デジタル大辞泉
「熊野街道」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
くまの‐かいどう‥カイダウ【熊野街道】
(一)熊野三社へ参詣のために通る道。伊勢からはいるもの︵伊勢路︶と、紀伊からはいるもの︵紀伊路︶との二つの路があった。
(二)[ 一 ] 京都から熊野三社に至る街道。熊野御幸、熊野詣で知られ、紀伊から入山する険路。熊野御幸道(みゆきみち)。
(三)[ 二 ] 伊勢の各地から熊野三社に至る街道。鎌倉時代以後開けた。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
熊野街道
くまのかいどう
摂津渡(わた)辺(なべ)津︵窪津とも。現東区︶を起点とし、紀州熊野に至る道。熊野参詣路として用いられたためこの称がある。のちには小(おぐ)栗(り)街道ともよばれた。平安時代中期頃から上皇や貴族の熊野参詣が盛んとなり、のちには武士・民衆なども参詣するようになった。熊野街道沿いには王子社が祀られていて、熊野九十九王子とよばれるほどその数は多かった。その一つ一つを巡拝しながら参詣を遂げるのである。
〔京―渡辺津〕
京都から熊野参詣するには、陸路で鳥(と)羽(ば)︵現京都市伏見区︶または山(やま)崎(さき)︵現三島郡島本町︶まで車駕・騎馬で行き、そこで乗船し淀川を下る。その乗船はほとんどの場合は真夜中で、上陸地点である淀川の渡辺津に着くのは翌日の午後の二時から四時頃であった。渡辺津は現東区の天(てん)満(ま)橋と天(てん)神(じん)橋の間の南側、八(はち)軒(けん)家(や)辺りであり、古くは大(おお)江(え)岸とよばれていた地点である。ここにまず王子があり、窪(くぼ)津(つ)王子・渡辺王子・大江王子とよばれた。建仁元年︵一二〇一︶一〇月の後鳥羽上皇熊野参詣の時には、ここで御経供養があり、里神楽があって、上下乱舞したという︵﹁後鳥羽院熊野御幸記﹂同月五日条。以下﹁熊野御幸記﹂と略︶。参詣の帰路には、往路と同様、渡辺津で乗船し淀川をさかのぼることもあったが、渡辺津より上流にある長(なが)柄(ら)︵現大淀区︶や淀川と三(みく)国(に)川︵現神崎川︶の分流点江(えぐ)口(ち)︵現東淀川区︶から乗船することもある︵﹁熊野御幸記﹂建仁元年一〇月二五日条、﹁経俊卿記﹂建長六年九月一一日条︶。
〔渡辺津―大鳥居王子〕
渡辺津から熊野道は陸路となり、現在の谷(たに)町(まち)筋の西方を南下する。熊野御幸記には、窪津王子に続いて、﹁坂(さか)口(ぐち)王子﹂﹁コウト王子﹂において、騎馬した先陣が到着し、窪津王子で行われたと同様な供養を行ったとある。坂口王子の場所は明らかでないが、コウト王子は現南区の高(こう)津(づ)宮付近に比定される。熊野道はさらに南下、参詣一行は夕方に四天王寺︵現天王寺区︶付近に到着し、四天王寺近くに祀られていた上(うえ)野(の)王子を拝み四天王寺に参詣する。午後に渡辺津に上陸した熊野参詣者はこの四天王寺付近で一泊するのが普通である。永保元年︵一〇八一︶に熊野参詣した藤原為房の場合は、夜に入っても和泉堺まで足をのばし、そこで一泊しているが︵﹁為房卿記﹂同年九月二二日条︶、これはむしろ例外といってよかろう。建仁元年の後鳥羽上皇熊野参詣の時には、その日のうちに四天王寺参詣をしている︵熊野御幸記︶。また建長六年︵一二五四︶の藤原経俊の場合は、日没後天王寺に着いたため、四天王寺参詣をしたのは翌朝のことであった︵﹁経俊卿記﹂八月一九日・二〇日条︶。
熊野街道
くまのかいどう
本宮︵現和歌山県本宮町の熊野本宮大社︶・新宮︵現同県新宮市の熊野速玉大社︶・那智︵現同県那智勝浦町の熊野那智大社︶の神神が鎮座する熊野三山への参詣は、平安時代後期から上皇・法皇の御幸が相次ぎ、やがては武士や一般民衆の参詣も盛んになり、﹁蟻の熊野詣﹂といわれるほどの隆盛をみた。
その代表的な参詣路には﹁梁塵秘抄﹂に﹁熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず﹂とうたわれたように、西から紀伊国に入って熊野に向かう現和歌山県側の紀路︵西熊野街道︶と、東の伊勢から南下する現三重県側の伊勢路︵東熊野街道︶とがあった。和歌山県側では、紀伊半島の海岸部を街道沿いに新宮に至る大(おお)辺(へ)路(じ)と、田(たな)辺(べ)から山間部に入って本宮に至り、本宮から雲(くも)取(とり)越で那智に出て大辺路に合する中(なか)辺(へ)路(じ)とがあった。院や貴族たちの熊野詣には中辺路がよく利用され、﹁後鳥羽院熊野御幸記﹂などいくつもの記録が残る。大辺路・中辺路には熊野九十九王子と称されるように多くの王子が祀られ、人々は王子に奉幣し、禊祓をし、またそこに宿泊して道をたどった。なお﹁熊野年代記﹂に、大化五年︵六四九︶﹁熊野参詣人道ヲ作ル﹂、白鳳一三年﹁去年行幸式定大辺路通路ヲ中辺路ニ定﹂とあるが、伝承の域を出ない。
三重県側の道は、伊勢神宮へのお蔭参りと西国三十三所霊場めぐりの流行によって発達し、参宮を終えた人々は田(たま)丸(る)︵現度会郡玉城町︶から山坂越の道を新宮まで南下した。この道は北上する場合を﹁いせみち﹂、南下する場合を﹁なち山みち﹂とよんだ。三重県側には古い時代の参詣の記録はあまりみられないが、僧増基は三山参詣ののち花(はな)窟(のいわや)︵現熊野市︶を訪れ︵いほぬし︶、西行は新宮より伊勢への途次、三(み)木(き)︵現尾鷲市︶で歌を詠んでいる︵山家集︶。
熊野街道
くまのかいどう
熊野は文化の中心地であった大和・山城・摂津・河内から山と海で隔てられ、ここに至る交通路はいずれも困難を極めた。しかし、それゆえに古くより聖地とされ、熊野街道は宗教的修行路の性格をもっていた。そのなかで東熊野街道︵伊勢路︶と西熊野街道︵紀伊路︶は東西から入る熊野三山道者に利用され、﹁梁塵秘抄﹂に﹁熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず﹂と歌われている。和泉国から西熊野街道が紀伊に入ると、まず中(なか)山(やま)王子、雄(お)ノ山(やま)峠を越えると山(やま)口(ぐち)王子︵ともに現和歌山市︶があり、以下、街道に沿って熊野九十九王子と称される多くの王子が祀られた。しかし熊野詣が行われる以前は、辺(へ)路(じ)修行者の修行路であったと推定される。
紀伊の辺路は名(なく)草(さの)浜(はま)︵現和歌山市︶から有田・日高の浜を経て西東の牟(む)婁(ろ)の海辺を通って熊野に入り、なお東して伊勢・志摩の海岸に至ったものと思われる。﹁日本霊異記﹂下巻第一話にみえる、紀伊国牟婁郡熊野村の南菩薩永興禅師の同行の禅師が、ここから伊勢へ越えるといって出て捨身したのも、東への辺路修行とすることができる。辺路修行は四国の海辺を廻るものがやがて遍(へん)路(ろ)といわれるようになったが、四国札所八〇番の讃岐国分寺本堂の永正一〇年︵一五一三︶の落書に﹁四国中辺路﹂とあり、四九番札所伊予浄土寺本尊厨子落書には大永五年︵一五二五︶・同七年・同八年として﹁四国辺路﹂または﹁辺路同行﹂などの文字がある。
熊野街道
くまのかいどう
吉野郡は広大な山岳地帯であるが、険しい谷々に住む人々にとって、北の奈良盆地や南の熊野地方との交通は重要であった。熊野灘からの魚類などが運ばれる生活の道で、渓谷に沿ってつくられた東西の熊野街道が郡内を南北に貫いている。
東熊野街道は吉野町大字上(かみ)市(いち)の伊勢街道から分れ、宮(みや)滝(たき)で吉野川を渡り、五(ごし)社(や)峠︵現在は五社トンネル︶を越えて川上村大字大(おお)滝(たき)へ出る。再び川沿いを南進して大字大(おお)迫(さこ)付近から支流伯(おば)母(た)谷(に)川に沿い、伯(おば)母(み)峰(ね)峠︵現在は新伯母峰トンネル︶を越えて北山川の谷の上北山村大字西(にし)原(はら)に下りる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
熊野街道
くまのかいどう
和歌山県南部の熊野三山への参詣(さんけい)路。紀伊山地をたどる遠隔参詣路で、苦行によって極楽(ごくらく)往生を祈願する熊野信仰に始まることが﹃梁塵秘抄(りょうじんひしょう)﹄などにうかがわれる。その道筋はさまざまで、初めは修験(しゅげん)の抖擻(とそう)によって開かれ、しだいに固定化したかと思われる。ときには一部海路が併用されることもあった。記録では﹃扶桑略記(ふそうりゃっき)﹄の宇多(うだ)法皇の参詣︵907︶が最古で、以後約350年間に上皇の参詣が7代約百度を数える。1201年︵建仁1︶後鳥羽(ごとば)上皇に同行した藤原定家の﹃明月記(めいげつき)﹄には全行程が記されている。その道筋は、京から難波(なにわ)を経て海岸沿いに田辺(たなべ)へ、田辺から山間を本宮に至っている。これが紀伊路で、熊野御幸道(みゆきみち)、熊野古道(こどう)ともいい、途中遙拝(ようはい)休憩のための九十九王子社が設けられていた。紀伊路は田辺から山間をたどる中辺路(なかへち)と、さらに海岸を伝う大辺路(おおへち)に分かれるが、中辺路がその後の庶民の参詣でも通行が多く、時代による盛衰はあるが、西国巡礼の道筋にもなり﹁蟻(あり)の熊野詣(もう)で﹂といわれるほどであった。熊野街道は、ほかにも、伊勢(いせ)を回る伊勢路、十津川(とつかわ)路、北山(きたやま)路、高野山(こうやさん)を経る高野路、大峰(おおみね)山中をたどる修験の峰入(みねいり)路などがある。これら参詣道は、2004年︵平成16︶﹁紀伊山地の霊場と参詣道﹂としてユネスコの世界遺産︵文化遺産︶に登録された。
﹇小池洋一﹈
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
熊野街道【くまのかいどう】
紀伊熊野三山への参詣路。京・西国からの紀路(きじ)と,東国からの伊勢路があった。紀路は淀川河口から四天王寺門前を通って南下,紀伊田辺からは富田川沿いに山道をたどって本宮に至る中辺路(なかへち)と,海岸沿いに那智・新宮に至る大辺路(おおへち)があった。本宮までの道沿いには︿九十九王子社﹀が配され,御幸道・小栗(おぐり)街道とも称された。伊勢路は伊勢神宮参拝後,志摩国を南下して熊野灘沿いに尾鷲(おわせ)から新宮に至る道で,東熊野街道といい,西国三十三所第一番札所那智青岸渡(せいがんと)寺への巡礼道でもあった。2004年紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産条約の文化遺産リストに登録された。
→関連項目田丸|天王寺
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
熊野街道 (くまのかいどう)
京都から紀伊国牟婁郡の熊野三山に参詣する道。摂津の渡辺から天王寺・住吉を経て泉州を南下し,雄ノ山峠で紀州に入り,矢田峠・藤代峠・蕪坂・鹿瀬山を越えて日高に至り,切目・岩代・南部の海岸伝いに田辺に着き,そこから山中に入って富田川の谷を北上,滝尻・逢坂・近露・道湯川と山道をたどり,発心門から熊野川河畔の本宮に通じていた。その沿道のいたるところに熊野権現の分身とされる王子社が配列され,俗に︿九十九王子﹀といわれた。なかでも藤代,切目,稲葉根,滝尻,近露の諸王子は,五体王子と呼ばれる主要拠点の王子社であった。また道中の渡河点や海辺ではみそぎの場所が定められ,藤代に一鳥居,滝尻~本宮間に三百町率塔婆,発心門に大鳥居が立っていたという。この道筋は古くは紀路,鎌倉時代には熊野大道といわれ,のちには御幸道とか小栗︵おぐり︶街道の名があり,また田辺から奥を中辺路︵なかへじ︶と称している。なお2004年に︿紀伊山地の霊場と参詣道﹀のうちとして熊野街道が世界文化遺産に登録された。
→熊野信仰 →熊野詣
執筆者‥戸田 芳実
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
熊野街道
くまのかいどう
京都から熊野三山への参詣路の総称。紀伊路,伊勢路,高野路などがあったが,紀伊路がその代表で上皇などはすべて紀伊路を通った。紀伊路の中世までの道筋は熊野御幸道,あるいは熊野古道と呼ばれ,沿道に熊野九十九王子社がまつられていた。近世の道筋は和歌山城下を通り,藤白峠で古道と合し,田辺市で2筋に分れる。1つは山路を逢坂峠を経て本宮にいたる中辺路で,現国道 311号線にほぼ相当。他の1つは田辺市から海岸沿いに新宮に向う大辺路で,現国道42号線にほぼ相当する。しかし参詣者はすべて中辺路を通り,大辺路は難路のため利用されなかった。熊野御幸道 (熊野古道) は 1978年から﹁歴史の道﹂として整備された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の熊野街道の言及
【街道】より
…途中の今庄から分かれて,敦賀,小浜,宮津を経て但馬の豊岡で山陰道に合する街道もある。
【近畿地方】
近畿に入ると,東海道の四日市または亀山から津,松坂を経て宇治山田に行く伊勢路が神宮参拝者でにぎわったが,さらに南下して尾鷲を通り,新宮,那智,本宮の熊野三社への熊野街道はさらに田辺,和歌山に達する。この間はすべて紀州藩領で,伝馬所が設けられていた。…
【田辺[市]】より
…古く〈牟婁津(むろのつ)〉(《日本書紀》),〈紀の国の室(むろ)の江〉(《万葉集》巻十三)と記される港は,当市の海岸部と考えられる。また熊野三山への参詣道([熊野街道])が,山間を抜ける中辺路(なかへじ)と海岸に沿う大辺路(おおへじ)とに分岐する交通の要地であった。 平安~鎌倉期には左会津川流域に摂関家領三栖(みす)荘,右会津川の中・上流域に醍醐寺一乗院領秋津荘,そして市域西端を流れる芳養(はや)川流域には石清水(いわしみず)八幡宮領芳養荘が成立。…
※「熊野街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」