デジタル大辞泉
「網代」の意味・読み・例文・類語
あ‐じろ【▽網代】
1 定置網の漁場。また、いつも魚群が集まってくる場所。
2 湖や川に柴(しば)や竹を細かく立て並べ、魚を簀(す)の中へ誘い込んでとる仕掛け。冬の宇治川の氷(ひ)魚(お)漁が古くから有名。︽季 冬︾﹁鳥鳴て水音くるる―かな/蕪村﹂
3 杉・檜(ひのき)・竹などの細い薄板を、互い違いにくぐらせて編んだもの。天井・垣根・笠などに使用。
4 ﹁網代車﹂の略。
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あ‐じろ【網代】
(一)〘 名詞 〙
(二)① 漁網を打つべき場所。漁場。建場。
(三)② 川の瀬に設ける魚とりの設備。数百の杭(くい)を網を引く形に打ち並べ、その杭に経緯を入れ、その終端に筌(うけ)などを備えた簗(やな)のようなもの。冬、京都の宇治川で、氷魚(ひお)を捕えるのに用いたので、古来有名。あむしろ。あんしろ。︽ 季語・冬 ︾
②︿石山寺縁起絵﹀" />
網代②︿石山寺縁起絵﹀
・[初出の実例]﹁宇治人の譬への足白(あじろ)われならば今はならまし木屑(こつみ)来ずとも﹂(出典‥万葉集︵8C後︶七・一一三七)
・﹁昼ほゆる犬、春のあじろ﹂(出典‥枕草子︵10C終︶二五)
・③ ( ①から転じて ) 魚類が多く集まって、漁に好適の場所。
(一)[初出の実例]﹁僕の発見(みつけ)た場所はボズさんのあじろの一つ﹂(出典‥都の友へ、B生より︵1907︶︿国木田独歩﹀)
・④ 官名。御厨子所(みずしどころ)の膳部に属し、天皇の食事用などの魚類をとる者。
・⑤ 檜皮(ひわだ)、竹、葦(あし)などを薄く細く削り、交差させながら編んだもの。垣、屏風、天井、車、輿(こし)、団扇(うちわ)、笠などに用いる。
(一)[初出の実例]﹁をのこどもも、いみじうわづらひつつ、あしろをさへつきうがちつつ﹂(出典‥能因本枕︵10C終︶一〇四)
・⑥ ⑤にかたどった模様。
(一)[初出の実例]﹁孔雀織網代(アシロ)舛形(ますかた)やうきひ和国などの大袖にて﹂(出典‥浮世草子・好色二代男︵1684︶八)
・⑦ 近世、漁業の漁獲高分配法の一つ。漁網に対して配当される収益。
・⑧ ﹁あじろぐるま︵網代車︶﹂の略。
(一)[初出の実例]﹁ふるめかしき檳榔毛(びりゃうげ)ひとつ、あじろひとつ立てり﹂(出典‥落窪物語︵10C後︶二)
・⑨ ﹁あじろかご︵網代駕籠︶﹂の略。
(一)[初出の実例]﹁あじろから百旦那へは手をくれる﹂(出典‥雑俳・柳多留‐一九︵1784︶)
網代の語誌
②は、王朝貴族にとっては、宇治の冬の風物詩であり、遊覧や初瀬詣での行き帰りの見物であった。氷魚を捕る仕掛けなので、和歌では﹁氷魚﹂に﹁日を﹂を掛け、﹁寄る﹂を縁語として詠まれる。﹁拾遺集﹂の﹁数ならぬ身をうぢ河のあしろ木に多くの日をも過ぐしつる哉︿よみ人知らず﹀﹂︹恋三・八四三︺のように、男の夜の通いがとだえるのを嘆く女の歌に詠みこまれることが多い。
あみ‐しろ【網代】
- 〘 名詞 〙 漁業経営で、漁獲高のうち漁網に対する配分をいう。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
網代 (あじろ)
︵1︶漁具の名称 ︵a︶宇治川・瀬田川に設置され,木の杭を左右に立ち並べ,中間に簀を張った簗︵やな︶。その漁人は古くから天皇に贄︵にえ︶を貢献した。宇治網代は︽万葉集︾に︿八十氏河の網代木﹀とみえ,田上網代は883年︵元慶7︶の官符に近江国の内膳司御厨として現れる。︽延喜内膳司式︾に山城・近江の氷魚網代が9月から12月30日まで氷魚を貢すとあり,︽西宮記︾には,田上網代は氷魚,宇治網代は鮎を毎日進めたとある。この氷魚は重陽の宴,旬︵しゆん︶などに当たって,廷臣に与えられ,宇治網代の修理は山城の正税稲によって行われている︵︽北山抄︾︶。網代の贄人を統轄する網代司は蔵人所によって補任され,995年︵長徳1︶田上網代司には小槻重兼の死後,甲可千秋が任ぜられた︵︽権記︾︶。平安末期以降,宇治網代司目代を楽人狛氏一族が世襲,室町期まで真木島長者︵惣官,村君︶と呼ばれた。この長者に率いられる真木島贄人・供祭人は,天皇だけでなく,賀茂社,鴨社,春日社,松尾社,左久奈度社にも供祭物を貢献している。殺生禁断に伴う網代の破却は,1114年︵永久2︶から見られるが,1285年︵弘安8︶の叡尊の申請による破却は徹底したものであった。その後,1314年︵正和3︶に曾束荘民は網代を構えているが︵︽禅定寺文書︾︶,網代はしだいに衰滅し,真木嶋氏は宇治川の交通路を押さえる有力な一族として戦国期まで勢威を保った。︵b︶霞ヶ浦・北浦の入口,利根川河口に設けられた囲網。江戸中期に現れる。春秋2期に魚の通路を遮断し,木竹の杭を立て,それに沿って垣網を張り,先端に囲網を張ったものをいく張も連設する。春にはフナ,コイ,秋にはスズキ,ウナギ,フナなどがとれる。江戸末期,水はけを妨げる漁具として,1831年︵天保2︶にはじまる幕府の水行直普請に当たって禁止されたが,明治以後,復活した。最近はほとんど行われない。
︵2︶網を設置する漁場 1256年︵康元1︶,日吉社領讃岐国柞田︵くにた︶荘の実検目録に︿網代寄庭弐所一所九町余,一所五町余﹀とあり︵︽壬生文書︾︶,1315年肥前国彼杵荘雑掌は彼杵行蓮が︿網代用途﹀を抑留したと訴えている︵︽尊経閣文庫所蔵文書︾︶。肥前国五島西浦部にも,赤浜,みつしり,河内の︿網代﹀が1344年︵興国5・康永3︶に見いだされるが,77年︵天授3・永和3︶にはそのなかの赤浜の︿かますあしろ﹀が売買の対象となっている︵︽青方文書︾︶。このように,網場をさす語としての︿網代﹀は,中世以来用いられ,江戸時代になっても,四国・九州地方を中心に広く各地に見いだされる。ただ︿あみしろ﹀といわれる場合は網の収益の配当分をさし,最近では単なる海浜や釣場まで︿網代﹀という例もあり,語義に変化が見られる。
執筆者‥網野 善彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
網代
あじろ
中世よりみえる豊(とよ)崎(さき)郡の地名。地内の妙(みよ)音(うおん)寺は、郡主で文安元年︵一四四四︶筑前で大内氏と戦って敗死した宗盛国の菩提寺であったとされ、盛国殿と称する墓碑がある。﹁海東諸国紀﹂では﹁安尼老浦一十余戸﹂とあるのが当地とされ、源茂崎は乙亥年︵一四五五︶朝鮮の漂流民を救った功で朝鮮王朝から司直の官職を受けたとある。大永二年︵一五二二︶三月七日の宗盛長書下︵豊崎郷給人等判物写︶に﹁豊崎郡之内あしろ﹂とみえ、当地の中間の与右三衛門に子がないため、神崎甚五郎を養子にすることを定めている。甚五郎はこれに伴い与右三衛門の畠地の知行を認められ︵同年三月一二日﹁宗国親遵行状﹂同判物写︶、永禄一〇年︵一五六七︶には神崎又六に安堵されている︵同年正月二二日﹁宗義調書下﹂同判物写︶。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
網代【あじろ】
(1)網漁具の一種。水中に木や竹を編んで立て,魚を追い込んでとる仕掛け。(2)上記(1)を置いた場所。地名に転化した例が多い。特に宇治川・瀬田川のものが古来有名。なお,木竹のほか垣網併用のものとしては江戸中期に現れた霞ヶ浦・北浦の入口,利根川河口も。(3)竹,アシ,ヒノキ等を薄く細長くし,縦横または斜めに編んだ網状のもの,およびその意匠。編筵(あむしろ)より転じたもので,障壁,戸,天井(特に茶室)のほか,屏風(びょうぶ),笠,輿(こし),牛車などに用いられる。
網代【あじろ】
静岡県熱海市南部の旧町。江戸時代から回船寄港地,漁港として栄え沿岸漁業が活発。網代(南熱海)温泉(食塩泉,60〜70℃)があり,磯釣,海水浴にも適する。伊東線が通じる。
→関連項目熱海[市]
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網代
あじろ
(1) 御厨子所 (みずしどころ) 領に多くみられ,天皇の供御を奉るため網を使って漁猟をするところ。また漁網に対して配当される収益。
(2) 薄くはいだ竹などを素材にして編んだものをいい,敷物や壁などに用いる。その歴史は古く,縄文時代後期からみられる。
網代
あじろ
静岡県東部,熱海市南端の集落。旧町名。 1957年熱海市に編入。江戸時代,廻船の寄港地として栄えた。 1937年,網代温泉が開発された。海岸には人工の海水浴場がある。
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世界大百科事典(旧版)内の網代の言及
【網代】より
…その漁人は古くから天皇に[贄]︵にえ︶を貢献した。宇治網代は︽万葉集︾に︿八十氏河の網代木﹀とみえ,田上網代は883年(元慶7)の官符に近江国の内膳司御厨として現れる。︽延喜内膳司式︾に山城・近江の氷魚網代が9月から12月30日まで氷魚を貢すとあり,︽西宮記︾には,田上網代は氷魚,宇治網代は鮎を毎日進めたとある。…
【網代車】より
…平安・鎌倉時代に公家が使用した[牛車](ぎつしや)の一種。屋形(車の箱)を竹やヒノキの薄板で網代に組んで覆ってあることからこの名称がある。大臣・納言等の公卿が直衣を着用しているときや,褻(け)のときあるいは遠所へ行くときに用いた。…
※「網代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」