足利義満(読み)アシカガヨシミツ

デジタル大辞泉 「足利義満」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしみつ【足利義満】

 
13581408313691395()()()貿殿  

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精選版 日本国語大辞典 「足利義満」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしみつ【足利義満】

 

(一)()鹿殿=
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義満」の意味・わかりやすい解説

足利義満
あしかがよしみつ
(1358―1408)


32()()()()()3822()()()4()()()()136722610()()()1368()1372()137951()()137844()139013918211()13996()()139293()()138633()140310()()

 1382221383()13941()()1395()()()()

 貿()14018貿1402()使()()

 1408153()4()()()5651鹿()()鹿()



196011 1980

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義満」の意味・わかりやすい解説

足利義満 (あしかがよしみつ)
生没年:1358-1408(正平13・延文3-応永15)


3213611614

 6722610721580628333

 1381殿

 28411934

 21387413918220貿95299

 31392457

 94973殿殿鹿

 使1401-04使貿貿

 

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百科事典マイペディア 「足利義満」の意味・わかりやすい解説

足利義満【あしかがよしみつ】

 
313681394()()1371139113991392()貿鹿殿
貿鹿  

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朝日日本歴史人物事典 「足利義満」の解説

足利義満

 
15.5.6(1408.5.31)
3/13.8.22(1358.9.25)
31/23(1368)1(1394) ,,,5,,,,,,,,,3(1383) 1/164,96/22,(殿),,(1379),,3/3(1383),,,2,,,1/7(1390),,6,,,3/9,,, 2,8,9,貿4,,,,,,13,,,5,<参考文献>,  
()
 

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利義満」の解説

足利義満
あしかがよしみつ


1358.8.221408.5.6

3(1368.12.3094.12.17)2()鹿1367(622)1178(44)()()91(28)94()99()西140106()084

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義満」の意味・わかりやすい解説

足利義満
あしかがよしみつ

 
[]133 (1358).8.22. 
[]15 (1408).5.6. 
3 13689422613677113906139993139211394殿殿  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義満」の解説

足利義満 あしかが-よしみつ

1358-1408 室町幕府3代将軍。在職1369*-95*。
延文3=正平(しょうへい)13年8月22日生まれ。足利義詮(よしあきら)の長男。母は紀良子(きの-よしこ)。応安元=正平23年11歳で将軍職をつぐ。管領(かんれい)細川頼之(よりゆき)の補佐をうけ幕府の基礎をかためるが,のち頼之を廃し斯波義将(しば-よしまさ)を管領として幕府権力を確立,明徳2=元中8年山名氏清(うじきよ)をほろぼし(明徳の乱),翌年には南北朝を合体させた。応永元年子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり,翌年出家。京都北山に金閣寺をその一部とする北山第(てい)を造営して北山殿とよばれた。8年明(みん)(中国)と国交を再開,「日本国王」として冊封をうけた。応永15年5月6日死去。51歳。幼名は春王。法名は道有,道義。法号は鹿苑(ろくおん)院。
【格言など】当家の運と山名一家の運とを天の照覧に任せよう(山名一族の反乱に対して)

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利義満」の解説

足利義満
あしかがよしみつ

1358〜1408
室町幕府3代将軍(在職1368〜94)
義詮 (よしあきら) の子。尊氏の孫。11歳で将軍となり,管領細川頼之 (よりゆき) の補佐をうけ,1378年幕府を京都室町のいわゆる「花の御所」に移した。'91年明徳の乱で山名氏清,'99年応永の乱で大内義弘ら強力な守護大名を滅ぼして将軍の権威を確立。'92年南北両朝を合体させ,'94年将軍職を義持に譲り,太政大臣に任じられ,'95年入道して道義と称した。また1401年明に僧祖阿 (そあ) ・博多商人肥富 (こいつみ) を遣わして明と国交を回復し,勘合貿易をおこした。この際「日本国王臣源道義」と称し,朝貢の形式をとったことは当時および後世の物議をかもした。文化面では,1397年京都北山に金閣を造営。五山の制をととのえ,能楽を保護し,北山文化の形成に寄与した。

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防府市歴史用語集 「足利義満」の解説

足利義満

 
 32  

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367日誕生日大事典 「足利義満」の解説

足利義満 (あしかがよしみつ)

生年月日:1358年8月22日
南北朝時代;室町時代の室町幕府第3代の将軍
1408年没

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世界大百科事典(旧版)内の足利義満の言及

【観阿弥】より

…その前後の醍醐寺での演能以来京洛に名声が高まり,京極道誉や海老名南阿弥ら有力者にも引き立てられた。 75年(天授1∥永和1)かその前年かに子の世阿弥(当時12歳)を伴って京都の今熊野で猿楽能を催したが,それを将軍足利義満が見物し,以来彼は観世親子に絶大な後援を与えるようになった。そのおかげで,観阿弥は天下に名声を挙げ,観世大夫が将軍のお抱え役者的地位を占めるに至ったのである。…

【北山文化】より


31398(5)(鹿)1428(1)︿()

【冊封】より


︿︿使

【山門使節】より

…延暦寺の衆徒は,南北朝の内乱の初め,後醍醐天皇方について足利尊氏ら武家勢力を悩まして以来,南北朝時代を通じことあるごとに嗷訴(ごうそ)をもって室町幕府,北朝を威嚇し,その統制は幕府の積年の懸案であった。この懸案解決の道を,山門使節の創設に見いだしたのは,3代将軍足利義満である。義満は衆徒のなかにあって勢力を振るっていた杉生坊,金輪院,円明坊といった〈大名〉の山徒を山門使節として組織化,彼らを通じて間接的に衆徒らを統制していこうとした。…

【世阿弥】より

…数多い田楽(でんがく)や猿楽の能役者が芸を競う中から,観阿弥が抜け出る要因となった音曲改革に取り組んだのは世阿弥の幼年期であり,京洛に観阿弥の名声を高めた醍醐寺での猿楽(年不明)には子の世阿弥も出演していた。世阿弥が12歳の年(1375年の永和1年か前年の応安7年)に,観阿弥が洛東今熊野で催した猿楽能を将軍足利義満が見物し,以来彼は観世父子に絶大な庇護を加える。世阿弥の可憐さが5,6歳年長だった義満を魅了したらしい。…

【清和源氏】より


6

 961(1)(西)

【土岐氏の乱】より

…1389‐90年(元中6∥康応1‐元中7∥明徳1)将軍足利義満が土岐氏の内紛に介入して土岐氏の勢力を削減させた乱。美濃の乱ともいう。…

【南阿弥】より

…南北朝末期の遁世(とんせい)者。将軍足利義満に仕え,海老名(えびな)の南阿弥陀仏と呼ばれた。能の愛好者で,連歌をはじめ諸芸能にたんのうであったらしい。…

【能】より


4()()()()()()

【馬具】より


︿

【幕府】より

…しかしこれは征夷大将軍即幕府とする形式的な考え方であり,最近ではこれらよりやや早い時期に,それぞれの幕府の実質的な成立時期を求めるのが普通である。足利義満は1368年(正平23∥応安1)征夷大将軍に任ぜられ,78年(天授4∥永和4)右馬寮御監となり,83年(弘和3∥永徳3)久我氏にかわって源氏の長者となり,淳和・奨学両院別当となったが,以後歴代の将軍はこれらの地位を兼ねるのが慣例となり,徳川氏もこれにならった。室町時代には清和源氏の流が征夷大将軍となるという原則が定着した。…

【花御所】より

…1378年(天授4∥永和4)足利義満によって京都に造営された将軍邸。その敷地は,北は柳原通,南は北小路(現在の今出川通),東は烏丸通,西は室町通によって囲まれた南北2町,東西1町であった。…

【室町幕府】より


使 392(93)1401(8)︿(貿)

【明徳の乱】より


()56113(1390)(1399)(138082)

【大和猿楽】より

…京における観阿弥,世阿弥の事績としては,1372‐74年(文中1‐3∥応安5‐7)ころの醍醐寺における7日間の勧進猿楽(勧進能),および同じ74年か75年(天授1∥永和1)の今熊野神社の猿楽が最も古く,いずれも観阿弥とともに子の世阿弥の芸が世人の注目を浴びたらしい。とりわけ今熊野神社での猿楽は将軍足利義満の初めての能見物で,観世座が将軍愛顧の座として発展していく契機となった。観世座の進出以前に京で活動していたのは摂津の榎並猿楽であるが,1424年(応永31)醍醐寺清滝宮の楽頭職(がくとうしき)も榎並から世阿弥の手に移っている。…

【鹿苑寺】より

…北山と号し,通称〈金閣寺〉で有名。現寺地辺には公家の西園寺家の山荘があったが,これを足利義満が譲り受けて,1397年(応永4)から北山殿(きたやまどの)の造営に着手し,翌年義満はここに移った。以後1408年の義満没年までの10年間,北山殿は室町幕府政治の中心となった。…

※「足利義満」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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