デジタル大辞泉
「浙派」の意味・読み・例文・類語
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浙派 (せっぱ)
Zhè pài
中国,明代の宮廷画院系の画派をいう語。銭塘出身の戴進︵1389-1462︶の画系につながり,しかも浙江出身の画家が多かったことからこう称された。董其昌の︿画禅筆随筆﹀の中にはじめて見えるが,これは蘇州を中心とするいわゆる呉派文人画隆盛の気運の中で,董其昌や莫是竜による尚南貶北︵しようなんへんぼく︶論とともに用いられており,項元汴︵こうげんべん︶に仮託される︽蕉窓九録︾が画院系の画家鄭顚仙,張復,鍾礼,蔣嵩,張路,汪肇を狂態邪学と非難するような雰囲気の中で,浙派の語が生まれた。これらの画家は必ずしも浙江の出身ではないが,明の画院の画風は,南宋の院体画風を受け継ぎつつ,浙江・福建・広東の画家の多いせいもあって,ややもすれば粗放蕪雑に流れがちであった。文人画派はこの点を非難するわけであるが,人物画や花鳥画の技量では画院画家のほうがはるかに卓越しており,文人画家たちはそれだけいっそう対抗心を奮い立たせたらしい。
浙派という地縁的な派閥ができるについては,明の画院のあり方にも原因がある。画院画家は御用監の管轄下の武英殿あるいは仁智殿に待詔あるいは直︵ちよく︶し,工部の文思院に属する画家もいた。御用監も工部もともに宦官の勢力がつよく,画家の採用・昇進にも情実がまかり通ったようである。しかも画家は錦衣衛の武官の職に任じられ俸給もよかったので職に対する執着もつよく血縁・地縁の関係が顕著になったのである。明末・清初の画家藍瑛︵らんえい︶は浙派の殿将といわれるが,その画風は著しく文人画風を交じえている。嘉靖末から明末にかけては,実際には宮廷画派と文人画派の区別はしだいにあいまいになりつつあった。
→院体画
執筆者‥山岡 泰造
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浙派【せっぱ】
めこの名がある。北宗画系に属するもので,明代前半期の画壇の主流を占めたが,16世紀初めころから南宗画の呉派に押され始め,明末の︿尚南貶北論﹀の発生とともに衰退した。おもな画家に呉偉,張路らがいる。
→関連項目高其佩|黄慎|藍瑛|李在
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浙派
せっぱ
中国、明(みん)代の職業画家を中心とする画派。浙は東南部の浙江(せっこう)をさし、この派の祖とされた戴進(たいしん)の出身地が銭塘(せんとう)︵浙江省杭州(こうしゅう)︶であること、また浙江出身の画家が多かったことから、同時期に東部の江蘇(こうそ)省を中心とした呉派に対してこう称された。しかし、画家の出身地、身分などはさまざまで、画風もかなり幅が広い。その様式は南宋(なんそう)院体画に元(げん)代の李(り)・郭(かく)画風が混じり、そこに浙江の地方様式である粗放な水墨画法が加わったもので、この粗放な筆墨、黒面と余白の対比や律動感の強調などが共通する特徴である。戴進が画院に入るとともに画院絵画の主要な様式となり、時代が下るにしたがいこの特徴が著しくなり、同時に浙江、福建から江蘇、広東(カントン)、湖北などへと拡大して在野の画家にも影響が及んだが、やがて呉派文人画にその優位を譲った。代表的画家には初期の戴進、中期に呉偉(ごい)、後期に張路(ちょうろ)、蒋嵩(しょうすう)らがおり、藍瑛(らんえい)に至っている。張路以下浙派系の画家は、何良俊(かりょうしゅん)︵1506―73︶ら文人批評家から﹁狂態邪学﹂と非難されたが、熟練した画技で浙江水墨画様式の可能性を追求し、各自個性的な作風を打ち出している。
﹇星山晋也﹈
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浙派
せっぱ
Zhe-pai
中国の画派の名称。唐代以降,浙江地方には奔放な画法が伝来したらしく,明代の中頃,浙江杭州出身の戴進はこの伝統に基づき,南宋院体画風と元の李郭派などを折衷して独自の山水画風を創始した。その画系に浙江出身者が多かったことから,呉派に対立して浙派と呼んだ。戴進に次いで呉偉,張路が現れ,画風は粗放さを増し,同時に出身地も広範囲になった。文人画家に比して社会的身分も低く,職業画家らしい巧みな筆墨技も呉派の画人と異なったため,明末に尚南貶北論 (しょうなんへんぽくろん。南宗を尊び北宗をけなす論) が現れ,やがて描写形式のうえでも呉派に吸収された。
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世界大百科事典(旧版)内の浙派の言及
【山水画】より
…いやむしろ,元代からさらに明代中期までは,北宋華北山水画から南宋院体画風をも含めたより幅広い伝統によった,元の四大家以外の系統の画家たちの方が山水画壇の中でより大きな位置を占める一方,明代も中期以後になって,元の四大家につながる画家たちが勢力を増してくる。前者はその代表とされる戴進が杭州出身であったため,明代に入って[浙]派と称され,後者は沈周︵しんしゆう︶を始めとして主に蘇州出身の画家によって形成されたため,[呉派]と呼ばれ,あわせて明代絵画史を画する二大潮流をなした。明末に至って董其昌は禅の宗派にたとえて,浙派を唐の宗室画家の李思訓・李昭道父子に始まる北宗︵ほくしゆう︶,呉派を盛唐の詩人でもあり文人画家でもある王維に始まる南宗︵なんしゆう︶とする南北二宗論を展開し,董源,巨然から米芾,米友仁,元の四大家を経て呉派文人画に至る,[南宗画]の正統を継承すると自負する自己の史的位置を,山水画の始源にまでさかのぼって確立しようとした。…
【中国文学】より
…なお︿詩余﹀は明代には衰えていたが,明末から復活し,古典詩の一部門となり,専門に学ぶ詩人が出た。朱彝尊︵しゆいそん︶,厲鶚︵れいがく︶らの浙派がまず18世紀にさかえ,張恵言らの常州詞派がついで興った。常州派の勢力は清末まで続くが,その主張は古人の用語と格調を乱さないで作者の心境を象徴的に表明することであった。…
【篆刻】より
…その影響は康熙(1662‐1722)から嘉慶(1796‐1820)に至る清朝前期に非常な声威をもった。︿浙派﹀は杭州人の丁敬(1695‐1765)をはじめとして,蔣仁,黄易,奚岡のいわゆる西冷四家と,やや後の陳鴻寿,銭松,陳予鐘,趙之琛を加えた西冷八家をいう。その刻印は漢印を宗とし,石印材の欠けやすい特質を生かし,巧妙な用刀によって線を刻した方勁古拙な刻風は,従来の繊弱で柔媚な習気を一洗した。…
【南宗画】より
… では南宗画を唱えた意図は何であろうか。南北の系譜についていえば元以降,明・清にあってはどうかという点について董其昌,莫是竜は明言していないが,彼らの同調者あるいは後継者によれば,南宗は元の四大家ののち沈周︵しんしゆう︶,文徴明,董其昌,清初の四王(王時敏,王鑑,王翬︵おうき︶,王原祁︵おうげんき︶)と続き,北宗は南宋画院の馬遠,夏珪,李唐,劉松年をうけて明の画院の戴文進にいたり,その後継者たちは浙江出身の戴文進にちなんで[浙派]と呼ばれ,沈周,文徴明ら蘇州(呉)出身者に代表される[呉派]文人画に対置される。そして浙派は呉派の側から狂態をたくましうする邪学であると非難されている。…
【明代美術】より
…ことに成祖長陵の稜恩殿は,当代を代表する建築である。
﹇絵画﹈
明代の絵画は,山水画を中心として展開したが,その山水画は,およそ15世紀後半を境として,前後2期に分かれ,前半には浙派が,後半には呉派が流行した。浙派の名は,後にその祖と目された戴進が銭塘(浙江省杭州)の出身であったことから名づけられたものだが,初期には浙江省,福建省出身の画家達がその中心をなしていた。…
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