村井弦斎と食道楽
村井弦斎の生涯
村井弦斎︵本名・寛︶は、1863︵文久3︶年、愛知県豊橋市で生まれました。11歳でロシア語を学び始め、東京外国語大学に入学します。
しかし、体を壊してしまったために、退学し、独学で政治、経済、社会、文学などを学びます。
北海道や東北地方を放浪している時に、新聞の懸賞論文に入選し、1884︵明治17︶年に洋行許可を受けてアメリカに行きます。
皿洗いやロシア人家庭の家庭教師、タバコ工場のアルバイトなど、苦労して英語を学びました。
1885︵明治18︶年に帰国し、翌年、 郵便報知︵現・報知︶に就職しました。
弦斎は小説を書き始め、少年文学、評論、旅行記、劇評、歴私小説など幅広く筆を振るいます。
1894︵明治27︶年郵便報知新聞︵現・報知新聞︶の編集長になると、歴史小説を発表し、紙面に家庭欄の記事を増やすなどして、新聞の発行部数を1万部以上に増やし、他紙を大きく引き離しました。
1900︵明治33︶年、38歳の時に尾崎多嘉子と結婚し、東京に住んだ後に大磯の後藤家の別荘、次に小田原に移ります。
新婚の頃 (平塚市博物館所蔵)
多嘉子夫人は、父が大隈重信のいとこで、後藤象二郎夫人、三菱の岩崎弥太郎も親戚筋にいる、明治のエリート一族でした。花嫁修行として後藤家で西洋料理を覚えたともいい、いろいろな料理に明るかったようです。
多嘉子夫人は、小説に登場する料理を考え、作るだけでなく、大隈重信に西洋料理のコックを紹介してもらうなど、弦斎の大切なパートナーとして活躍しました。弦斎も「食道楽」のはしがきで謝辞を述べています。
心強い味方を得た弦斎は、1903(明治36)年に小説「食道楽」を発表し、たちまちベストセラーとなりました。「食道楽」は「夏の巻」、「秋の巻」、「冬の巻」と続きました。
大正2年頃の弦斎一家
(平塚市博物館所蔵)
翌年、﹁食道楽 春の巻﹂の印税で平塚に広大な土地を買い、多嘉子と6人の子どもたちと共に生活を楽しみます。
晩年は栄養学の研究をさらに進めようと、断食や塩や砂糖の摂り過ぎによる弊害を自分の体で確かめたり、木曽の山中にテントを張り、山の実を捕って生食だけで暮らすなど、極端な生活を送りました。
1927︵昭和2︶年、65歳で動脈瘤により永眠しました。
村井弦斎と平塚
﹁庭内広さ二万余坪、野菜園あり、温室あり、鶏舎には数百羽の鶏三々五々群れを成し、兎は柵に飼われ、羊と牛は牧草茂れる所を優遊す、芝生の上かぜも無くして冬の日の暖かさ、その日光に浴せん﹂
1904︵明治︶37年、平塚の駅前から海に向かう約5万4000平方メートル︵1万6400坪︶もの広大な土地を買った弦斎は、喜びと希望を込めて、こう語っています。
広い敷地で、鶏、羊、牛を飼い、苺畑などの果樹園、畑を作り、当時珍しかったアスパラガスも育てていました。
多くの食材を育てるところから始められ、広くシステム的な台所で作られた料理を楽しみ、研究し、また健康に暮らせるのです。
弦斎邸には、八百善、神田宝亭、森永の森永太一郎などの有名料理人が招かれては料理を披露し、珍しく、上等な食材も方々から届けられました。毎日、毎食が試食会のようなものだったのです。
好奇心旺盛で何でも食べてみようとした弦斎は、当時では珍しい牛モツ料理に凝ったりしたので、お客さんは楽しみでもあり、恐怖でもあったとか。
明治のベストセラー﹁食道楽﹂
﹁食道楽﹂は、大食らいで、食べる事が何よりも大好きな30過ぎの書生、大原満が主人公です。なにせ、食べる方が優先なあまり、大学を3度も留年した大原は、女性に関しては奥手で、いまだに独身です。
女性にモテたいなどとはさらさら思わず、早く料理上手な奥さんをもらって、食事のたびに料理の相談をしては、二人で仲良く食べたいと密かな夢を抱いています。
ある正月、大原は友人中川の妹、お登和に出会い、恋をします。
お登和は長崎生まれです。古くから中国、西洋の影響を受けた長崎料理を実家で覚え、大坂、神戸の料理をならったこともありました。和洋の料理に詳しく、大層なごちそうから、安い材料を美味しく、無駄なく料理する方法まで心得ていました。
その上、美人で性格も良く、つまり、大原の理想の女性だったのです。
気持ち良いばかりに何でも平らげる以外に甲斐性のない大原ですが、何とかしてお登和を口説こうと張りきります。
中川も大原の申し出を受け入れ、お登和をいつ嫁にやろうかと喜びました。
ところが、大原には田舎に婚約者がいました。学費を出してもらった本家の娘、お代です。大原はもとよりその気がなかったのですが、本家では伯父も伯母もお代も本気で、ついに押しかけてきてしまったのです。
お代は、料理もできず教養もなく、やきもちを焼くばかりだから、さあ大変!
﹁食道楽﹂は、大原とお登和さんの恋愛を軸に、いたるところで、食べ、作り、料理や家事について語りつつ進行していきます。
アスパラガスなどの西洋野菜や、肉を使った料理など、当時では珍しい食べ物も多く紹介されました。
料理の詳しさは、料理方法が詳しく語られるだけでなく、目次には料理の名前があがり、注釈でも補足説明があり、巻末には食品成分一覧や価格表が乗るほど実用的でもありました。
料理の方法だけでなく、材料の選び方、システム的な台所の作り方、また、衛生や栄養について、女性の地位の向上や、男性の家事や女性への理解を促すなど、新しい家庭像も見せていました。
贅沢な料理は料亭やレストランで男が食べるのが普通だった時代に、弦斎は、夫婦が協力しあい、家庭で美味しく栄養たっぷりのご馳走を楽しむべきと説いたのです。
﹁食道楽﹂は、嫁入り道具の必需品として、グルメの基本として、憧れの生活として、たちまちベストセラーになりました。
その面白さと知識は、現在読んでみても非常に充実していて、新しい発想には目を見開かれます。
村井弦斎の面白い発見・発明
村井弦斎は食事だけでなく、広い見識と自由な発想を持っていました。
村井弦斎の面白い発見・発明の一部をご紹介しましょう
◆未来を予言した村井弦斎
1901年︵明治34年︶元旦に、報知新聞に﹁二十世紀の予言﹂を掲載しました。
23項目にも渡る予言には、﹁七日間世界一周﹂、﹁無線電信及電話﹂、﹁FAX﹂など、何で分かったのかしらと不思議な程、現代の社会をぴったりあてています。
◆米ヌカ大論争
江戸時代の末期から、足が萎えてしまい、やがて死に至る奇病﹁脚気﹂ が問題になっていました。幕末の徳川将軍も脚気が死因といわれています。江戸を中心に流行ったので、﹁江戸わずらい﹂などと呼ばれていました。
明治時代には米作地帯、航海の長い海軍軍人、船員、学生と大流行してしまいました。
弦斎は、脚気の原因を米作地帯では米ぬかを全部とってしまう白米を食べるからではないかと思い、鶏に白米を与えたり、玄米食に切り替えて研究しました。
その結果として、米ぬかの大切さに気づいた﹁米ぬかキャンペーン﹂を起こすのですが、陸軍軍医を中心とする医学界につぶされてしまったそうです。脚気の予防と治療について研究していた医学界の見栄と意地でしょうか。
脚気の原因はビタミンB1の不足であり、米ぬかにはビタミンB1が豊富に含まれていると分かったのは、もっと先の時代になります。
◆かっぽう着の考案
和服のエプロン、かっぽう着を考えたのは多嘉子です。それまでは腰のまわりに布を巻くだけでした。袖の長い和服では使いづらかったでしょうね。多嘉子は、手術服からかっぽう着を思いついたそうです。
明治39年1月号の月刊﹁食道楽﹂誌上で、﹁音羽嬢式台所上衣﹂として発表されました。音羽嬢とは、﹁食道楽﹂のヒロイン、お登和さんのことです。﹁この服は加藤病院の手術服の仕立て方を同夫人より聞き村井夫人が応用せられたるものなり﹂と書かれています。
当時はレストランの名前に﹁お登和﹂、﹁音羽﹂と入れるのが流行していました。