﹁ついこの冬﹂という時間的指示は、まさにランボオが旧秩序との訣別として考えた、あの一八七一年二月のパリ行を指している。
ついこの冬 荒れ狂う潮の砕ける音のなかを/おれは子供の脳髄よりも無頓着に 走りまわった! /……/そしておれはコルクの浮子︵うき︶よりも軽やかに踊った/犠牲︵いけにえ︶たちを 永遠に ゆさぶり運ぶ波のうえ……
あの二月以来、彼はブルジョワ社会の埒外に身を置いている。漂流の﹁十の夜よる﹂は、二月二十五日から三月十日までのパリ滞在に呼応するのではないか。またそのくだりは、パリ・コミューヌの蜂起がランボオの裡に呼び起こした興奮状態を溢れるばかりの力強さで歌いあげている。 そして明らかに幻滅を現わす結論がやってくる。
昔ながらの城壁めぐらしたヨーロッパがなつかしい
それは恐らく、ヨーロッパにたいする半ば皮肉な心残り、未練であると同時に、苦い憂鬱である。それにつづく四つの詩節は、この苦い叫びの意味を物語っている。
その荒れ狂う空は 船漕ぐおれに開いていた/この底なしの夜夜 おまえは眠り 流浪するのか/数限りもない黄金の鳥よ おお力溢れる未来よ
これらの詩句から見てとれるのは、敗北を信ずることへの拒否以外のものではない。敗北にうちのめされようと、ランボオは未来へ希望を託している。
全く おれはとてつもなく泣いた やってくる/夜明けはつらく 月はむごく 太陽はにがい かれはもう耐えきれない。コミューヌにたいする熱狂があまりに激しかったので──﹁辛︵から︶い恋に おれはしびれて 酔いしれた﹂彼は悲嘆の叫びを抑えることができない。
おお おれの竜骨よ 砕けろ! おれは海に死のう!
彼は闘争を放棄する。彼は﹁昔ながらの城壁をめぐらしたヨーロッパ﹂をなつかしむが、しかしその城壁を築いた古い社会秩序をなつかしみはしない。
もしおれが ヨーロッパの水を望むとすれば/それは森の中の ほの暗く冷たい水溜りだ/風かおる日暮時 悲しみにうずくまった子供が/五月の蝶のような笹舟を 放し浮かべる水溜りだ
ここには子供の頃への郷愁が歌われている。それは楽しい子供の頃ではなかったが、少くとも保護されていて、夢と幻に生きることができた。この点で、﹁酔いどれ船﹂は﹁七歳の詩人たち﹂につながっている。﹁七歳の詩人たち﹂の最後の詩節はつぎのようなものであった。
彼は読んだ 絶えず想い描いた自分の物語︵ロマン︶を/それは どんよりした黄土色の空や水に漬った林や/星まで届︵とど︶くような森の 桃色の花花にみちていた/おお めまいよ 崩壊よ 潰走よ 憐憫よ! /街のざわめきが 下の方から聞こえてくるとき/彼はひとり 麻布の布切れの上に横たわっていた/はためく船の帆布をはげしく予感しながら この﹁船の帆布への予感﹂は、﹁酔いどれ船﹂の出発の主題へとつながっており、﹁酔いどれ船﹂の終りの部分の詩節は、﹁七歳の詩人たち﹂の、子供の頃の夢へと結びついている。 ︵つづく︶
︵新日本新書﹃ランボオ﹄︶
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