デジタル大辞泉
「淡路島」の意味・読み・例文・類語
あわじ‐しま〔あはぢ‐〕【淡路島】
瀬戸内海最大の島。兵庫県に属する。もと淡路の一国をなし、近世は徳島藩領。気候温暖で、ビワ・ミカン・草花などを栽培。面積593平方キロメートル。﹇歌枕﹈
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淡路島
あわじしま
兵庫県南部、大阪湾と播磨灘(はりまなだ)を隔てている瀬戸内海最大の島。佐渡島、奄美(あまみ)大島、対馬(つしま)に次ぐわが国第四の島で、面積592.00平方キロメートル、人口14万3041︵2010︶。﹁平成の大合併﹂を経て、2006年︵平成18︶には淡路市、洲本(すもと)市、南あわじ市の3市となった。行政、文化、経済の中心地は洲本市である。1985年︵昭和60︶6月南淡町︵現、南あわじ市︶と四国︵鳴門市︶を結ぶ大鳴門橋が開通。次いで1998年4月には淡路町︵現、淡路市︶と本州︵神戸市︶を結ぶ明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)が開通した。本州と四国を連絡する神戸淡路鳴門(なると)自動車道が島を縦断している。
﹇吉田茂樹﹈
島の中央部から北部にかけて津名丘陵が広がり、おもに花崗岩(かこうがん)からなり、明石海峡の陥没によって、同じ花崗岩質の六甲(ろっこう)山地と分断されている。津名丘陵の最高地点は妙見山︵522メートル︶で、六甲山地より一段低い開析の進んだ丘陵地で、両側が断層崖(がい)となり、地形的に地塁とよばれる断層山地である。島の南部には諭鶴羽山地(ゆづるはさんち)が東西に延び、おもに和泉(いずみ)砂岩からなり、南岸は著しい断層崖となる。この山地の中央にある諭鶴羽山︵608メートル︶は淡路島の最高地点であり、東は紀淡海峡から和泉山脈、西は鳴門海峡から四国の讃岐(さぬき)山脈へ連なったものであるが、両海峡の陥没によって孤立化した山地となった。これら山地、山脈の南側には、西南日本を外帯と内帯とに分ける中央構造線︵メディアンライン︶とよばれる大断層線が走っている。津名丘陵と諭鶴羽山地の間には淡路平野が開け、島内の農牧業の中心地となっている。気候は瀬戸内式気候が卓越し、南岸を除くと年降水量は1300ミリメートル内外で、最寒月も5℃前後と、一般に温暖少雨である。
﹇吉田茂樹﹈
﹃古事記﹄や﹃日本書紀﹄は、いずれも淡路島を日本で最初に生まれた島として記述するが、このことは淡路の海人(あま)族が早くから畿内(きない)の朝廷に属していたことを物語っている。淡路とは阿波(あわ)国に渡る道筋の島であり、阿波道(あはぢ)の意からきている。﹃和名抄(わみょうしょう)﹄では南海道淡路国として、津名郡10郷、三原郡7郷が記され、古代の国府はいまの南あわじ市の市(いち)地区付近に比定されている。中世に入ると23の荘園(しょうえん)が設立され、全島の開発が早くから進行していた。南北朝の動乱後は、阿波の細川一族が淡路を支配したが、戦国時代には三好氏、のち織田、豊臣(とよとみ)氏の支配下に入り、1615年︵元和1︶に阿波の蜂須賀(はちすか)氏の所領となった。1871年︵明治4︶の廃藩置県によって、淡路と阿波が名東(みょうどう)県︵後の徳島県︶となったが、1876年に淡路島全島が兵庫県に編入された。
﹇吉田茂樹﹈
淡路島は京阪神地方を大市場としての園芸農業、酪農業および牧畜業が盛んである。特産のタマネギは北海道に次ぐ全国第二の大産地で、県下の90%以上を占め、レタス、ハクサイ、キャベツも県下最大の生産地となり、ピーマン、イチゴ、ネギの生産も増大している。これは昭和50年代から始まった三毛作︵水稲→ハクサイ・レタス→タマネギ︶の急増によるところが多い。島内北部の東浦海岸では温室、フレームによる花卉(かき)栽培が盛んで、酪農は南部の南あわじ市を中心に発達し、乳牛頭数で県下の40%を超えている。肉牛の飼育も、県北の但馬(たじま)牛と並び称され、淡路牛としてブタとともに県下有数の飼育地に発達した。また、温州(うんしゅう)ミカン、ビワ、ナツミカンの生産も県下有数である。2003年︵平成15︶には、淡路町、北淡(ほくだん)町、東浦町︵いずれも現、淡路市︶が構造改革特区として自然産業特区の認定を受け、新たな農地開発事業が開始されている。水産業も淡路を代表するもので、漁獲高は県下の30%を占め、その大半はイカナゴの水揚げであり、ついでイワシ、エビ、タコ、タイが多い。水産養殖ではハマチが中心であったが、赤潮の発生によって1978年から激減し、かわってワカメ、ノリの養殖が増大している。
﹇吉田茂樹﹈
淡路島には弥生(やよい)文化を代表する銅鐸(どうたく)、銅剣の出土が多く、国の重要文化財に指定されているものもある。また、400年以上の伝統をもつ淡路人形浄瑠璃(じょうるり)は、国の重要無形民俗文化財に指定され、南あわじ市福良(ふくら)に常設館として淡路人形浄瑠璃館︵大鳴門橋記念館内︶が設置されている。同市の三条八幡宮(はちまんぐう)には﹁淡路人形発祥地﹂の石碑がある。さらに慶野(けいの)松原︵国の名勝︶など白砂青松の海岸景勝地が多く、﹃万葉集﹄などに多く詠まれ柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌碑など、島内各地に文学碑がみられるのも淡路島の特色である。
なお、1995年の阪神・淡路大震災では大きな被害を受けたが、復興対策が進められ、その一環として2000年には﹁人と自然のコミュニケーション﹂をテーマに淡路花博﹁ジャパンフローラ2000﹂が開催された。2002年のサッカー・ワールドカップ韓日大会ではイングランドチームのキャンプ地となり、2006年の﹁のじぎく兵庫国体﹂では競技開催地の一つとなった。
﹇吉田茂樹﹈
﹃和歌森太郎編﹃淡路島の民俗﹄︵1964・吉川弘文館︶﹄
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淡路島
あわじしま
瀬戸内海の東部に浮ぶ瀬戸内海最大の島。北は明石海峡、東は紀(きた)淡(ん)海峡によって本州と分たれ、西は鳴(なる)門(と)海峡によって四国と分たれている。面積は約五九一平方キロ、本州・北海道・九州・四国および択(えと)捉(ろふ)島・国(くな)後(しり)島を除けば、沖縄島・佐渡島・奄(あま)美(みお)大(お)島・対馬に次ぐ第五位の面積をもち、県の全面積の七・〇五パーセントを占める。人口は約一六万三千人︵平成七年︶で、全県の三・〇一パーセントに当たる。地形的には津(つ)名(な)山地︵北部の北淡山地、中部の先山山地、西部の西淡山地に分けられることもある︶とその周辺の丘陵、南部の諭(ゆづ)鶴(る)羽(は)山地、それらに挟まれた三(みは)原(ら)地溝低地の三つに大別される。津名山地は六(ろつ)甲(こう)山地と同様周りを断層で区切られた地塁山地であり、断層崖が直接海に接していて平地が少ない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
淡路島 (あわじしま)
兵庫県に属する瀬戸内海最大の島。南北54km,東西24km,面積593km2。人口14万3547︵2010︶。東は大阪湾,西は播磨灘,南は紀伊水道に面し,明石海峡,友ヶ島水道︵紀淡海峡︶,鳴門海峡をへだてて明石市,和歌山市,鳴門市とむかいあう。行政上は1市2郡10町に分かれていたが、現在は洲本市,淡路市,南あわじ市の3市からなり,近世に蜂須賀氏の城下町であった旧洲本市が行政や交通の中心になっている。本州と四国が瀬戸内海の陥没で分離したときに残った地塁状の島で,地形的に大きく北部の津名丘陵,南部の諭鶴羽︵ゆづるは︶山地と,その中間の地溝帯である三原平野,洲本平野に区分できる。花コウ岩からなる津名丘陵は明石海峡陥没以前は六甲山地と一続きの山地であった。最高地点の伊勢ヶ森は標高515m。諭鶴羽山地は和泉山脈,讃岐山脈と同じ和泉砂岩からなり,最高地点は諭鶴羽山︵608m︶である。その南縁は中央構造線に接し,直線状の急峻な断層崖が海に落ちこんでいる。このように島は断層海岸にかこまれているため平地が乏しく,中央の三原平野,洲本平野がまとまった平野となっている。三原平野には古墳が多く,国府,国分寺のおかれた律令時代は淡路の政治・文化の中心であった。気候的には全体として温暖少雨の瀬戸内式気候区に含まれ,黒潮の支流に洗われる南海岸や大阪湾に面する東浦地域は冬も暖かいが,播磨灘に面する西浦地域は北西季節風をまともに受けるために冬季の農業や漁業は大いに制約される。また不足がちの灌漑用水を補うための溜池が多く,1934年には島全体で2万3600余の溜池があった。
︿花とミルクとオレンジの島﹀といわれる淡路島は,農業の地域的特色によって,東浦,西浦,三原平野の3地域に大別できる。津名丘陵東斜面の東浦地域は花卉栽培が昭和初期から始まり,現在では西日本随一の産地となっている。大阪湾に流れこむ暖流,日当りのよい南東斜面,さらに北西季節風の風下という微気候的条件の有利さに加えて,フェリーによって切花で出荷できる阪神の大市場への近さが花卉栽培の発展を助けた。これにたいし西浦地域は平地が乏しく東浦同様耕して天に至る棚田景観がいたるところでみられ,米作を中心に果樹,肉牛飼育などが行われている。肥沃な三原平野は米作,酪農,露地野菜を基幹とする多毛作高度集約農業が営まれ,とくに第2次世界大戦後盛んになったタマネギは全国一の産額を誇る。この地域に乳牛が導入されたのは明治30年代で,以後いく度か盛衰を重ねたが,現在でも西日本最大の酪農地帯である。淡路島では水田裏作としてタマネギとともに飼料作物が栽培されている三原平野に乳牛が多いのにくらべ,山がちの北淡路には役牛としての役目も果たす肉牛の飼育が多い。果樹はミカン類とビワが中心で,島内各地で産する。また南淡町の灘は野生に近い形で栽培されるスイセンの産地として有名。四周を海にかこまれ好漁場に恵まれているため,淡路島では古くから漁業が発達していた。現在,小型底引網によるカレイ,イカ漁や一本釣りによるタイ,スズキなどの出荷が多い。旧南淡町の沖合4km,紀伊水道に浮かぶ沼︵ぬ︶島は全島岩山でわずかな平地に民家が密集している小島であるが,古くから水軍の基地,漁業の根拠地として著名であり,また固有の行事,慣習が残存していて民俗学的にも注目されている。淡路島の工業としては地場産業の瓦,線香があるが,いずれも零細規模の工場が多い。近代工業では紡績,カドミウム電池,食品などの工場が立地するが,島の経済に占める工業の比重は小さい。農業とならぶ島の産業は観光で,鳴門観潮をはじめ,洲本城跡,由良城跡,慶野松原︵名︶などの史跡や名所のほか淡路人形などの古文化財が多く,最近は海水浴客も増加している。本州と四国の回廊的性格を帯びるため通過交通が多く,明石,鳴門の両海峡では連絡船やフェリーが輻湊︵ふくそう︶していたほか,大阪湾を横断する航路が大阪,神戸と淡路島を結んでいたが,現在は岩屋港と明石間を残すのみ。明石海峡大橋の開通で,本土への交通の便がよいために,島の北部は神戸や播磨の神戸圏に入った。また85年6月には,本州四国連絡橋公団による大鳴門橋が開通した。95年1月の阪神淡路大震災では,北部の旧北淡町を中心に大被害を受けた。
→淡路国
執筆者‥小森 星児
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淡路島
あわじしま
島は古くから開かれ,南部の南あわじ市に淡路国の国府,国分寺が置かれた。江戸時代は徳島藩蜂須賀氏の支配下に入り,洲本城を拠点とするにいたって洲本が島の中心地となった。廃藩置県で最初は北部が兵庫県,南部が徳島県に属したが,明治4 (1871) 年11月全島が名東県 (現徳島県) に属することになり,1876年兵庫県に編入された。南方の沼島 (ぬしま) との間に中央構造線が通り,全島は内帯に属する丘陵性の山地で,北部の津名丘陵と南部の諭鶴羽山地の間に淡路平野がある。最高点は諭鶴羽山 (609m) 。周囲は断層海岸で海岸段丘が発達し,特に大阪湾岸 (東浦) は温暖な気候を利用して花卉やビワ,ミカンなどの栽培が行なわれる。播磨灘沿岸 (西浦) には五色の小石で知られる五色浜がある。淡路平野は良質の淡路米,タマネギの栽培と酪農が中心。鳴門観潮の門崎,五色浜,慶野松原 (名勝) ,由良海岸など景勝地が多く,瀬戸内海国立公園の一中心地。淡路人形浄瑠璃 (重要無形民俗文化財) は室町時代から伝わる伝統芸能。 1985年には大鳴門橋が完成し,南北に走る四国街道 (国道28号線) ,淡路市の南部より南下する本州四国連絡道路で四国と結ばれた。 1998年には兵庫県明石市と淡路島を結ぶ明石海峡大橋が完成。 1995年1月17日未明に発生した兵庫県南部地震では,北部を中心とした地域で甚大な被害を受けた。周囲 155km。面積 592.9km2。人口16万 2729 (1995。沼島を含む) 。
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世界大百科事典(旧版)内の淡路島の言及
【兵庫[県]】より
…東経135゜の日本標準時の子午線が明石市を通り,北緯35゜と東経135゜の交差標識が西脇市にある。東は大阪府,京都府,西は岡山県,鳥取県に接し,北は日本海,南は[淡路島]を隔てて紀伊水道に面する。南北約170km,東西約110kmにわたり,本州では北端の青森県,西端の山口県を除けば,太平洋と日本海にまたがる唯一の県である。…
※「淡路島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」