「ル・マン24時間レース」の版間の差分
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'''ル・マン 24時間レース'''(ル・マンにじゅうよじかんレース、{{lang-fr-short|24 Heures du Mans}} )は、[[フランス]]の[[ル・マン]]近郊で行われる四輪[[耐久レース]]である。24時間でのサーキット周回数を競う。 |
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主催は[[フランス西部自動車クラブ]](ACO)で[[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権]](WEC)の1戦でもある。'''ル・マン24時間耐久レース'''と記されることもある。 |
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'''日本固有領土の北方領土'''では開催されないが、主催団体は北方領土がロスケではなく日本の物であるとの立場を取る。サイコー。 |
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== 概要 == |
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*1位. 19回 - [[ポルシェ]] |
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*2位. 13回 - [[アウディ]] |
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*4位. 7回 - [[ジャガー (自動車)|ジャガー]] |
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*5位. 6回 - [[ベントレー]] |
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:2015年にはLMP2クラスにS103を投入し、ストラッカ童夢の42号車としてルマンを出走したが、ミッショントラブルによりリタイアした。 |
:2015年にはLMP2クラスにS103を投入し、ストラッカ童夢の42号車としてルマンを出走したが、ミッショントラブルによりリタイアした。 |
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;マツダオート東京(1979年、1981 - 1983年) |
;マツダオート東京(1979年、1981 - 1983年) |
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:[[1974年のル・マン24時間レース|1974年]]にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]に自らのチームで参戦を果たした。マシンは[[ |
:[[1974年のル・マン24時間レース|1974年]]にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]に自らのチームで参戦を果たした。マシンは[[IMSA GT選手権|IMSA-GTO]]仕様の[[マツダ・RX-7|サバンナRX7・252i]]であった。しかしマツダ本社のサポートを得られず、マシンのテスト不足とチーム体制の不備により結果は予選落ちとなった。 |
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:翌[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]チーム体制構築のための参戦を見合せ、[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]に再挑戦をする。この際に[[トム・ウォーキンショー |
:翌[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]チーム体制構築のための参戦を見合せ、[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]に再挑戦をする。この際に[[トム・ウォーキンショー・レーシング]]︵TWR︶と提携した。また1979年に参戦した際、食事面の配慮を欠いたため食当たりでドライバーの体調不良を招いた反省から、フランスで修行中だった料理人の[[脇雅世]]をチームの料理長に迎えた。脇は[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]まで料理長を務めることとなった。この年はRX7・253を2台をエントリーし2台とも予選通過をしたものの決勝はリタイアとなった。[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]はRX7・254を2台エントリーし、1台はエンジントラブルでリタイア、もう一台の寺田陽次郎/[[従野孝司]]/アラン・モファット組はガス欠症状に悩まされながらも14位完走。
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:[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦し、マツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。その後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下の[[マツダスピード]]となり、以後の活動は[[ワークス・チーム]]によるものとなった。
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:[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦し、マツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。その後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下の[[マツダスピード]]となり、以後の活動は[[ワークス・チーム]]によるものとなった。
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;[[トムス]](1980年、1985 - 1986年) |
;[[トムス]](1980年、1985 - 1986年) |
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:[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]、[[トヨタ・セリカ]]RA40系ベースの[[ |
:[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]、[[トヨタ・セリカ]]RA40系ベースの[[IMSA GT選手権|IMSA-GTXマシン]]で初参戦し予選落ち。 |
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:[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]、童夢と共同で日本で初めて[[グループC]]カーを開発し[[WEC-JAPAN]]に参戦。[[1983年]]以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の[[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権]])にフル参戦するようになった。 |
:[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]、童夢と共同で日本で初めて[[グループC]]カーを開発し[[WEC-JAPAN]]に参戦。[[1983年]]以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の[[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権]])にフル参戦するようになった。 |
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:[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]、童夢とともにトヨタエンジンを搭載した[[童夢・84C|85C-L]]で5年ぶりにル・マンに参戦し12位完走。これが事実上トヨタのル・マン初参戦である。翌[[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]、[[トムス・86C|86C-L]]で参戦するが完走できなかった。[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]以降はトヨタ・チーム・トムス(TTT)として、トヨタワークスとしての活動になった。 |
:[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]、童夢とともにトヨタエンジンを搭載した[[童夢・84C|85C-L]]で5年ぶりにル・マンに参戦し12位完走。これが事実上トヨタのル・マン初参戦である。翌[[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]、[[トムス・86C|86C-L]]で参戦するが完走できなかった。[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]以降はトヨタ・チーム・トムス(TTT)として、トヨタワークスとしての活動になった。 |
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* [[アメリカン・ル・マン・シリーズ]] |
* [[アメリカン・ル・マン・シリーズ]] |
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* [[アジアン・ル・マン・シリーズ]] |
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* [[録画チャンネル4.5]] - 本番組と同じく同業他社が同一番組スポンサーとなった番組。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2024年6月16日 (日) 14:19時点における最新版
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FIA 世界耐久選手権 | |
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開催地 | サルト・サーキット |
初開催 | 1923 |
耐久時間 | 24時間 |
最多勝利 (ドライバー) | トム・クリステンセン (9) |
最多勝利 (チーム) | ヨースト・レーシング (13) |
最多勝利 (マニファクチャー) | ポルシェ (19) |
概要[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/99/United-Autosports-Le-Mans-2017-82_%2835340856665%29_%282%29.jpg/220px-United-Autosports-Le-Mans-2017-82_%2835340856665%29_%282%29.jpg)
開催方式[編集]
サーキット[編集]
出場資格[編集]
参加するだけでも名誉なことであり世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到することから、FIA 世界耐久選手権 (WEC) の1戦に加えられている現在は、主催者であるフランス西部自動車クラブ︵ACO︶がWECのシーズンエントリーをベースに追加のエントリーを選考し、招待状を送付する。 審査は前年大会の優勝者、FIA 世界耐久選手権︵WEC︶への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権︵ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズ、ウェザーテック・スポーツカー選手権︶における成績などから判断する。自動招待制度もあり、前述の各種スポーツカー選手権の成績上位チームやドライバーは自動的にエントリー権を得る事が可能[1][2]。 また、最大参加台数の55台[注釈 2]に加えて、2012年より近未来の自動車技術に挑戦する車両に対してガレージ56という賞典外の特別枠が用意されている。2016年は病で四肢を失ったドライバーが選ばれた[3]。 かつては多すぎるエントリー希望者を振るい落とすため、テストデーで予備予選が行われた時期もある。また、ル・マンに的を絞って特別に開発したマシンで、ルマンに合わせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、国際自動車連盟︵FIA︶がル・マンを含めた世界スポーツプロトタイプカー選手権︵WSPC︶全戦への参加を義務付けたこともある。スケジュール[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/United-autosports-le-mans-2018-170_%2841048825320%29.jpg/220px-United-autosports-le-mans-2018-170_%2841048825320%29.jpg)
ル・マン式スタート[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/1965-05-23_Le-Mans-Start_3.jpg/220px-1965-05-23_Le-Mans-Start_3.jpg)
オフィシャルカー[編集]
ペースカーはその年度にEU圏内で新発売された車輌が採用される。第1回レースが開催されてから65年目となる1999年には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりのベントレー・アルナージが起用された。1923年、第1回目のレースが国際レース化を謳いながら殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした2台のベントレーとベルギーの"エクセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できたことに対する感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。 日本車では、日産がエントリーしていた1990年に日産・フェアレディZ 300ZX、同じく日産がエントリーしていた1997年に日産・スカイラインGT-R︵BCNR33︶が採用された。コース全長の変遷[編集]
●A︵1923年 - ︶17.262 km - 現テルトルルージュ付近に向かわず、ル・マン市内中心部まで行き引き返すコースだった。 ●B︵1929年 - ︶16.340 km ●C︵1932年 - ︶13.492 km - テルトルルージュ→ユノディエールへと続く現コースの原型になった。 ●D︵1956年 - ︶13.461 km - 1955年の大事故を受けピット前ストレートのスタンドを後退させた。 ●E︵1968年 - ︶13.469 km ●F︵1972年 - ︶13.640 km ●G︵1979年 - ︶13.626 km ●H︵1986年︶13.528 km - ミュルサンヌコーナーの交差点が十字からロータリーに変更されたため、ロータリーを避ける専用コースでショートカットしている。 ●I︵1987年 - ︶13.535 km - ダンロップコーナー前にシケインが設置された。 ●J︵1990年 - ︶13.600 km - ユノディエールに2か所のシケインが設置された。 ●K︵1997年 - ︶13.605 km - ダンロップシケインのレイアウトを変更した。 ●L︵2002年 - ︶13.650 km - ダンロップブリッジ下からS字までレイアウトを変更した。 ●M︵2006年︶13.650 km - ダンロップシケイン付近を改修した。 ●N︵2007年 - ︶13.629 km - テルトルルージュ付近を改修した。 ●O︵2018年 - ︶13.626 km - ポルシェカーブ付近を改修した。優勝車/優勝者[編集]
メーカー別勝利数[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/54/Porsche_956_-_Flickr_-_andrewbasterfield_%281%29.jpg/220px-Porsche_956_-_Flickr_-_andrewbasterfield_%281%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/Bentley_4_of_Barnato_and_Rubin_at_the_1928_24_Hours_of_Le_Mans_%282%29.jpg/220px-Bentley_4_of_Barnato_and_Rubin_at_the_1928_24_Hours_of_Le_Mans_%282%29.jpg)
- 1位. 19回 - ポルシェ
- 2位. 13回 - アウディ
- 3位. 11回 - フェラーリ
- 4位. 7回 - ジャガー
- 5位. 6回 - ベントレー
- 6位. 5回 - トヨタ
- 7位. 4回 - アルファロメオ
- 7位. 4回 - フォード
- 9位. 3回 - マトラ
- 9位. 3回 - プジョー
- 11位.2回 - ブガッティ
- 11位.2回 - ロレーヌ・ディートリッシュ
- 11位.2回 - メルセデス・ベンツ
- 14位.1回 - シュナール・エ・ワルケル
- 14位.1回 - ラゴンダ
- 14位.1回 - ドライエ
- 14位.1回 - タルボ
- 14位.1回 - アストンマーティン
- 14位.1回 - ミラージュ
- 14位.1回 - ルノー
- 14位.1回 - ロンドー
- 14位.1回 - マツダ
- 14位.1回 - マクラーレン
- 14位.1回 - BMW
特筆的な出来事[編集]
ドライバー交代なしで24時間に挑戦[編集]
1955年の事故[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Mercedes-Benz_300_SLR_1986-08-16.jpg/220px-Mercedes-Benz_300_SLR_1986-08-16.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Jaguar_D-Type_1954.jpg/220px-Jaguar_D-Type_1954.jpg)
フェラーリとフォード[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b6/1965_Ferrari_250_LM.jpg/220px-1965_Ferrari_250_LM.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d7/Shelby_GT40.jpg/220px-Shelby_GT40.jpg)
映画俳優の参戦[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d7/Patrick_Dempsey_Le_Mans_2009.jpg/220px-Patrick_Dempsey_Le_Mans_2009.jpg)
ユノディエールとその分割[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/16/Mulsanne_Le_Mans.jpg/220px-Mulsanne_Le_Mans.jpg)
各国自動車メーカーの活動[編集]
フランス[編集]
地元でもあり第一回の1923年にシェナール&ウォルカーが総合優勝したのを含め初期には有力であった。 ロレーヌ・ディートリッシュ 1925年、1926年と連覇している。 ブガッティ 1937年、1939年と総合優勝している。 ドライエ 1938年総合優勝している。 DB/ボネ/マートラ DBは戦後最初に開催された1949年から1961年までの長年休みなしで参戦し、性能指数賞を1954年、1956年、1959年、1960年、1961年と獲得している。オトモビル・ルネ・ボネ体制になってからも1963年まで継続して参戦した。この頃は総合優勝を狙える力はなかったが、さらにその後はマトラ体制になり1966年から参戦、1972年には総合優勝、その後1973年、1974年と三連覇した[7]。 タルボ 1950年総合優勝している。なお下記のプジョーで1992年から1993年にかけて優勝したレースチーム名は、プジョー・タルボ・スポールである。 アルピーヌ・ルノー 1978年総合優勝している。 ロンドー 地元に育ったジャン・ロンドーは、自分の名前を冠したマシンでルマンに優勝するという夢を1980年に果たした。 プジョー 1992年、1993年、2009年に総合優勝した。イギリス[編集]
ベントレー 当初より参戦し、1924年第2回大会でフランス以外の外国車として初優勝。富裕層出身のドライバーたちは﹁ベントレー・ボーイズ﹂と呼ばれた。1927年から1930年まで4連勝し、黎明期に非常に大きな足跡を残した。2001年にはアウディグループ傘下でル・マンへ復帰し、2003年にスピード8が73年ぶりの総合優勝を果たした。 ジャガー 先駆的なメカニズムを持つCタイプで1951年、1953年に勝利しDタイプで1955年から1957年まで3連勝。またトム・ウォーキンショーと組んで1988年、1990年に総合優勝している。 ロータス 1954年、創始者コーリン・チャップマン自らマーク9で参戦し、失格となったもののその速さは国際的にロータスの名が知られるきっかけとなった[8]。参戦2回目の1956年にはイレブンで1,100ccクラス優勝、総合7位入賞を果たした。1962年にロータス・23を3台持ち込んだが、フロントとリアのホイールボルト数が違うことから車検不通過となり、手直しして再車検に臨むがその改造が危険であると指摘されて決勝に出場できず、これをきっかけにワークスは出場を取りやめた。1997年にエリーゼGT1で参戦。2013年にはLMP2クラスにT128︵開発はコデワ︶を投入した。 その他 ●アストンマーティンが1959年に、ガルフ・ミラージュが1975年に、総合優勝している。 ●マクラーレン・カーズ︵現マクラーレン・オートモーティブ︶が開発し、当時行われていたGT選手権で出走していたマクラーレン・F1 GTRが1995年のル・マン24時間レースに同レース初出走し、そのまま総合優勝している。 ●ウィリアムズF1はドイツのBMWと共同開発したBMW・V12 LMRで1999年に総合優勝を果たしている。イタリア[編集]
アルファロメオ 8Cで1931年から1934年まで4連覇した。 フェラーリ 創業間もない1949年に初優勝。その後、1954年、1958年で勝利。1960年から1965年まで6連覇とル・マンの盟主に君臨していたが、1966年フォードの物量作戦に敗れた。1973年に撤退した。1994年からプロトタイプクラスに333SPを、GT1クラスにF40を投入したが過去の様なワークスとしての参加ではなかった。2023年には50年ぶりにル・マン24時間レースのトップカテゴリー(LMH)に復帰し、ワークスマシンとなる﹁499P﹂を投入。ここまでル・マンを5連覇していたトヨタをLMHクラス参戦初年度にもかかわらず打ち破り、ル・マン100周年の節目かつ復帰初年度で総合優勝を飾った。 ランチア 1982年にグループ6のLC1で参戦したが、ポルシェ・956の前に惨敗に終わった。1983年からグループCのLC2にて参戦し、特にポルシェワークスが欠場した1984年は注目を集めたが、この時もヨースト・レーシングに惨敗した。ドイツ[編集]
ポルシェ ●1951年、いまだフランスでドイツに対する風当たりが強い中、競技長であるシャルル・ファルーの招聘によりポルシェ・356で参加し、これがドイツ車の戦後初の国際レースへの参加となった。長らく908、910等中排気量車によるクラス優勝を続けた後、ポルシェ・917を開発して1970年に初の総合優勝を果たした。その後は1971年、1976年、1977年、1979年、1981年から1987年まで7年連続総合優勝し、耐久王の名を馳せた。 ●1994年はダウアー・ポルシェ、1996年と1997年は1984年と1985年にも組んだヨースト・レーシング、1998年はTWRポルシェと連名で優勝した。ワークスチームとしての参加は1998年の優勝以降はしばらく遠のく。 ●2014年よりLMP1マシンでル・マンへ復帰。翌2015年のレースで17年ぶり17度目の優勝、2016年はトヨタとトップ争いを繰り広げたが、最後の最後でトヨタを逆転して18度目の優勝を飾った。2017年はLMP1の全車がトラブルに見舞われた影響で、終盤の時点でもLMP2の車両が総合首位につけていたが、一度は優勝争いから脱落した2号車︵ティモ・ベルンハルト/アール・バンバー/ブレンドン・ハートレイ組︶が残り1時間で逆転し19度目の優勝を飾った。その1か月後、ポルシェはFIA 世界耐久選手権から2017年シーズン限りで撤退することを発表した。 メルセデス・ベンツ 1952年に総合優勝するなど強豪であったが、1955年の大事故で撤退し、その後長らくモータースポーツ自体に参加しない時期が続いた。1985年からザウバーがメルセデス・ベンツのエンジンを使用し、1988年からワークス参戦となり、1989年には総合優勝を果たしている。 1955年は大惨事、1988年はタイヤバースト、1999年はCLRが3度宙を舞うアクシデントによって、3度もレース撤退の決断を強いられ、﹁西暦下2桁ぞろ目のジンクス﹂が囁かれた。 BMW ●1995年に優勝したマクラーレン・F1-GTRには、BMWモータースポーツ︵BMW M︶GmbH製でBMW・8シリーズ#M8のS70/2型というコードがつけられたエンジンが搭載されていた。6.1LV型12気筒DOHC48バルブで、ミッドシップにマウントされている。 ●1999年にはル・マン24時間レース参戦用にBMWとウィリアムズがプロトタイプレーシングカーBMW・V12 LMRを共同開発。このマシンで同年、BMWとしては初のル・マン総合優勝を飾った。同年に開発していたフライホイール式KERSはその後、ポルシェ・911 GT3 Rハイブリッドや、2012年に総合優勝したアウディが投入したR18 e-tron クワトロにも提供していた。 アウディ ●1999年に初出場で3位入賞。その後、21世紀に入ると圧倒的なペースで優勝を重ねる一方で、参戦初年度からの様々な記録を更新し続けていることから﹁ル・マンの鉄人メーカー﹂の異名が付いている。 ●R8を開発し2000年から2002年、荒聖治に日本人2人目のル・マン優勝をもたらした2004年、そして2005年に総合優勝を達成。 ●翌2006年に投入したアウディ・R10 TDIは、ル・マン史上初のディーゼルエンジン搭載車による総合優勝に加え、2007年、2008年と2度目の3連覇、合わせて2004年から2008年まで5連覇を達成した。 ●2010年には総走行距離の最長記録を更新して総合優勝し、2011年に10勝目を挙げた。2012年にはアウディ・R18 e-tron クアトロが初のハイブリッドシステム搭載車として総合優勝を達成した。 ●2016年限りでル・マンを含むWEC及びプロトタイプレース活動からの撤退を表明。同時に達成した参戦初年度から撤退までの18年間全てに及ぶル・マンの連続表彰台入賞記録は史上初かつ前人未到の最長記録となった。アメリカ[編集]
カニンガム カルフォルニアの大富豪ブリッグス・カニンガムが自分の財産をつぎ込んでキャデラックのレーシングバージョンを製作し、1950年代に参戦していた。 シャパラル テキサスの石油王ジム・ホールが個人の資産で作った自動車研究所で空力特性の良い車両を独自の方針に従って開発し、ゼネラルモーターズからエンジンやトランスミッションの支援を受けて参戦した。 フォード 1963年にシェルビー・アメリカンがACカーズとエド・ヒューガスからコブラで参戦し、スターリング・モスがマネージャーを務めるACカーズが総合7位に入賞し、これをフォードが評価してGTプロジェクトに繋がった。フォードはフェラーリ買収に失敗し、フォード・GTを投入した1965年のル・マンでも惨敗、最終的にシェルビー・アメリカンの協力を得て大量にエントリーし1966年に勝利、これがアメリカ車初の勝利となった。フォードは1969年まで4連覇し撤退した。 パノス シボレースイス[編集]
●ザウバー・モータースポーツ・AGが上記の通り1989年にザウバー・メルセデスとしてザウバー・C9で総合優勝した。日本[編集]
ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの先進国の主要自動車生産国としては最も遅い1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。 1970年代は、排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、シグマオートモーティブや童夢などのプライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。 1980年代以降はマツダや日産自動車、トヨタ自動車、本田技研工業などがワークス・準ワークスチームで参戦し、1991年にマツダが初の総合優勝を果たした。しかしマツダは1992年に撤退した。 2012年よりトヨタが再挑戦。2018年には、ついにトヨタ・ガズー・レーシングの中嶋一貴が日本チーム、日本車というオールジャパンチームで総合優勝を飾った。2019年にもトヨタが2連勝し、2020年にはLMP1規定最後となる年で3連覇を果たした。2021年にはLMH規定初年度となる年でトヨタは4連覇を果たすと共に、小林可夢偉が悲願の初優勝を飾った。2022年には平川亮が初優勝を飾っている。なお︵海外メーカー車を使用する︶日本チームや日本人ドライバーも優勝している。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c1/Mazda_757_2.jpg/220px-Mazda_757_2.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Le_Mans-120121-0073FP.jpg/220px-Le_Mans-120121-0073FP.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/1999_Toyota_TS020_01.jpg/220px-1999_Toyota_TS020_01.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Tokyo_Auto_Salon_2019_%2839804218063%29.jpg/230px-Tokyo_Auto_Salon_2019_%2839804218063%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Kremer_Racing_-_Honda_NSX_-_1994_24_Hours_of_Le_Mans.jpg/220px-Kremer_Racing_-_Honda_NSX_-_1994_24_Hours_of_Le_Mans.jpg)
日本のプライベートチームの参戦[編集]
シグマオートモーティブ ル・マンに初めて日本のチームとマシンとドライバーが登場したのは1973年のシグマ・オートモーティブである。当初はトヨタ製エンジンを搭載する予定だったが、トヨタからエンジンの供給を受けられず、やむなくマツダ製の12Aロータリーエンジンを購入して搭載した。このため、ル・マンに出場したMC73はリアウイングに﹁TOYOTA﹂のスポンサーが描かれていながら、マツダのエンジンを搭載した異色のマシンであった。シグマMC73は元々富士グランチャンピオンレース用のマシンで耐久性に問題があり、クラッチトラブルにより79周目にリタイアした。 1974年はマツダオート東京と正式にジョイントし、24時間を走り切ったが、周回数不足で完走と認められなかった。マツダオート東京はエンジンのチューニングとメンテナンスを担当し、この時のル・マンへの思いがのちのマツダのル・マン挑戦のきっかけとなったと言われている。なおこのときのドライバーの一人が、長年参戦を続けたことから後に﹁ミスター・ル・マン﹂の異名を取ることになる寺田陽次郎である。 1975年はトヨタからのエンジン供給が実現し、2T-Gターボエンジンを搭載したシグマ・MC75でエントリーしたが、結果はエンジントラブルでリタイアとなった。 これを最後にル・マン挑戦をやめたが、シグマ・オートモーティブを母体に設立されたサードがその後を引き継ぎ、1990年にトヨタのワークスチームとしてル・マン再出場を果たした。1994年には旧グループCカーを貸与され出場、エディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ組が2位表彰台を獲得している。1995年、1996年には独自開発のGTマシン・サード・MC8RとスープラLM-GTで参戦した。 童夢︵1979 - 1986年︶ 1978年のジュネーブモーターショーで、スーパーカー﹁童夢-零﹂を発表し、その玩具ライセンス収入をきっかけに1979年のル・マン24時間レースに初挑戦した。零RLはF1用に販売されていたフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したが、1台がエンジントラブルで、もう1台もガス欠でリタイアした。 1980年、零RLをクローズドボディ化したRL80を1台エントリーし、最下位の25位で完走した。1981年は、前年と同じRL80で出場したが、エンジントラブルでリタイアした。 1982年、イギリスのマーチとジョイントして、フォード・コスワース・DFLエンジンを搭載した童夢RC82を製作したが、サスペンショントラブルでリタイアした。1983年、マーチとの提携は1年で解消され、前年のマシンを改良したRC82改で出場したが、マシントラブルでリタイアした。1984年、RC-83で出場するものの、予選でコースアウトしてマシンを大破し、決勝出場を辞退した。現地チームに貸与したRC82は予選を通過するも決勝はリタイヤ。 1985年、童夢・トヨタ・トムスによる提携が実現し、童夢製の車体に当時市販されていたグループB車両のトヨタ・セリカGT-TSの2,090ccエンジンをレース用に修正した4T-GT改を搭載する85C-Lで出場。決勝はトランスミッショントラブルでリタイアした。トムスがエントリーしたマシンはトムス・85C-Lと呼ばれるがほぼ同一のマシンである。1986年、前年と同様の体制で86C-Lで出場したが、冷却系統のトラブルでリタイアした。この年限りで童夢の第1期ル・マン参戦は終わった。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/43/Dome_S101.jpg/200px-Dome_S101.jpg)
その他の日本のチーム、ドライバー[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Seiji_Ara_2010_Motorsport_Japan.jpg/150px-Seiji_Ara_2010_Motorsport_Japan.jpg)
日本での中継[編集]
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テレビ朝日のテレビ中継[編集]
毎年原則として、スタート直前の日本時間土曜22時59分︵現地時間15時59分︶フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始直後に出場する全マシンのスターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、そこから1時間程中継し︵ここまでがパート1とされた︶日曜午前0時過ぎ頃にニュース等による中断を挟み、その後午前2時過ぎまでパート2を中継し、ニュース等での中断を挟んでパート3を午前5時まで︵年によっては4時までの場合もあった︶放送。その後日曜午後にパート4を1時間半程放送︵2003年は放送されず︶。ここまでが生中継。ゴールとなるパート5は遅延録画で日本時間日曜23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。 なおサッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間土曜23時に放送が開始された。 それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた[注釈 5]。 競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界では禁忌とされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。 実況 ●東出甫︵1987年︶ ●朝岡聡︵1987年︶ ●森下桂吉︵1987年、1994年︶ ●三浦智和︵1988 - 91年︶ - マツダの日本車初制覇を実況。 ●松苗慎一郎︵1988 - 93年、1995 - 96年︶ - 関谷の日本人初優勝を実況。 ●大熊英司︵1991 - 92年︶ - この後は、スタジオ司会を多く担当している。 ●田原浩史︵1993年、1995 - 2003年︶ ●飯村真一︵1994年︶ ●国吉伸洋︵1997 - 2000年、2003年︶ - 2002年はスタジオ司会を担当。 ●中山貴雄︵2001 - 02年︶ 解説 ●熊谷睦︵1987 - 1990年、1992年︶ - ﹃オートスポーツ﹄編集長︵当時︶、91年はスタジオ解説を担当。 ●赤井邦彦︵1987年︶- モータージャーナリスト、ピットレポートも併せて担当した。 ●津々見友彦︵1991 - 95年︶- 90年はスタジオ解説を担当。 ●由良拓也︵1995 - 2003年︶ - 長年に渡って解説を担当、参戦しているマシンを分析する﹁由良拓也が斬る!﹂というコーナーを持っていた。1995年はピットレポートを担当。 ●郷和道︵2001年︶ ピットリポーター ●ビル大友︵1988 - 89年︶ ●大石吾朗︵1988年︶ ●粕谷俊二︵1993年、1996 - 2001年︶ ●服部尚貴︵1996年︶ ●近藤真彦︵1997年︶ ●影山正彦︵2002年︶ ●飯田章︵2003年︶ 現地リポート ●篠田潤子︵1992年︶ ●田中真理子︵1994年︶ ●徳永有美︵2000年︶ ●石井希和︵2001年︶ ゲスト解説 ●高橋国光︵1991 - 93年︶ ●関谷正徳︵1998 - 99年︶ ●舘信秀︵2001 - 03年︶ ●飯田章︵2001年︶ 現地ゲスト ●松尾雄治︵1987年) - 実況席にゲストとして登場。 ●村上龍︵1989年︶ ●川島なお美︵1990年︶ - 実況席にゲストとして登場。 ●酒井法子︵1992年︶ - ピットバルコニーゲストとして登場。 ●岡本佳織︵1994 - 1995年︶ - ピットリポートを担当した。 ●MANISH︵1996年︶ - この年のテーマソング︵後述︶を担当し、ピットバルコニーゲストとして登場。 ●伊達公子 (1999年) - ピットバルコニーゲストとして登場。 ●松岡充︵SOPHIA︶︵2001年︶ - MANISHと同様、この年のテーマソング︵後述︶を担当。 スタジオゲスト ●後藤新弥︵日刊スポーツ︶︵1987 - 1988年︶ ●大石吾朗︵1989年︶ ●三原じゅん子︵1995年︶ ●奥山道子︵1995年︶ ●藤島親方︵2000年︶ スタジオ司会 ●三好康之︵1987 - 88年︶ ●大熊英司︵1989 - 90年、1993 - 97年、1999 - 2001年、2003年︶ ●田原浩史︵1991 - 92年︶ ●中山貴雄︵1998年︶ ●国吉伸洋︵2002年︶ ●高橋享子︵1990年︶ ●佐藤紀子︵1991年︶ ●川瀬眞由美︵1992年︶ ●木下智佳子︵1993年︶ ●大下容子︵1994 - 95年︶ ●高橋真紀子︵1996年︶ ●下平さやか︵1997 - 99年︶ ●萩野志保子︵2000年︶ ●徳永有美︵2001年︶ ●石井希和︵2002 - 03年︶ 歴代テーマ曲 1987 - 89年はタイアップ曲ではない︵オープニングに曲名、アーティスト名の表示がない︶。また1987 - 88年は提供スポンサー紹介時はテレビ朝日スポーツテーマが流れた。 また、1997年 - 99年のテーマ曲は、テレビ朝日で中継されていたインディ500中継とのダブルタイアップとなっていた。 ●1987年 - Jerry Goodman﹁Rockers﹂ ●1988年 - 3﹁Talkin' Bout﹂ ●1989年 - Genesis﹁Behind The Lines﹂ ●1990年 - 高中正義﹁Can You Feel It﹂ ●1991年 - 外道﹁龍神 〜空に舞う (1991 Version)﹂ ●1992年 - DIMENSION﹁Out Of Wind﹂ ●1993年 - FORCE﹁HUNAUDIERES﹂ ●1994年 - FORCE﹁DISTANT VIEW﹂ ●1995年 - DIMENSION﹁Land Breeze﹂ ●1996年 - MANISH﹁It's so Natural﹂ ●1997年 - ケン・イシイ﹁DRUMMELTER﹂ ●1998年 - CORNELIUS﹁Count 5,6,7,8﹂ ●1999年 - LUNA SEA﹁G.﹂ ●2000年 - 東儀秀樹﹁COOL RUN﹂ ●2001年 - SOPHIA﹁KURU KURU﹂ ●2002年 - SOPHIA﹁ROCK STAR﹂ ●2003年 - B'z﹁IT'S SHOWTIME!!﹂ラジオ中継[編集]
1990年、1991年に2年間、文化放送で中継された。 実況 ●扇一平︵1990年 - 1991年︶ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム[編集]
映画 ●栄光のル・マン︵Le Mans、1971年、アメリカ︶ ●ミシェル・ヴァイヨン︵2003年、フランス︶ ●フォードvsフェラーリ (2019年、アメリカ︶ ●グランツーリスモ (映画) (2023年、アメリカ︶ ドラマ ●ル・マンへ熱き涙を︵1992年、テレビ朝日︶マツダの参戦記をドラマ化したもの。 レーザーディスク ●'84 24HEURES DU MANS︵1984年、パイオニア、プロデューサー‥林正史︶ ビデオソフト ●エキサイティング ルマン︵1984年、プロデューサー‥林正史︶ ●爆走モンスターマシン24時間の記録 ●ル・マン'82 爆走!モンスター・マシン︵1982年、日本コロムビア、プロデューサー‥川野真︶ ●DOME&TOM'S IN LE MANS '85︵1985年、ファンハウス、プロデューサー‥林正史︶ ●24 HEURES DU MANS 1983︵1983年、アドインターナショナル︶ ●Dramas of Le Mans 24Hours︵1980年、東映芸能ビデオ︶ ●'86 LE MANS 24 HOURS RACE︵1986年、デルタポイント︶ ●Le MANS 83︵1983年、東映ビデオ、プロデュース DUKE marketing ltd︶ ●ル・マン カタログ'85︵1985年、TDKコア︶ ●プロジェクトX〜挑戦者たち〜ロータリー47士の闘い ~夢のエンジン 廃墟からの誕生~︵2000年放送、DVD NHKエンタープライズ︶ LP ●24HEURES DU MANS 1983︵1983年、Japan Records、プロデューサー‥林正史︶ ●TINNA/DOME IS A CHILD'S DREAM︵1979年、東芝EMI、プロデューサー‥新田和長︶ ●童夢ZERO RL︵1979年、東芝EMI、プロデューサー‥新田和長︶ ●FUNKY TRACK/鳴瀬喜博︵1984年、徳間ジャパン、プロデューサー‥林正史︶ ●DIGITAL EXPLOSION '83︵1983年、東芝EMI、プロデューサー‥林正史︶ VHD ●DOME & TOM'S IN LE MANS '85︵1985年、日本ビクター、プロデューサー‥林正史︶ CD ●24 HEURES DU MANS 1983︵1983年、Japan Records、プロデューサー‥林正史︶ ●Hot & Long Battle LE MANS 24 HOURS '90︵1990年、ポニーキャニオン︶ 小説 ●高斎正﹃ニッサンがルマンを制覇する時﹄徳間文庫 ISBN 978-4195775387 ●高斎正﹃お気に入りがルマンに優勝する時﹄徳間文庫 ISBN 978-4195792780 ●福野礼一郎﹃スーパーカーのル・マン﹄ - ﹃スーパーカー野郎﹄双葉社 ISBN 978-4575296983 に収録、1994年のル・マン24時間レースのパラレルワールド的作品 ●ブルース・カーター ﹃栄光のポンコツ車﹄岩崎書店 ジュニアベストノベルズ第18巻 1975年刊行絶版、1930年台のベントレースピード6を駆って1950年台のスポーツカー相手にル・マンを戦う話。訳 斎藤伯好 画 伊藤梯夫 漫画 ●新谷かおる﹃白と黒の羊﹄ ●聖悠紀﹃ミルザンヌの嵐﹄主婦と生活社 ISBN 978-4391920086 ●廣谷章、川崎のぼる﹃日産は勝つ―'58オーストラリアラリーから'89ル・マンまで 男たち30年の挑戦﹄東急エージェンシー出版部 ISBN 978-4924664685 ゲーム格言[編集]
昼夜を通して24時間走り続ける過酷なレース現場では予期せぬトラブルが発生することから、日本では﹁ル・マンには魔物が棲んでいる[21]﹂との格言が生まれた。2016年には、初優勝を目指してトップを快走していたトヨタのマシンが車両故障のため、残り3分でポルシェに逆転された。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』グランプリ出版 ISBN 4-87687-161-2
- 『Gr.Cとル・マン』学研 ISBN 978-4-05-604601-4
- 黒井尚志『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』集英社 ISBN 4-08-780158-6
- マーク・カーン著、相原俊樹訳『死のレース 1955年 ルマン』二玄社 ISBN 4-544-04043-4
- 大川悠『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』二玄社
- 神田重巳『世界の自動車-15 クーパー ローラ エルヴァ』二玄社
関連項目[編集]
- ル・マン24時間歴代勝者
- スポーツカー世界選手権
- FIA 世界耐久選手権
- フランス西部自動車クラブ
- ル・マン・シリーズ
- アメリカン・ル・マン・シリーズ
- アジアン・ル・マン・シリーズ
- 録画チャンネル4.5 - 本番組と同じく同業他社が同一番組スポンサーとなった番組。