日本大百科全書(ニッポニカ) 「笠間藩」の意味・わかりやすい解説
笠間藩
かさまはん
常陸(ひたち)国笠間︵茨城県笠間市︶に領地を有した藩。1601年︵慶長6︶松平︵松井︶康重(やすしげ)が3万石で入封して以来、08年小笠原吉次(おがさわらよしつぐ)が3万石で入り翌年除封、12年松平︵戸田︶康長(やすなが)3万石、17年︵元和3︶永井直勝3万石、22年浅野長重(ながしげ)5万3000石、45年︵正保2︶井上正利(まさとし)5万石、92年︵元禄5︶本庄︵のち松平︶宗資(むねすけ)4万石、1702年井上正岑(まさみね)5万石と譜代(ふだい)大名の交代が続いた。1747年︵延享4︶牧野貞通(さだみち)8万石で入封、以後貞長(さだなが)、貞喜(さだよし)、貞幹(さだもと)、貞一(さだかず)、貞勝(さだのり)、貞久(さだひさ)、貞明(さだあき)、貞寧(さだやす)を経て明治に至る。牧野氏入封直後の1749年︵寛延2︶に山外郷(やまそとごう)27か村1000人の一揆(いっき)があった。文化・文政年間︵1804~30︶家老川崎頼母(たのも)らの藩政改革が、藩校時習館(じしゅうかん)建設、入百姓政策など多方面にわたって行われた。明治以後有名となる陶業笠間焼は安永(あんえい)︵1772~81︶ごろ領内箱田村で始まり、化政ごろ拡大したという。笠間藩政史料は笠間市内笠間稲荷(いなり)神社にある。1871年︵明治4︶の廃藩置県で笠間県となり、さらに茨城県に編入された。
﹇秋山高志﹈
﹃小室昭﹁笠間藩の化政改革﹂︵﹃茨城県史研究﹄7所収・1968・茨城県︶﹄