日本歴史地名大系 「高野街道」の解説
高野街道
こうやかいどう
- 大阪府:総論
- 高野街道
紀州高野山に至る道。高野参詣路として用いられたためこの称がある。山城八やわ幡た︵現京都府八幡市︶、和泉堺︵現堺市︶、摂津平ひら野の︵現平野区︶を各々起点とする三ルートがあり、第一を東ひが高しこ野うや街道、第二を西高野街道、第三を中なか高こう野や街道とよぶ。西高野街道と中高野街道は錦にし部ごり郡市いち村︵現河内長野市︶の﹁四よつくの木ぎ﹂で合流、以後西高野街道は同郡長なが野の村︵現同上︶に向かい、同所で南下してきた東高野街道に合流する。以降高野街道は一本となり、天あま見み川沿いに紀き見み峠︵河内長野市と和歌山県橋本市の境︶に至り、峠を越えて高野山に向かう。元慶七年︵八八三︶九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳︵観心寺文書︶の﹁治田野庄地肆町五段﹂の四至に﹁西限紀道川﹂とみえるが、この紀道川は天見川のことであろう。そうすると紀道とは高野街道のことである。中高野・西高野両街道が用い始められた時期は不明だが、平安後期―鎌倉初期には高野参詣の道として使用され始めていたと考えられる。東高野街道・高野街道は長岡京・平安京時代の官道、南海道の後身と考えられている。
〔東高野街道〕
山城では河内街道︵男山考古録︶、河内では京街道ともよんだ︵横内家文書︶。暗くらがり峠越奈良街道との交差点以南を高野街道、以北を京街道とよんだ例もある︵額田家文書︶。起点は八幡の志しみ水ず町で、同町の南端の月つき夜よ田だに立つ岡おかの稲荷神社石碑に﹁右高野街道、峠十五丁、津田二里、野崎四里、柏原六里、従是高野山至ル﹂とある。洞ほらヶ峠︵現八幡市と枚方市の境︶で男おと山こやま丘陵を越えた道は、ほぼ生駒山地の西麓を南下、郡こお津づ村︵現交野市︶で磐いわ船ふね街道、中なか野の村︵現四條畷市︶で清きよ滝たき街道、豊とよ浦うら村︵現東大阪市︶で前出奈良街道、楽がく音おん寺じ村︵現八尾市︶で十じゆ三うさん街道、万まん願がん寺じ村︵現同上︶で八や尾お︵立石︶街道、安あん堂どう村︵現柏原市︶で奈良街道と各々交差し、安堂で大和川・石川合流部を渡河、河内国衙跡の所在地国こ府う村︵現藤井寺市︶に至った。
高野街道
こうやかいどう
- 和歌山県:総論
- 高野街道
高野山へ至る道。
高野山は全山を曼荼羅世界に擬したので、その結界は厳重であった。俗に中台八葉といって壇上伽藍の金堂と根本大塔の周囲に内八葉、外八葉という一六の峰があるといい、その間から外界に道が通じていた。これを高野七口といったが、主要道路は西の大だい門もん口、北の不ふど動うざ坂か口︵女人堂口︶、東の奥院口︵大峯口︶である。南の口は奥高野の村々との交通路で、湯ゆか川わ口・相あいノ浦うら口・大おお滝たき口がある。湯川口は古代・中世には高野山領阿あて河がわ荘から有田川筋を南紀へ出る交通路として重要であった。このほか北東に向かって黒くろ河こ・久く保ぼ︵現九度山町︶に出る久保口︵黒子口︶の間道もあり、七口に数えられた。
大門口には西に向かう高野山の正門の大門があり、貴族の正式の参拝や高野山の地主神天野明神への参拝、紀ノ川筋に位置した高野政所への往来に使われた。﹁白河上皇高野御幸記﹂によると、寛治二年二月二三日に上皇の一行は奈良を出て﹁御火打崎﹂︵現奈良県五條市火打町︶に一泊、二四日に紀ノ川南岸を高野政所に着いた。
高野街道
こうやかいどう
高野街道
こうやかいどう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報