デジタル大辞泉
「春屋妙葩」の意味・読み・例文・類語
しゅんおく‐みょうは〔シユンヲクメウハ〕【春屋妙葩】
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春屋妙葩
しゅんおくみょうは
(1311―1388)
南北朝時代の臨済(りんざい)宗夢窓(むそう)派の僧。芥室(かいしつ)、不軽子(ふきょうし)、西河潜子(せいがせんし)などと称する。甲斐(かい)︵山梨県︶の人。夢窓疎石(そせき)の俗姪(ぞくてつ)とされる。17歳で出家し、竺仙梵僊(じくせんぼんせん)、清拙正澄(せいせつしょうちょう)らに参じ、夢窓の鉗鎚(けんつい)を受けて法を嗣(つ)ぐ。政治的手腕と経営の才に優れ、等持(とうじ)寺、大光明(だいこうみょう)寺などに歴住、炎上した天竜寺や臨川(りんせん)寺を再興した。1363年︵正平18・貞治2︶天竜寺、1379年︵天授5・康暦1︶南禅寺に住し、翌1380年春、智覚普明(ちかくふみょう)国師の号を賜る。ついで後円融(ごえんゆう)天皇より初代の僧録司(そうろくし)に任命される。足利義満(あしかがよしみつ)の相国(しょうこく)寺創建に際し、夢窓を勧請(かんじょう)して自ら同寺の2世となる。また各地に禅院を建立して夢窓派の興隆に寄与、五山版の刊行にも尽くした。1388年︵元中5・嘉慶2︶8月12日78歳で示寂。﹃普明国師語録﹄﹃天龍(てんりゅう)紀年考略﹄﹃夢窓国師年譜﹄﹃雲門一曲﹄などの著がある。
﹇石川力山 2017年7月19日﹈
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春屋妙葩 (しゅんおくみょうは)
生没年:1311-88(応長1-元中5・嘉慶2)
南北朝時代の五山の代表的禅僧。諱︵いみな︶は妙葩,字は春屋。居所を芥室といい,みずから不軽子,西河潜子と称した。甲斐国の平氏の出身で,夢窓疎石の甥にあたる。7歳で美濃国の虎渓山に法華経を学び,12歳で甲斐国恵林︵えりん︶寺の道満に従ったが,17歳のとき夢窓について出家した。のち来朝僧の竺仙梵僊︵じくせんぼんせん︶,清拙正澄︵せいせつしようちよう︶などについて大陸禅を学んだが,ついに夢窓の法を継いだ。1357年︵正平12・延文2︶京都の等持寺に住し,翌年天竜寺が焼失したあと,幹事となってその復興を成しとげた。そののち臨川寺,阿波光勝院,伏見大光明寺,天竜寺などに住した。ところが,69年︵正平24・応安2︶南禅寺の山門建立に際して,管領細川頼之と意見が衝突し,翌々年10月,丹後の雲門寺に隠棲した。こののち丹後にとどまること10年,その間,明使の趙秩,朱本,ついで無逸克勤,仲猷祖闡と詩文の往来があった。それらを編集したのが︽雲門一曲︾1巻である。やがて79年︵天授5・康暦1︶細川頼之の失脚によって京都の禅林に復帰し,南禅寺に住した。さらに同年10月には初代の僧録に就任して,五山禅林を総轄した。そののち,足利義満の庇護によって嵯峨の宝幢寺をひらき,また幕府の東側に相国寺を創建したが,師の夢窓を勧請開山とし,みずからは同寺2世に甘んじた。88年8月12日,鹿王院に没す。義満の帰依あつく,夢窓派の中心人物として五山・十刹・諸山の官寺制度をはじめとする当代五山の体制づくりに大いに活躍した。生前に後円融天皇から智覚普明国師の勅諡号︵ちよくしごう︶をうけた。著作に︽智覚普明国師語録︾8巻のほか,︽天竜紀年考略︾1巻,︽夢窓国師年譜︾1巻などの編著がある。
執筆者‥今枝 愛真
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春屋妙葩
没年‥嘉慶2/元中5.8.12(1388.9.12)
生年‥応長1(1311)
南北朝期の臨済宗の僧,五山文学僧。芥室,不軽子とも称する。夢窓疎石の俗甥にしてその法嗣。嘉暦2(1327)年から8年間,鎌倉浄智寺の竺仙梵僊の会下にあり,学芸の薫陶を受けた。梵唄にみる音楽的資質は高く評価された。帰京後は夢窓に随侍し,同派の五山内主流派形成に尽力した。夢窓示寂後は無極志玄を補佐し,無極なきあとは竜湫周沢 と共に同派の領袖となる。応安1/正平23(1368)年南禅寺山門破却事件以降の問題処理をめぐり,管領細川頼之と鋭く対立し,春屋とその同調者は五山叢林から離脱,丹後雲門寺に隠棲する。やがて頼之が失脚し(1379),管領に斯波義将が復帰すると,かねてから密接な関係にあった春屋は五山の表舞台に戻り,南禅寺住持,僧録などを歴任する。一方で内典外典にわたる五山版の出版事業に業績を残した。作品に﹃雲門一曲﹄﹃智覚普明国師語録﹄などがある。<参考文献>今枝愛真﹃中世禅宗史の研究﹄
(飯塚大展)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
春屋妙葩
しゅんおくみょうは
[生]応長1(1311).甲斐
[没]元中5=嘉慶2(1388).8.13. 京都
南北朝時代の禅僧。叔父夢窓疎石の法を継いで伏見大光明寺や天竜寺に住したが,南禅寺山門造営にからむ叡山など旧仏教側の強訴事件に対する室町幕府の措置を不満として,建徳2=応安4 (1371) 年丹後雲門寺に隠棲した。管領細川頼之失脚ののち,京都に帰って南禅寺に住し,将軍足利義満の帰依を得て天授5=康暦1 (79) 年僧録司となり,智覚普明国師の称号を贈られた。さらに嵯峨宝幢寺の開山となり,弘和2=永徳2 (82) 年義満にすすめて相国寺を開き,夢窓を勧請 (かんじょう) 開山とし,自分はその2世となった。春屋はまた,儒学,漢詩文に通じ,仏典,外典 (げてん) にわたる五山版を上梓し,のちの五山文学の発展に大きく寄与した。『語録』 (7巻) あり。
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春屋妙葩 しゅんおく-みょうは
応長元年12月22日生まれ。臨済(りんざい)宗。夢窓疎石(むそう-そせき)の甥(おい)。疎石の法をつぎ,天竜寺,臨川寺,南禅寺などの住持となる。将軍足利義満の信任をうけ,初代の天下僧録司として五山を統轄した。相国寺創建に際して,故疎石を開山(かいさん)として勧請(かんじょう)し,自らは2世となった。嘉慶(かきょう)2=元中5年8月12日死去。78歳。甲斐(かい)(山梨県)出身。別号に芥室,不軽子。諡号(しごう)は智覚普明国師。著作に﹁智覚普明国師語録﹂,詩集に﹁雲門一曲﹂など。
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春屋妙葩
しゅんおくみょうは
1311.12.22~88.8.12
鎌倉末~南北朝期の臨済宗の代表的な禅僧。諱は妙葩,字は春屋。諡号は智覚普明国師。甲斐国の平氏の出身。夢窓疎石(むそうそせき)の甥。1325年(正中2)夢窓に従って得度。夢窓や鎌倉浄智寺の竺仙梵僊(じくせんぼんせん)らを師として修行。35年(建武2)以降京都に移るが,69年(応安2・正平24)から約10年間,丹後国雲門寺に隠棲。79年(康暦元・天授5)に南禅寺の住持となり,また天下僧録として全国の禅寺・禅僧を統轄した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
春屋妙葩
しゅんおくみょうは
1311〜88
南北朝時代の臨済宗の僧
甲斐の人。夢窓疎石の弟子で,政治的手腕に富み,足利義満の信任が厚かった。天竜寺・南禅寺の住持となったが管領細川頼之と対立。頼之の管領辞任により初代僧録司となり禅宗を統轄した。また五山版の刊行に貢献した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
春屋妙葩 (しゅんおくみょうは)
生年月日:1311年12月22日
南北朝時代の臨済宗の僧;五山文学僧
1388年没
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世界大百科事典(旧版)内の春屋妙葩の言及
【相国寺】より
…足利義満が祖父尊氏の天竜寺建立にならって当寺建立を発願,1382年(弘和2∥永徳2)仏殿,法堂︵はつとう︶の工事に着手した。義満は[春屋妙葩]︵しゆんおくみようは︶のすすめにより,春屋の師,夢窓疎石を勧請開山︵かんじようかいざん︶とし,春屋は2世となった。86年(元中3∥至徳3)五山第2位に列せられ([五山・十刹・諸山]),92年(元中9∥明徳3)3世空谷明応︵くうこくみようおう︶のもとで,盛大な慶讃大法会が営まれたが,その様子は︽相国寺供養記︾に詳しい。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」