デジタル大辞泉
「項羽」の意味・読み・例文・類語
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こう‐うカウ‥【項羽】
(一)[ 一 ] 中国、秦末の武将。名は籍。羽は字(あざな)。叔父項梁とともに挙兵し、漢王劉邦と呼応して秦都咸陽を攻め、秦を滅ぼし、自立して、西楚の覇王となる。後、劉邦と天下の覇権を争ったが、垓下の戦いで大敗、烏江で自殺した。︵前二三二‐前二〇二︶
(二)[ 二 ] 謡曲。五番目物。各流。作者不詳。古名﹁美人草﹂。唐の烏江の野辺で、草刈男が帰途、船に乗ると、老船頭は船賃の代わりに美人草を所望し、自分は項羽の亡霊であると明かして消える。その夜、草刈男の夢の中に項羽の亡霊が現われ、最後の奮戦のさまを語る。
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項羽 (こうう)
Xiàng Yǔ
生没年:前232-前202
中国,秦末に,劉邦と天下を争った英雄。名は籍,羽は字。戦国楚の将軍の血筋をひき,下相︵江蘇省宿遷県︶で生まれた。幼くして孤児となり,叔父の項梁︵こうりよう︶にひきとられて教育をうけ,前209年に陳勝・呉広らが反乱をおこすと,項梁とともに呉︵蘇州市︶で兵を挙げた。項梁は楚王の子孫の心︵しん︶を懐王に立てて反秦勢力を結集したが,彼が戦死すると代わって項羽と劉邦がその中心となった。前208年,懐王は︿関中︵秦の地︶を平定したものをそこの王とする﹀と約束し,彼らは二手に分かれて秦都咸陽へ向かって進撃した。項羽は秦の主力軍と戦って大勝を博したが,劉邦はひと足早く咸陽を占領し,守備を固めて項羽を拒もうとした。激怒して決戦を構える項羽に,劉邦がわびるかたちで開かれた会見が史上有名な鴻門︵こうもん︶の会である。主導権をとった項羽は,咸陽を焼きはらい,秦王子嬰を殺して秦を滅ぼすと︵前206︶,劉邦ら18人を王に封建し,みずからは梁・楚の9郡を領有して西楚の覇王と称し,彭城︵ほうじよう︶︵江蘇省徐州市︶に都した。この封建には不満が多かったが,その最たるものは,懐王の約束に違反して漢王に封ぜられた劉邦であった。前206年8月,劉邦は反旗をひるがえし,関中を平定すると,東に向かって項羽と天下の覇権を争った。これがいわゆる楚漢の戦で,5年にわたって血みどろの激戦が展開される。その間,項羽はいく度か劉邦を死の寸前まで追いこみながらも逃してしまったばかりでなく,かえって劉邦の策略にかかって有能な部下を離され,韓信が斉を平定すると背後をおびやかされ,彭越には糧道を絶たれるなど,しだいに窮地に追いこまれていった。前203年,天下を二分することでいったん和議が成立したが,劉邦に追い討ちされ,垓下︵がいか︶︵安徽省霊璧県︶に包囲された。項羽は四面楚歌のなか,愛姫虞美人︵ぐびじん︶をかたわらに決別の酒宴を開いたのち囲みを破って烏江︵うこう︶に逃れたが,すでに運命のきわまったことを悟り,首をはねて自殺した。戦国武断主義時代の終りを告げる死であった。
執筆者‥永田 英正
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項羽
こうう
(前232―前202)
中国、秦(しん)・漢交替期に現れた群雄の一人。名は籍、羽は字(あざな)。楚(そ)の将軍の家柄を引く貴族的階層に属するといえよう。羽は叔父の項梁(こうりょう)に教育を受け、会稽(かいけい)郡︵江蘇(こうそ)省︶に居住していたが、陳渉(ちんしょう)の反乱に乗じて秦に背いた。梁の戦死後、羽は諸将のリーダーとなり、秦の章邯(しょうかん)を破って関中に入り、秦の王、子嬰(しえい)を殺して咸陽(かんよう)を焼いた。やがて楚の懐(かい)王を推戴(すいたい)して義帝とし、自らは西楚の覇王と称した。このとき部下18名を王に封じている。封建体制の復活である。漢の高祖劉邦(りゅうほう)は王に封ぜられず、不満を抱いて羽に反旗を翻した。双方の戦闘はしばしば繰り返されたが、義帝を擁立し、つごうで殺した項羽に大義名分が失われたので、しだいに高祖が優勢となった。もっとも高祖の部下の王陵の批評に、項羽は礼儀正しいが功臣に褒賞をやるのを渋り、高祖は無礼だが物惜しみをしないといっている。こんなところに項羽の敗北の遠因があったかもしれない。この覇権争奪は郡県か封建かをめぐる争いであり、羽の敗北は歴史上一つの画期となった。羽は保守的立場にあったが、伝えられる悲劇の英雄像は民衆の封建制に対する挽歌(ばんか)ともいえよう。最後の決戦となった垓下(がいか)の敗北ののち死んだ項羽は、いまだ31歳であった。
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項羽【こうう】
漢の劉邦︵高祖︶と天下を争った英雄。名は籍。戦国時代の楚の将軍の家に生まれ,前209年叔父の項梁とともに挙兵。秦を滅ぼした後は西楚の覇王と称し,群雄を従えたが,やがて劉邦と争い,前202年垓下(がいか)︵現,安徽省霊璧県︶の戦に四面楚歌なるを知り,愛姫虞美人(ぐびじん)と別れ,のがれたが自決。
→関連項目阿房宮|漢|陳勝・呉広
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項羽
こうう
Xiang Yu; Hsiang Yü
[没]高祖5(前202)
中国,秦末の武将。名は籍,字は羽。項氏は代々楚の将軍。叔父の項梁に兵法を学び,会稽に住んだ。胡亥1 (前 209) 年,陳勝らが兵をあげると,項梁とともに挙兵し,会稽の兵 8000人を率いて,江を渡って北上。途中で楚の懐王の孫心を立てて楚王とし,章邯の率いる秦軍と戦ってこれを破り,さらに西進して関中に入り,秦の王子嬰を殺し,咸陽を焼払い,懐王を義帝とし,みずからは西楚の覇王と号した。また一足先に関中に入っていた劉邦 (→高祖) らを諸侯に封じたが,劉邦はこれを不満として挙兵し,以後5年にわたって項羽と争った。項羽はしばしば劉邦を死地に陥れたが,高祖5 (前 202) 年逆に垓下 (安徽省霊璧県) に包囲され,愛姫虞美人との別離を悲しむ絶唱を残して,自殺。
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項羽(こうう)
Xiang Yu
前232~前202
秦末の楚(そ)の武将。名は籍。下相(かそう)(江蘇省宿遷(しゅくせん)県)の人。前209年叔父項梁(こうりょう)と楚兵を率いて挙兵,劉邦(りゅうほう)とともに秦を滅ぼし,覇権を握った。ついで劉邦と天下を争い垓下(がいか)の戦いに敗れて自殺した。項羽は戦国旧諸侯の代表的勢力であった。
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世界大百科事典(旧版)内の項羽の言及
【垓下の戦】より
…中国,前202年に漢の劉邦([高祖])と楚の[項羽]の間におこなわれた決戦を言う。垓下Gāi xiàは現在の安徽省霊璧県の地である。…
【虞美人】より
…中国,[項羽]の愛姫で虞姫ともいう。5年にわたる楚・漢抗争のすえ,前202年に項羽は劉邦の漢軍によって垓下(がいか)(安徽省霊璧県)に囲まれた([垓下の戦])。…
【高祖】より
…劉邦は,豊邑ついで碭︵とう︶郡を本拠としつつ,反秦活動をくりひろげた。陳勝・呉広が戦死したあとは,[項羽]・項梁と同盟を結んで秦軍に相対した。項羽が擁立した楚の懐王から,前207年,碭郡長をさずけられ武安侯に封ぜられた。…
【鴻門の会】より
…中国,劉邦(漢の[高祖])と[項羽]との鴻門(陝西省臨潼県)における会見(前206)をいう。両雄は秦の本拠である関中をめざしたが,劉邦の方が武関から先に入関した。…
【覇王別姫】より
…秦末(前3世紀)の史実にもとづく。覇王項羽は,漢王劉邦の大軍に垓下︵がいか︶で取り囲まれた。四面楚歌――張良の歌声作戦にかかり,今やこれまでと思った項羽は,愛姫虞美人と最後の宴をはり,悲歌慷慨して︿力,山を抜き,気,世を蓋︵おお︶う。…
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