆積し,西方からの流水が海に入るのを妨げていたが,長年の間に沼沢から平原に変じた結果である。東部沿海平原が成立したのは2000~3000年来のことで,今日もなお海上に向かって陸地の拡大を続けている。この陸地化が急速に進んだのは,1194年に黄河道が変わってから范公堤︵はんこうてい︶の外側に大量の砂泥が堆積したためである。
長江三角州は鎮江,揚州から東へ長江の沖積によってできた大平原で,北は新通揚運河から南は杭州湾まで,上海市はその中に含まれる。長江は南京を過ぎて平地に出ると,流れはゆるやかになり大量の砂泥を下流に沈殿させて,太湖を中心とする広大な湿地帯を作りあげた。そこへ西部山地から流入した水が,いわゆる三江︵呉淞︵ウースン︶江・婁︵る︶江・東江︶に分かれて海に注いでいたのであるが,三江の下流が淤塞︵おそく︶すると太湖の面積は増大し,いたるところに沼沢が発生した。この地帯にクリーク網が開かれ排水が進んだのは,五代の呉越国の治下においてである。三角州は平均標高3.5m以下,最低は1.7m以下のところもある。したがって,水害をさけるため周囲に堤防を築いた圩田︵うでん︶が発達している。クリークの密度は1km2に対し4.8km,昆山県では7.2kmにも達するところがあり,湖沼の数は太湖を除いて150余にのぼる。文字どおり水郷の名にふさわしく,農業,水産︵魚鳥の養殖︶,交通,運輸などすべて水の恩恵を受けているのである。
丘陵地帯は北東と南西部とに集中している。黄淮平原や長江三角州には,かつての海島が砂泥に埋もれて残っているものもあるが,標高100~200mにすぎない。南西山地は寧鎮丘陵︵南京~鎮江間を主軸とする︶と総称し,北東山地に比べて地形が複雑である。なかでも南側にあって南北に走る茅山︵ぼうざん︶丘陵は,秦淮河︵しんわいが︶と太湖との両流域の分水嶺をなしている。さらにその南,溧陽︵りつよう︶,宜興両県南部の丘陵地帯は,江蘇・浙江・安徽3省の境界に当たるので界嶺とも呼ばれ,500m以上に達するところもある。
本省は暖温帯に属し地形が平たんなため,東部は海の影響を受けて四季の区別は平均し,降雨量も適当である。全年平均気温は14℃前後,夏季は平均20余℃,最高の7月でも27~28℃,南北の気温差はきわめて少ない。雨量は夏季に集中し,6~7月は梅雨,8~9月は台風の時期である。全体的にみて北西から南東に向かうに従って雨量は増大し,とくに南部では冬季にも降雨の日の続くことがある。
漢民族の南進と経済発展
中国最古の地理書︿禹貢﹀︵︽書経︾中の1編︶によれば,本省は徐・揚2州に属している。殷末・周初には北方から開拓の手が及んだ形跡はあるが,だいたいに漢民族からみれば系統の違った未開民族︵淮夷・徐夷・荆蛮など︶が住み,文化的には長く後進地域であった。春秋時代になってようやく開発が進み,北東部は魯,北西部は宋,南半部はほとんどが呉,南西部が楚の勢力範囲であった。戦国時代の初期には呉がもっとも強大で今の蘇州に都をおき,淮河から南,太湖周辺一帯を占めていたが,前5世紀の後半に浙江から起こった越︵都は紹興︶に滅ぼされた。しかし前4世紀の中ごろ越は楚に滅ぼされ,もとの呉・越の領土はすべて楚の手中に帰した。やがて魯も宋も楚に滅ぼされたので,本省の地域は北西の一部が斉国に入ったのを除けば,ほとんど大部分が楚の領土となったのである。
秦は天下を統一すると,長江以南の東部に会稽郡を,茅山丘陵から西に鄣︵しよう︶郡をおき,淮河と長江との間は九江郡,淮河北方の西部は泗水︵しすい︶郡,東部は東海郡,北部は薛︵せつ︶郡などに分属させた。前漢では会稽・丹陽︵以上揚州刺史部︶・東郡・臨淮の諸郡と楚・泗水・広陵︵以上徐州刺史部︶の諸国がおかれ,北西の一部は沛︵はい︶郡に属していた。後漢になって変わったのは,会稽郡の北部を割いて呉郡をおいたことである。三国時代は北の徐州は魏に,南の揚州は呉に所属し,呉は建業︵現,南京︶に都をおいた。ここはその後も東晋から宋・斉・梁・陳と南朝諸国の都となり,本省はその領土の重要な部分であったが,しだいに北朝から圧迫され,最後の陳は隋に滅ぼされて,久しぶりに全中国が統一された。
唐代には淮河以北が河南道,以南が淮南道,長江以南が江南道に所属した。のち江南道は東西に分かれ,とくに江南東道はその管轄下に昇︵現,南京︶,蘇,常,潤︵現,鎮江︶など有力な諸州をもち,南方における経済・文化のもっとも進んだ地域だったのである。五代では初め呉︵都は揚州︶,のち南唐︵都は金陵,現,南京︶の領域に属し,蘇州付近は呉越国の領土であった。宋では淮南東路,江南東路,両浙路に分属したが,南宋になると北部は金国との国境地帯として戦火に荒廃した。元代では長江以北は河南江北行省に,以南は江浙行省に属した。明の太祖は蘇州によって最後まで抵抗した張士誠を滅ぼして全国を平定すると,南京に都を定め本省を中央の直轄地としたのである。のち都が北京に移ってからも特別行政区という意味で,南直隷︵河北省を北直隷といった︶と称した。その地域は今日の江蘇・安徽両省にわたり,清代には江南省と改めたが,長江の上流に位置する安徽を上江,下流に位置する江蘇を下江といって区別した。1667年︵康煕6︶にいたり江蘇・安徽両省が分立したのであって,江蘇とは西の江寧府︵南京︶と東の蘇州府の名にもとづいている。清末におこった太平天国では南京を天京といって都とし,蘇州には忠王府がおかれた。明・清ともに省都は南京にあって,中華民国もこれを受け継いだが,1927年に国民政府が南京に成立すると,省都は鎮江に移された。中華人民共和国では南京が省都となり,上海は別に中央の直轄市となっている。
発達した農業と諸産業
本省の耕地は大部分が水田で農産物は水稲を第一とし,ほかに麦,サツマイモ,トウモロコシなどの食糧作物,綿花,植物油などの経済作物で,養蚕,漁業も盛んである。土地利用度の高いことは山東省についで第2位。食糧は四川に,綿花は河北に,蚕糸は浙江についで産額が多い。土壌は太湖の平原と旧黄河以南の大運河沿岸がもっとも水稲に適し,長江沿岸の圩田,太湖周辺の湖田はとくに収穫量が多いので知られる。すでに南宋時代︿蘇常︵蘇州と常州︶熟すれば天下足る﹀と称せられたゆえんである。海岸地域では塩分を含んでいるが,塩分の0.5%以下のところはかえって麦と綿花の栽培に適するので,近年,土壌の改良が進められている。水稲栽培のあまり行われなかった淮河以北でも水利建設の成功によって産額が増し,水稲は省全体の食糧作物作付面積の45%を占めるにいたった。淮河以北はまた本省における小麦の最大産地で,ほかにサツマイモ,コーリャン,トウモロコシも作られている。
綿花は12世紀,南宋時代には長江中下流域で栽培され,紡績技術も発達して農家の有利な副業となった。明・清時代にはすでにある程度の工業段階に達していたが,清末から列強資本主義の侵略によって基礎を破壊された。綿花は長江三角州と淮河以北とが主産地で,中華人民共和国成立後の発展はめざましく,品種・技術の改良によって収穫量の増加が著しい。養蚕も歴史が古く,太湖周辺の土壌は桑樹栽培にもっとも適しているので,本省の桑畑の90%までがこの地域に集中している。油料作物としては北部ではラッカセイとゴマ,南部ではアブラナを主とし,とくに長江岸の砂丘地帯のハッカは全国産額の90%を占める。漁業は太湖・大運河・長江流域の広大な水面があって淡水魚の産額は多いが,海洋漁業の方はまだ立ち遅れの状態である。
工業は19世紀の中ごろから,列強の経済侵略の拠点である上海が中心となった。原料も労働力もすべてそこへ集中され,民族資本による小規模な工業が,上海の衛星都市ともいうべき無錫︵むしやく︶,蘇州,常州,南通などで行われていたにすぎない。しかも,紡績や絹・綿織物,食品加工などが主で,もちろん重工業のごときはなかったのである。絹織物の歴史も古いが,中華人民共和国の成立とともに復興発展して,その種類も多くなり南京雲錦,蘇州織錦など伝統的なものも盛んに作られている。近代的な紡績・織物工場は無錫,南通にもっとも多く,とくに絹織物では蘇州が全国の一大中心である。無錫は米の集散地としても有名で,精米のほか製粉業も行われている。地下資源としては,沿海地帯の製塩のほかは微山湖付近の鉄鉱,銅山県の賈汪︵かおう︶炭鉱,新発見の蘇北炭田などがあげられるにすぎない。したがって,軽工業に比べ重工業は発達が遅れていて,鉄鋼,機械,薬品,化学肥料,セメント等の工場が各地に建設されてきたが,伝統的な手工業が地方の特産として重要な地位を占めている。
縦横に走る運河
本省内には長江と大運河とが通じているため水上交通はきわめて便利である。その歴史も古く春秋時代,呉では都のあった今日の蘇州を中心に太湖と長江とを主要な水源として運河を作った。のちの大運河のもとをなす水路系統もすでにこのころから開かれて,歴代変遷はあったが,隋の天下統一とともに南北水運の大幹線が完成したのである。隋・唐時代,揚州はその最大要地として繁栄した。南宋以後,中国の経済・文化の重心が江南に移ると,水路網はますます発達し,その中心をなす南京と蘇州とが江南の2大都市となった。しかし,19世紀の中ごろ上海が急速に発展してから,これらの大都市は内河航運,海洋交通ともにその地位を上海に奪われてしまった。しかし今日,内河汽船は蘇州,無錫,鎮江,揚州,清江︵もとの淮陰︶,塩城などを中心として航行し,長江には1万トン級の船が南京まで遡江する。大運河も改修が行われ,淮河も水利工事の完成によって中流から上流まで通航が可能になった。
鉄道も清末から列強が経済侵略の手段として敷設権を獲得し,津浦︵天津~南京対岸の浦口︶,滬寧︵こねい︶︵上海~南京︶,寧蕪︵南京~安徽省の蕪湖︶の3幹線が建設されたので,本省は全国的に鉄道密度のもっとも高い省の一つとなった。中華人民共和国の成立後,津浦,滬寧両線の複線化と南京の長江大橋が完成︵1968︶し,北京~天津間を加えると北京から南京を経由して上海に達する京滬︵けいこ︶線ができあがり,南北交通の大動脈となったのである。隴海︵ろうかい︶線は連雲港から本省の北部を通過して甘粛省の蘭州に達するもので,西部の天水から蘭州までは人民共和国成立後に延長された。寧蕪線は蕪湖から南に向かい,安徽省の寧国,屯渓をへて江西省の景徳鎮に至り︵皖贛︵かんかん︶線︶,さらに南行して浙贛︵せっかん︶線に連接している。
省都南京と諸都市の繁栄
本省は産業の発達によって中小都市はきわめて多く,その密度は全国各省中第一で,おもに滬寧線沿線,長江および大運河の沿岸に集中している。中華人民共和国成立後は,都市はかつての商業,手工業中心に代わって近代工業を主体とすることとなり,いずれも人口は増加し都市施設は改善された。人口20万以上の都市は22にのぼり,そのうち南京259万︵1994︶,徐州143万︵1994︶が100万を超えている。大都市のほとんどが古い歴史都市の上に近代都市が重なり合って建設され,新しく拡大発展しているのが特徴である。
蘇州は春秋時代の呉の都としてもっとも歴史が古く,南京は三国時代に呉が都をおいてから引き続き南朝の都となって繁栄した。とくに南京は明の太祖のとき市域を拡張したため,中国最大の城壁都市となったのである。国民政府はここに首都をおいたが,今日では江蘇省都となり,過去の消費都市から脱皮して工業都市建設をめざしている。蘇州は絹織物や刺繡など伝統工芸が盛んである。名勝古跡としては,南京では雨花台,玄武湖,明の故宮址,太祖の孝陵,孫文の中山陵,蘇州では獅子林・拙政園などの庭園,寒山寺,虎邱,霊巌山などが知られている。
揚州は大運河の要地を占め,隋・唐時代から経済の中心となり,とくに塩の集散地として栄えた。清末から繁栄を上海に奪われたが,近年は工業地として息を吹き返している。名勝旧跡では瘦西湖や平山堂,あるいは鑑真和上の住した大明寺址は有名。対岸の鎮江は水運の要地で内河航運用の造船所がある。郊外の北固山,金山,長江中の焦山は京口︵鎮江の別名︶の三山として名高い。
無錫は本省最大の工業都市で紡績,織物のほか鉄鋼,機械,化学工業,造船などが行われている。付近の物資の集散地で,とくに米市は有名。南通は交通の便に恵まれ,綿花産地の中心を占める。民族資本による紡績業の発生地で,綿紡績,織物の最新設備を誇る工場をもって知られる。連雲港は北部における海陸交通の中心で,1万トン級の汽船が自由に出入りでき対外貿易港として急速に発展,また淮北塩の集散地でもあって,近年は各種の新興工業も盛んである。
執筆者‥日比野 丈夫
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