デジタル大辞泉
「関銭」の意味・読み・例文・類語
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せき‐せん【関銭】
(一)〘 名詞 〙 中世、関所を通過する人馬荷物などに課し徴収した関所料。関賃。関手。関料。
(一)[初出の実例]﹁今月御影供之以二関銭一、可二返給一之由﹂(出典‥高野山文書‐永享八年︵1436︶三月一七日・両所十聴衆奉行衆評定事書案)
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関銭 (せきせん)
関所を通過する人馬や貨物などに対して徴収した税。関所の通行料としての関銭という言葉は通行料徴収を目的とした関所が多く設置されてくる鎌倉後期にはみられず,時代の下った室町から戦国期にかけて関賃とともに関所通行料の一般的呼称として用いられている。関所の通行料の呼称としては関料,関手︵せきて︶が鎌倉後期に,それより少し古くは関米,あるいはこれと同義の升米︵しようまい︶が用いられている。このような通行料の早い例としては平安初期の838年︵承和5︶大輪田船瀬において,︿勝載︵しようさい︶料﹀と称してその修築費にあてるため往来船舶から通行料が徴収されていたのが挙げられる。また,鎌倉初期の1196年︵建久7︶には東大寺僧重源が摂津国の魚住・大輪田両泊の修復のため,両泊を通過して京上する船の運上米より石別1升を徴収した。この︿勝載料﹀以外にも勘過料,津料,官食︵かんじき︶料などの名目で,港湾や津を通行する船舶よりその施設の維持のため通行税を徴収した例が多くみられる。
関米として徴収された通行税は,初期には運送料の100分の1が一般的だが,この割合はしだいに高くなり,また各関での割合の変化や,さらには同一の関でも通過する貨物によって徴収額に違いが生じるなど,一律というわけではなかった。琵琶湖西岸に設けられた日吉新関では石別1升3合が徴収されている。
1395年︵応永2︶,近江朽木関では柴の1駄30文より栗・竹の3文まで商品別に課税額の細目が定められている。また1479年︵文明11︶に奈良大乗院から美濃明智庄まで酒だる3荷を運送した際に通過した12の関で,関銭は10~140文と差がみられる。このような関銭の年総額は鎌倉末期に高野山が管理した淀関で1500貫文,南北朝期の園城寺の管理の淀関で1100貫文,また室町期の兵庫関では定額2000貫だが,細川氏の押領により興福寺が700貫文,東大寺が900貫文を得ている。これら海・河上関は年貢の運送船の往来も頻繁で,また回漕量も多かったため巨額な関銭収入を得ていた。これに対し陸関では近江の朽木関が1462年︵寛正3︶に24貫文,また九里半街道の若狭と近江の国境に設けられた大杉関では1501年︵文亀1︶84貫文で請け負われており,実収はこれをかなり上回るとはいえ,海・河上関ほどではなかった。
執筆者‥小林 保夫
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関銭
せきせん
平安時代から戦国時代の交通諸機関における関所の通過料。関米(せきまい)、関賃(せきちん)ともいう。関所を建てて関銭を徴収することは、交通路、橋、港湾設備、渡船などの使用料、修築料、造営費、また治安警察などの警固料に由来する。鎌倉期には交通の発展から、その得分(とくぶん)︵収益︶が多大となり、その結果、関銭を寺社の造営料所(りょうしょ)などとして朝廷が寄進することもあり、関銭は利権化していった。室町・戦国期には朝廷・幕府のみならず、土地の領主・村の惣中(そうちゅう)まで関銭の取得のために新関を建てるに至った。室町幕府8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の室日野富子(ひのとみこ)が、内裏修理(だいりしゅり)料所として京都七口(ななくち)に建てた新関はとくに有名である。なお関所料の名称は、徴収の場所から津料(つりょう)、山手(やまて)、河手、関銭などとよばれたり、徴収の目的によって渡賃(わたしちん)、兵士米(へいしまい)、また方法によって升米(しょうまい)、帆別(ほべつ)銭、対象によって荷役高納などと称された。
﹇脇田晴子﹈
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関銭【せきせん】
関賃,関料とも。中世の関所で,通行する人馬・船舶・荷物などに課せられた通行税。初め関米・升米(しょうまい)などの名目で米で徴収されたが,鎌倉中期ころからしだいに銭貨で徴収された。南北朝期以後,公家・社寺は荘園年貢の減少を補うため,水陸の要地に関所を濫設して関銭を徴収した。
→関連項目逢坂関|過所|兵庫津|横川関
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関銭
せきせん
中世,関所を通過する人馬や荷物に課して徴収した税。関賃とともに戦国期に多くみられ,室町中期以前にはほとんど使用例がない。鎌倉後期以降,各地の湊・宿・渡などの交通の要所で通行料の徴収がみられるようになり,関所料の呼称も勘過料(かんかりょう)・警固役・船賃といった徴収目的によるもの,升米(しょうまい)・帆別銭(ほべちせん)など徴収方法によるものなど多様であった。しかし時代が下ると,交通路の一地点で通行料を徴収する行為がより普遍化する。徴収施設も一般に関所とされ,関所料の呼称も,一般的な関銭・関賃が使われるようになった。
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関銭
せきせん
中世,関所で徴収する通過税。関銭という言葉は戦国時代に現れ,古くは関所料,関料,関米,関手,升米,置石,勝載料,勘過料などと呼ばれた。徴収額は一定でない。鎌倉時代の後半以後,徴収物は米などの現物から銭貨に変っていった。幕府,社寺,公家の重要な財源とされたため,関所の増加とその徴収は,物価騰貴の一因となり,商品流通と交通の発展を阻害した。
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関銭
せきせん
鎌倉期から交通路・交通施設・寺院の修理費などとして徴収。室町時代の荘園領主は収入減を補うため要地や港湾・河川に関所を乱設して徴収し,商業の発達を妨げた。のち織田信長・豊臣秀吉らによって廃止された。
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普及版 字通
「関銭」の読み・字形・画数・意味
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世界大百科事典(旧版)内の関銭の言及
【河手】より
…もともと河渡などの交通上の施設や労役に対する代償の意味を持つものとして,渡賃や船賃と同様のものであったらしい。しだいに一種の得分として,渡場などで通行する旅客や荷物から関銭を徴収することによって得られるものを,河手と称するようになった。史料上の初見は︽吾妻鏡︾建暦2年(1212)9月21日の条で,鎌倉幕府は諸国での︿津料河手﹀の徴収を禁じたが,所々の地頭から︿得分﹀として,認めてもらいたい旨の申し出があったため,この禁止を解除したとある。…
【諸司領】より
…諸司領荘保には,こうして成立した便補保に由来するものが少なくない。しかし料国制の衰退と土地収益の減退する趨勢のもとで,これを補う重要な役割を果たしたのが,供御人並びに商人に対する課税と率分銭︵そつぶんせん︶(関銭)である。鎌倉中期の︽平戸記︾によると,当時内蔵寮や内膳司は,京中で︿魚鳥交易﹀の上分を徴して供御に備え,その他の官司も︿和市交易の課役﹀を徴収していたという。…
【関所】より
…道路上の要衝に設け,通行者,貨物を検査し,あるいは通行税([関銭])を徴収し,事あるときは交通を遮断し防備にあたった施設。古くは関といった。…
【関船】より
…この呼称は,〈[海賊]〉なるものが日本にも出没し始めた10世紀前後(平安中期)から用いられていたと思われる。瀬戸内や豊後水道など海路の要衝をおさえた彼らは,航行する一般船舶から〈関銭(せきせん)〉,すなわち通航料を徴収して航路の保障と住民の保護に任じていたことは周知のとおりであるが,そのために用いられた船がこの名の起りであろう。以後,関船の実体は,時代とともに3度大きく変遷する。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」