デジタル大辞泉 「陳子昂」の意味・読み・例文・類語 ちん‐すごう〔‐スガウ〕【陳子昂】 ﹇661~702﹈中国、初唐の詩人。射(しゃ)洪(こう)︵四川省︶の人。字(あざな)は伯玉。則天武后に認められ、右拾遺に任ぜられたが、官を辞してのち、誣(ぶこ)告(く)にあって獄死。詩では漢魏への復古を唱えた。詩の代表作は﹁修竹篇﹂﹁感遇﹂。著﹁陳伯玉文集﹂。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「陳子昂」の意味・読み・例文・類語 ちん‐すごう‥スガウ【陳子昂】 (一)中国、唐初の詩人。字(あざな)は伯玉。初唐詩壇の革新を行ない、漢魏の風に帰ることを主張し、盛唐詩人の先駆をなした。代表作は﹁感遇﹂三八首、詩文集﹁陳伯玉文集﹂。︵六六一‐七〇二︶ 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本大百科全書(ニッポニカ) 「陳子昂」の意味・わかりやすい解説 陳子昂ちんすごう(661―702) 中国、初唐の詩人。梓州射洪(ししゅうしゃこう)︵四川(しせん)省射洪県︶の人。字(あざな)は伯玉。富豪の家に生まれ、少年時代は任侠(にんきょう)の気風を愛したが、18歳ごろより学問に励み、682年︵開耀2︶、一説には684年︵文明1︶進士に及第した。麟台(りんだい)正字、右衛率府冑曹(そっぷちゅうそう)参軍を経て、693年︵長寿2︶右拾遺(うしゅうい)に進み、契丹(きったん)征伐にも加わったが、698年︵聖暦1︶父に孝養を尽くすため辞職して帰郷した。父の死後、財産に目をつけた県令の段簡に投獄され、獄中で死んだ。六朝(りくちょう)以来の形式美に流れた詩風に批判を加え、漢魏(ぎ)の素朴で力強い詩風の復活、ことに詩の内容に思想性をもたせることを主張して、李白(りはく)、杜甫(とほ)らの盛唐文学に道を開いたことが高く評価される。﹃陳伯玉文集﹄10巻があり、代表作﹁感遇詩﹂はよく知られる。 ﹇齋藤 茂﹈ 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
改訂新版 世界大百科事典 「陳子昂」の意味・わかりやすい解説 陳子昂 (ちんすごう)Chén Zǐ áng生没年:661-702 中国,初唐の詩人。字は伯玉。梓州︵ししゆう︶︵四川省︶の人。則天武后の時,進士に合格したが官僚としては恵まれなかった。当時の詩壇を支配していた六朝風の技巧主義を排撃し,漢魏詩の気骨の復活を唱えて独自の作風を築き,唐詩の新生面を開く。その精神は李白・杜甫をはじめ盛唐の詩人たちに受け継がれる。代表作︿感遇詩三十八首﹀は自己の感情を飾らずに表現した作品で,現実を鋭く見つめる。詩文集として︽陳伯玉文集︾10巻が伝わる。 執筆者‥荒井 健 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「陳子昂」の意味・わかりやすい解説 陳子昂ちんすごうChen Zi-ang [生]竜朔1(661) [没]長安2(702) 中国,初唐の詩人。梓州射洪 (四川省) の人。字,伯玉。大地主の家に生れ,若い頃は任侠を事としていたが,のち学問に励み,開燿2 (682) 年進士に及第。則天武后に認められ麟台正字,右拾遺を歴任,また万歳通天1 (696) 年から翌年にかけて武攸宜 (ぶゆうぎ) の参謀として契丹 (きったん) 討伐に加わったが,聖暦1 (698) 年辞して郷里に帰り老父に仕えた。父の死後,その財産に目をつけた県令に捕えられて獄死。表現の艶麗さだけを追う南朝末期の繊細な詩風に意識的に批判を加え,漢,魏の気骨に立返ることを主張,その主張を実践した代表作﹃感遇詩﹄38首などは彼が盛唐詩の先駆者であることを示している。詩集﹃陳伯玉集﹄がある。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディア 「陳子昂」の意味・わかりやすい解説 陳子昂【ちんすごう】 中国,唐代の詩人。四川省の人。字は伯玉。富家の生れで18歳まで書を知らず,悔いて勉学した。南朝時代からの軟弱な詩風を退け,漢魏の気骨ある詩を提唱,︿感遇詩三十八首﹀を作った。則天武后時代の異色詩人で,後に韓愈により賞賛された。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報