「ル・マン24時間レース」の版間の差分
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{{Infobox motor race |
{{Infobox motor race |
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|Race title = ル・マン24時間レース<br>24 Heures du Mans |
|Race title = ル・マン24時間レース<br>24 Heures du Mans |
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'''ル・マン 24時間レース'''(ル・マンにじゅうよじかんレース、{{lang-fr-short|24 Heures du Mans}} )は、[[フランス]]の[[ル・マン]]近郊で行われる四輪[[耐久レース]]である。24時間でのサーキット周回数を競う。 |
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主催は[[フランス西部自動車クラブ]](ACO)で[[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権]](WEC)の1戦でもある。'''ル・マン24時間耐久レース'''と記されることもある。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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=== 出場資格 === |
=== 出場資格 === |
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参加するだけでも名誉なことであり世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到することから、現在は、 |
参加するだけでも名誉なことであり世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到することから、[[FIA 世界耐久選手権]] (WEC) の1戦に加えられている現在は、主催者である[[フランス西部自動車クラブ]](ACO)がWECのシーズンエントリーをベースに追加のエントリーを選考し、招待状を送付する。 |
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審査は前年大会の優勝者、[[FIA 世界耐久選手権]](WEC)への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権([[ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ]]、[[アジアン・ル・マン・シリーズ]]、[[ユナイテッド・スポーツカー選手権|ウェザーテック・スポーツカー選手権]])における成績などから判断する。 |
審査は前年大会の優勝者、[[FIA 世界耐久選手権]]︵WEC︶への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権︵[[ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ]]、[[アジアン・ル・マン・シリーズ]]、[[ユナイテッド・スポーツカー選手権|ウェザーテック・スポーツカー選手権]]︶における成績などから判断する。自動招待制度もあり、前述の各種スポーツカー選手権の成績上位チームやドライバーは自動的にエントリー権を得る事が可能<ref>{{Cite web |title=Which teams have already been invited to compete in the 2024 24 Hours of Le Mans? |url=https://www.24h-lemans.com/en/news/which-teams-have-already-been-invited-to-compete-in-the-2024-24-hours-of-le-mans-57964 |website=24h-lemans.com |access-date=2023-11-30 |language=en |publisher=[[フランス西部自動車クラブ|ACO]] |date=2023-10-22}}</ref><ref>{{Cite web |title=How many competitors will be invited to the 24 Hours of Le Mans 2024? |url=https://en.endurance-info.com/auto/article/108275-how-many-competitors-will-be-invited-24-hours-le-mans-2024 |website=Endurance Info |access-date=2023-11-30 |language=en |date=2023-08-10}}</ref>。
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また、最大参加台数の55台{{efn|ピットのガレージを拡張したため、2016年より最大59台。}}に加えて、2012年より近未来の自動車技術に挑戦する車両に対して'''ガレージ56'''という賞典外の特別枠が用意されている。2016年は病で四肢を失ったドライバーが選ばれた<ref>{{Cite web |
また、最大参加台数の55台{{efn|ピットのガレージを拡張したため、2016年より最大59台。}}に加えて、2012年より近未来の自動車技術に挑戦する車両に対して'''ガレージ56'''という賞典外の特別枠が用意されている。2016年は病で四肢を失ったドライバーが選ばれた<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-20 |url=http://wired.jp/2016/06/20/quadruple-amputee-le-mans/ |title=両手両足を失って、彼は「ル・マン」に挑み、見事に完走した |publisher=WIRED |accessdate=2017-04-17}}</ref>。 |
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かつては多すぎるエントリー希望者を振るい落とすため、テストデーで[[予備予選]]が行われた時期もある。また、ル・マンに的を絞って特別に開発したマシンで、ルマンに合わせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、[[国際自動車連盟]](FIA)がル・マンを含めた[[スポーツカー世界選手権|世界スポーツプロトタイプカー選手権]](WSPC)全戦への参加を義務付けたこともあ |
かつては多すぎるエントリー希望者を振るい落とすため、テストデーで[[予備予選]]が行われた時期もある。また、ル・マンに的を絞って特別に開発したマシンで、ルマンに合わせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、[[国際自動車連盟]](FIA)がル・マンを含めた[[スポーツカー世界選手権|世界スポーツプロトタイプカー選手権]](WSPC)全戦への参加を義務付けたこともある。 |
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=== スケジュール === |
=== スケジュール === |
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*1位. 19回 - [[ポルシェ]] |
*1位. 19回 - [[ポルシェ]] |
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*2位. 13回 - [[アウディ]] |
*2位. 13回 - [[アウディ]] |
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*3位. |
*3位. 11回 - [[フェラーリ]] |
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*4位. 7回 - [[ジャガー (自動車)|ジャガー]] |
*4位. 7回 - [[ジャガー (自動車)|ジャガー]] |
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*5位. 6回 - [[ベントレー]] |
*5位. 6回 - [[ベントレー]] |
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*9位. 3回 - [[プジョー]] |
*9位. 3回 - [[プジョー]] |
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*11位.2回 - [[ブガッティ]] |
*11位.2回 - [[ブガッティ]] |
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*11位.2回 - ロレーヌ・ディートリッシュ |
*11位.2回 - {{仮リンク2|ロレーヌ・ディートリッシュ|en|Lorraine-Dietrich}} |
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*11位.2回 - [[メルセデス・ベンツ]] |
*11位.2回 - [[メルセデス・ベンツ]] |
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*14位.1回 - シュナール・エ・ワルケル |
*14位.1回 - {{仮リンク2|シュナール・エ・ワルケル|en|Chenard-Walcker}} |
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*14位.1回 - ラゴンダ |
*14位.1回 - [[ラゴンダ]] |
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*14位.1回 - [[ドライエ]] |
*14位.1回 - [[ドライエ]] |
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*14位.1回 - [[タルボ (自動車メーカー)|タルボ]] |
*14位.1回 - [[タルボ (自動車メーカー)|タルボ]] |
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== 特筆的な出来事 == |
== 特筆的な出来事 == |
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<!-- 話題はだいたいの年代順にソート --> |
<!-- 話題はだいたいの年代順にソート --> |
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=== ドライバー交代なしで24時間に挑戦 === |
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[[ピエール・ルヴェー]]は1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡って[[ステアリング]]を握りトップを走り続けたが、[[疲労]]のためギアを入れ間違えて[[エンジンブロー|エンジンを壊し]]リタイアとなった<ref>『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.40、グランプリ出版。</ref>。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。 |
[[ピエール・ルヴェー]]は1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡って[[ステアリング]]を握りトップを走り続けたが、[[疲労]]のためギアを入れ間違えて[[エンジンブロー|エンジンを壊し]]リタイアとなった<ref>『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.40、グランプリ出版。</ref>。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。 |
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ルヴェーのリタイアにより優勝を果たしたメルセデス・ベンツのチーム監督であった[[アルフレート・ノイバウアー]]は、その後ルヴェーをメルセデスのチームへ[[招聘]]している(後述)。 |
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=== 1955年の事故 === |
=== 1955年の事故 === |
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{{main|1955年のル・マン24時間レース}} |
{{main|1955年のル・マン24時間レース}} |
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[[1955年]]に発生し、多数の死傷者を出したこの事故は、モータースポーツ界に大きな影響を与えたのみならず、事故の当事者となった自動車メーカーのその後の経営にも大きな影響を与えることになった。 |
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[[File:Mercedes-Benz 300 SLR 1986-08-16.jpg|thumb|220px|right|メルセデス・ベンツ・300 SLR(同型車)]] |
[[File:Mercedes-Benz 300 SLR 1986-08-16.jpg|thumb|220px|right|メルセデス・ベンツ・300 SLR(同型車)]] |
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[[ファイル:Jaguar D-Type 1954.jpg|thumb|220px|right|ジャガー・Dタイプ(同型車)]] |
[[ファイル:Jaguar D-Type 1954.jpg|thumb|220px|right|ジャガー・Dタイプ(同型車)]] |
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1955年[[6月11日]]18時28分、トップを走っていた[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]の[[マイク・ホーソーン]]が周回遅れの[[オースチン・ヒーレー]]を抜いた直後に急減速してピットイン |
[[1955年]][[6月11日]]18時28分、トップを走っていた[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]の[[マイク・ホーソーン]]が周回遅れの[[オースチン・ヒーレー]]を抜いた直後に急減速してピットイン。後続のオースチン・ヒーレーのドライバー、[[ランス・マクリン]]が追突を避けようと進路変更したところへ、[[メルセデス・ベンツ]]を運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。 |
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この事故の映像は、映画﹃[[グレート・ドライバー]]︵原題"Fangio"︶﹄等で観ることができる。またルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行、コクピットからその一部始終を目撃した[[ファン・マヌエル・ファンジオ]]は、この映画の中で﹁ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前 |
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この事故の映像は、映画﹃[[グレート・ドライバー]]︵原題"Fangio"︶﹄等で観ることができる。また、ルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行し、コクピットからその一部始終を目撃していた[[ファン・マヌエル・ファンジオ]]は、この映画の中で﹁ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360 mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台︵[[カール・クリング]]のメルセデス︶がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった﹂と述べ、いわゆるレーシングアクシデント︵特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント︶であったことを模型を用いて解説している。なお、事故後の調査でファンジオのメルセデスの車体にホーソーンのジャガーの塗装がこびり付いていたことでごくわずかに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。
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メルセデス・ |
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メルセデス・チームはトップを走行していたが、事故発生から7時間半後、全マシンを呼び戻して棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マンに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に﹁ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか﹂と︵事故の原因とは関係ない︶レギュレーション違反を疑う声があったが、これについてファンジオは﹁あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ﹂と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは﹁[[ガソリン直噴エンジン|燃料噴射システム]]の秘密を知られないため﹂という趣旨の発言をしている<ref>﹃死のレース 1955年 ルマン﹄p.214。</ref>。
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﹁モータースポーツの安全性﹂という点に大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと[[西ドイツ]]のグランプリレースは中止、フランスとイタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、[[スイス]]に至ってはモータースポーツそのものが禁止される<ref group="注釈">[[ラリー]]や[[ヒルクライム]]競技等から徐々に緩和された。完全に解禁する法案が[[2007年]][[6月]]に下院を通過したが、上院で否決され2009年に撤回された。</ref>など、全世界に大きな影響を残した。[[フォーミュラ1|F1]]も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。
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[[フォーミュラ1|F1]]も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。メルセデス・ベンツ自体も、[[1985年のル・マン24時間レース]]に[[ザウバー・C8]]にて復帰するまで、実に30年に渡りル・マンひいてはモータースポーツから姿を消すこととなった。
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この事故の詳細を記した書籍として﹃死のレース 1955年 ルマン﹄が存在する。事故から20年後、当事者の1人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後の動向が著されている。
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メルセデス自体も、[[1985年のル・マン24時間レース]]に[[ザウバー・C8]]にて復帰するまで、30年にわたってモータースポーツ界から姿を消すこととなった。復帰後の1999年にも、この年に投入したばかりの[[メルセデス・ベンツ・CLR|CLR]]が3度にわたって宙を舞う事態に見舞われ、﹁1955年の悪夢再び﹂と騒がれた。これを受けてメルセデスは再びル・マンから撤退し、2023年現在も参戦していない。
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マクリンは後年、モータースポーツの世界を離れて[[自動車ディーラー|カーディーラー]]経営者となったが、[[2002年]]にこの世を去っている。 |
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===フェラーリとフォード=== |
===フェラーリとフォード=== |
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[[File:1965 Ferrari 250 LM.jpg|thumb|220px|right|フェラーリ・250LM(1965年)]] |
[[File:1965 Ferrari 250 LM.jpg|thumb|220px|right|フェラーリ・250LM(1965年)]] |
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[[File:Shelby GT40.jpg|thumb|220px|right|フォード・GT40Mk2(1966年)]] |
[[File:Shelby GT40.jpg|thumb|220px|right|フォード・GT40Mk2(1966年)]] |
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[[1960年]] |
[[1960年]]から[[1963年]]にかけてル・マン24時間レースを3連覇するなど、[[1960年代]]初頭のスポーツカーレースで最強の座に君臨していた[[フェラーリ]]は、[[モータースポーツ]]への過剰投資や、当時イタリア北部で勢力を増していた[[イタリア共産党]]などの左翼政党が後援した[[労働争議|労使紛争]]とそれがもたらした[[ストライキ]]、さらには創業者[[エンツォ・フェラーリ]]の妻のラウラによる現場への介入によって、[[1961年]]11月には[[カルロ・キティ]]ら主要メンバーによる[[クーデター]]が勃発し、キティやジオット・ビッザリーニら役員8名が去るなどの事件が起きたことも影響し、経営が苦境に陥った。
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その後1963年に |
その後、1963年にはスポーツカーレースでの活躍を望んでいた[[ヘンリー・フォード]]2世率いる[[フォード・モーター]]に買収されることになり、[[マラネッロ]]の本社で契約の直前まで漕ぎつけた。しかし、金銭面で最終的に折り合わなかったこと、さらにはモータースポーツ部門を引き続き統括したかったエンツォの判断により、急遽白紙撤回された。この背景には、フェラーリを他国の企業に渡したくなかった[[フィアット]]・グループのトップ、[[ジャンニ・アニェッリ]]の意向も影響していたといわれる。
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これに怒ったヘンリー・フォード |
これに怒ったヘンリー・フォード2世は、フェラーリを破ることを目指して、当時﹁モータースポーツ史上最高額﹂とも言われるほどの多額の投資をして[[フォード・GT40|GT40]]を開発し、アメリカ国内外の選手権で経験を積みつつ、[[1964年]]にル・マン24時間レースに参戦した。しかし、[[マウロ・フォルギエーリ]]がル・マン向けに開発した[[フェラーリ・250LM|フェラーリ・250LM/275P]]に対して、ノウハウがないフォードは苦戦し連敗を喫した。
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フォードでは[[キャロル・シェルビー]]率いるシェルビー・アメリカンの助けを借りてマシンを改良し、さらに[[フィル・ヒル]]やボブ・ボンデュラント、[[マリオ・アンドレッティ]]やデイビット・ホッブス、[[ダン・ガーニー]]などの経験豊富なドライバーを擁して6台もの大量エントリーをすることで[[1966年]]に初優勝を飾った。その後はフェラーリが[[フォーミュラ1|F1]]に集中したこともあって、以降数年間のル・マンはフォードが連勝することになる。 |
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現在、フェラーリはLM-GTEに参戦するプライベートチームへのマシンの提供という形でル・マンに関わっている一方、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰していたものの、2019年で撤退した。 |
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=== 映画俳優の参戦 === |
=== 映画俳優の参戦 === |
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=== ユノディエールとその分割 === |
=== ユノディエールとその分割 === |
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[[File:Mulsanne Le Mans.jpg|thumb|220px|right|ユノディエール]] |
[[File:Mulsanne Le Mans.jpg|thumb|220px|right|ユノディエール]] |
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ユノディエールは |
ユノディエールは6kmに及ぶ直線であり、300 km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400 km/hに近づくにつれて54秒ほどで走り切るマシンが登場したが、非常に長い時間アクセルを全開にして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車のヘッドライトだけが頼りとなる。
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日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後の[[サード (企業)|サード]])の監督 |
日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後の[[サード (企業)|サード]])の監督を務めた[[加藤眞]]は、ユノディエールを走るマシンを見て「マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないか」という印象を持った。 |
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WM・セカテバ・[[プジョー]]は成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度に |
WM・セカテバ・[[プジョー]]は、成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度記録に注力し、[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]に'''407 km/h'''の公式記録を残している。しかし、実際には計測されていないだけで400 km/hを越えたマシンは数多くあったといわれており、[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]にはメルセデス・ベンツの[[ザウバー・C9]]が決勝走行中に400 km/hを記録した。
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国際自動車スポーツ連盟︵FISA、後の[[国際自動車連盟]]︶は、安全性の観点から |
国際自動車スポーツ連盟︵FISA、後の[[国際自動車連盟]]︶は、安全性の観点から2 km以上の直線を認めない旨のルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。[[フランス西部自動車クラブ]]は﹁これこそがル・マンの特徴である﹂と主張し、[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]は[[1989年の世界スポーツプロトタイプカー選手権|世界スポーツプロトタイプカー選手権]]︵{{Lang-en-short|World Sports Prototype Championship}}, WSPC︶から外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨を通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるため、急遽ユノディエールにシケインを2か所挿入するコース改修がなされたが、工事の完成は[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]のレース直前となり、2か月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため、1990年も[[1990年の世界スポーツプロトタイプカー選手権|WSPC]]からは外れることとなった。
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== 各国自動車メーカーの活動 == |
== 各国自動車メーカーの活動 == |
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:先駆的なメカニズムを持つ[[ジャガー・Cタイプ|Cタイプ]]で[[1951年のル・マン24時間レース|1951年]]、[[1953年のル・マン24時間レース|1953年]]に勝利し[[ジャガー・Dタイプ|Dタイプ]]で[[1955年のル・マン24時間レース|1955年]]から[[1957年のル・マン24時間レース|1957年]]まで3連勝。また[[トム・ウォーキンショー]]と組んで[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]、[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]に総合優勝している。
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:先駆的なメカニズムを持つ[[ジャガー・Cタイプ|Cタイプ]]で[[1951年のル・マン24時間レース|1951年]]、[[1953年のル・マン24時間レース|1953年]]に勝利し[[ジャガー・Dタイプ|Dタイプ]]で[[1955年のル・マン24時間レース|1955年]]から[[1957年のル・マン24時間レース|1957年]]まで3連勝。また[[トム・ウォーキンショー]]と組んで[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]、[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]に総合優勝している。
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;[[ロータス・カーズ|ロータス]] |
;[[ロータス・カーズ|ロータス]] |
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:[[1954年]]、創始者[[コーリン・チャップマン]]自らマーク9で参戦し、失格となったもののその速さは国際的にロータスの名が知られるきっかけとなった<ref>﹃ワールドカーガイド8ロータス﹄p.131。</ref>。参戦2回目の[[1956年のル・マン24時間レース|1956年]]にはイレブンで1,100ccクラス優勝、総合7位入賞を果たした。[[1962年のル・マン24時間レース|1962年]]にロータス・23を3台持ち込んだが、フロントとリアのホイールボルト数が違うことから車検不通過となり、手直しして再車検に臨むがその改造が危険であると指摘されて決勝に出場できず、これをきっかけにワークスは出場を取りやめた。1997年に[[ロータス・エリーゼ|エリーゼGT1]]で参戦。2013年にはLMP2クラスに |
:[[1954年]]、創始者[[コーリン・チャップマン]]自ら{{仮リンク2|ロータス・マーク9|en|Lotus Mark IX|label=マーク9}}で参戦し、失格となったもののその速さは国際的にロータスの名が知られるきっかけとなった<ref>﹃ワールドカーガイド8ロータス﹄p.131。</ref>。参戦2回目の[[1956年のル・マン24時間レース|1956年]]には{{仮リンク2|ロータス・イレブン|en|Lotus Eleven|label=イレブン}}で1,100ccクラス優勝、総合7位入賞を果たした。[[1962年のル・マン24時間レース|1962年]]に{{仮リンク2|ロータス・23|en|Lotus 23}}を3台持ち込んだが、フロントとリアのホイールボルト数が違うことから車検不通過となり、手直しして再車検に臨むがその改造が危険であると指摘されて決勝に出場できず、これをきっかけにワークスは出場を取りやめた。1997年に[[ロータス・エリーゼ#GT1︵115︶|エリーゼGT1]]で参戦。2013年にはLMP2クラスに[[ロータス・T128 (ル・マン・プロトタイプ)|T128]]︵開発は[[コデワ]]︶を投入した。
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;その他 |
;その他 |
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* [[アストンマーティン]]が[[1959年のル・マン24時間レース|1959年]]に、[[ガルフ |
* [[アストンマーティン]]が[[1959年のル・マン24時間レース|1959年]]に、[[JWオートモーティヴ・エンジニアリング|ガルフ・ミラージュ]]が[[1975年のル・マン24時間レース|1975年]]に、総合優勝している。 |
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* [[マクラーレン]]・カーズ(現[[マクラーレン・オートモーティブ]])が開発し、当時行われていたGT選手権で出走していた[[マクラーレン・F1 |
* [[マクラーレン]]・カーズ(現[[マクラーレン・オートモーティブ]])が開発し、当時行われていたGT選手権で出走していた[[マクラーレン・F1#モータースポーツ|マクラーレン・F1 GTR]]が[[1995年のル・マン24時間レース]]に同レース初出走し、そのまま総合優勝している。 |
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* [[ウィリアムズF1]]はドイツの[[BMW]]と共同開発した[[BMW・V12 LMR]]で1999年に総合優勝を果たしている。 |
* [[ウィリアムズF1]]はドイツの[[BMW]]と共同開発した[[BMW・V12 LMR]]で1999年に総合優勝を果たしている。 |
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:[[アルファロメオ・8C|8C]]で[[1931年のル・マン24時間レース|1931年]]から[[1934年のル・マン24時間レース|1934年]]まで4連覇した。 |
:[[アルファロメオ・8C|8C]]で[[1931年のル・マン24時間レース|1931年]]から[[1934年のル・マン24時間レース|1934年]]まで4連覇した。 |
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;[[フェラーリ]] |
;[[フェラーリ]] |
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:創業間もない[[1949年のル・マン24時間レース|1949年]]に初優勝。その後、[[1954年のル・マン24時間レース|1954年]]、[[1958年のル・マン24時間レース|1958年]]で勝利。[[1960年のル・マン24時間レース|1960年]]から[[1965年のル・マン24時間レース|1965年]]まで6連覇とル・マンの盟主に君臨していたが、[[1966年のル・マン24時間レース|1966年]][[フォード・モーター|フォード]]の物量作戦に敗れた。[[1973年のル・マン24時間レース|1973年]]に撤退した。1994年からプロトタイプクラスに333SPを、GT1クラスにF40を投入したが過去の様なワークス |
:創業間もない[[1949年のル・マン24時間レース|1949年]]に初優勝。その後、[[1954年のル・マン24時間レース|1954年]]、[[1958年のル・マン24時間レース|1958年]]で勝利。[[1960年のル・マン24時間レース|1960年]]から[[1965年のル・マン24時間レース|1965年]]まで6連覇とル・マンの盟主に君臨していたが、[[1966年のル・マン24時間レース|1966年]][[フォード・モーター|フォード]]の物量作戦に敗れた。[[1973年のル・マン24時間レース|1973年]]に撤退した。1994年からプロトタイプクラスに[[フェラーリ・333SP|333SP]]を、GT1クラスに[[フェラーリ・F40|F40]]を投入したが過去の様なワークスとしての参加ではなかった。[[:en:2023 24 Hours of Le Mans|2023年]]には50年ぶりにル・マン24時間レースのトップカテゴリー([[ル・マン・ハイパーカー|LMH]])に復帰し、ワークスマシンとなる﹁[[フェラーリ・499P|499P]]﹂を投入。ここまでル・マンを5連覇していた[[トヨタ]]をLMHクラス参戦初年度にもかかわらず打ち破り、ル・マン100周年の節目かつ復帰初年度で総合優勝を飾った。
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;[[ランチア]] |
;[[ランチア]] |
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:[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]にグループ6のLC1で参戦したが、[[ポルシェ・956]]の前に惨敗に終わった。[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]からグループCの[[ランチア・LC2|LC2]]にて参戦し、特にポルシェワークスが欠場した[[1984年のル・マン24時間レース|1984年]]は注目を集めたが、この時も[[ヨースト・レーシング]]に惨敗した。
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:[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]にグループ6の[[ランチア・LC1|LC1]]で参戦したが、[[ポルシェ・956]]の前に惨敗に終わった。[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]からグループCの[[ランチア・LC2|LC2]]にて参戦し、特にポルシェワークスが欠場した[[1984年のル・マン24時間レース|1984年]]は注目を集めたが、この時も[[ヨースト・レーシング]]に惨敗した。
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=== ドイツ === |
=== ドイツ === |
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* [[1951年のル・マン24時間レース|1951年]]、いまだフランスでドイツに対する風当たりが強い中、競技長であるシャルル・ファルーの招聘により[[ポルシェ・356]]で参加し、これがドイツ車の戦後初の国際レースへの参加となった。長らく908、910等中排気量車によるクラス優勝を続けた後、[[ポルシェ・917]]を開発して[[1970年のル・マン24時間レース|1970年]]に初の総合優勝を果たした。その後は[[1971年のル・マン24時間レース|1971年]]、[[1976年のル・マン24時間レース|1976年]]、[[1977年のル・マン24時間レース|1977年]]、[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]、[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]から[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]まで7年連続総合優勝し、耐久王の名を馳せた。
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* [[1951年のル・マン24時間レース|1951年]]、いまだフランスでドイツに対する風当たりが強い中、競技長であるシャルル・ファルーの招聘により[[ポルシェ・356]]で参加し、これがドイツ車の戦後初の国際レースへの参加となった。長らく908、910等中排気量車によるクラス優勝を続けた後、[[ポルシェ・917]]を開発して[[1970年のル・マン24時間レース|1970年]]に初の総合優勝を果たした。その後は[[1971年のル・マン24時間レース|1971年]]、[[1976年のル・マン24時間レース|1976年]]、[[1977年のル・マン24時間レース|1977年]]、[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]、[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]から[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]まで7年連続総合優勝し、耐久王の名を馳せた。
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* [[1994年]]は[[ポルシェ・962|ダウアー・ポルシェ]]、[[1996年]]と[[1997年]]は[[1984年]]と[[1985年]]にも組んだ[[ヨースト・レーシング]]、[[1998年]]は[[トム・ウォーキンショー|TWRポルシェ]]と連名で優勝した。ワークスチームとしての参加は1998年の優勝以降はしばらく遠のく。 |
* [[1994年]]は[[ポルシェ・962|ダウアー・ポルシェ]]、[[1996年]]と[[1997年]]は[[1984年]]と[[1985年]]にも組んだ[[ヨースト・レーシング]]、[[1998年]]は[[トム・ウォーキンショー|TWRポルシェ]]と連名で優勝した。ワークスチームとしての参加は1998年の優勝以降はしばらく遠のく。 |
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* [[2014年のル・マン24時間レース|2014年]]よりLMP1マシンでル・マンへ復帰。翌2015年のレースで17年ぶり17度目の優勝、[[2016年のル・マン24時間レース|2016年]]はトヨタとトップ争いを繰り広げたが、最後の最後でトヨタを逆転して18度目の優勝を飾った。[[2017年のル・マン24時間レース|2017年]]はLMP1の全車がトラブルに見舞われた影響で、終盤の時点でもLMP2の車両が総合首位につけていたが、一度は優勝争いから脱落した2号車︵ティモ・ベルンハルト/アール・バンバー/ブレンドン・ハートレ |
* [[2014年のル・マン24時間レース|2014年]]よりLMP1マシンでル・マンへ復帰。翌2015年のレースで17年ぶり17度目の優勝、[[2016年のル・マン24時間レース|2016年]]はトヨタとトップ争いを繰り広げたが、最後の最後でトヨタを逆転して18度目の優勝を飾った。[[2017年のル・マン24時間レース|2017年]]はLMP1の全車がトラブルに見舞われた影響で、終盤の時点でもLMP2の車両が総合首位につけていたが、一度は優勝争いから脱落した2号車︵[[ティモ・ベルンハルト]]/[[アール・バンバー]]/[[ブレンドン・ハートレイ]]組︶が残り1時間で逆転し19度目の優勝を飾った。その1か月後、ポルシェは[[FIA 世界耐久選手権]]から2017年シーズン限りで撤退することを発表した。
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;[[メルセデス・ベンツ]] |
;[[メルセデス・ベンツ]] |
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:[[1952年のル・マン24時間レース|1952年]]に総合優勝するなど強豪であったが、[[1955年のル・マン24時間レース|1955年]]の大事故で撤退し、その後長らくモータースポーツ自体に参加しない時期が続いた。[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]から[[ザウバー]]がメルセデス・ベンツのエンジンを使用し、[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]からワークス参戦となり、[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]には総合優勝を果たしている。
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:[[1952年のル・マン24時間レース|1952年]]に総合優勝するなど強豪であったが、[[1955年のル・マン24時間レース|1955年]]の大事故で撤退し、その後長らくモータースポーツ自体に参加しない時期が続いた。[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]から[[ザウバー]]がメルセデス・ベンツのエンジンを使用し、[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]からワークス参戦となり、[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]には総合優勝を果たしている。
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=== スイス === |
=== スイス === |
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*[[ザウバー |
*[[ザウバー|ザウバー・モータースポーツ・AG]]が上記の通り1989年にザウバー・メルセデスとして[[ザウバー・C9]]で総合優勝した。 |
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=== 日本 === |
=== 日本 === |
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:マツダは日本勢としては最も古く1970年代からル・マン24時間レースに参戦していた。途中[[1984年のル・マン24時間レース|1984年]]にはアメリカ合衆国のチームがマツダ・ロータリーエンジンを積んだBFグッドリッチマツダローラを2台エントリーし、うち1台が総合10位・C2クラスでは優勝という成績を残している<ref>[http://www.mazda.co.jp/philosophy/rotary/motorsports/index05_04.html マツダ公式サイト内の、同年C2クラスで優勝したBFグッドリッチマツダローラT616]</ref>。僚車であるもう一台のBFグッドリッチマツダローラは総合12位に入賞、マツダワークスとして参加した727Cの2台も完走を果たし、4台でダイヤモンドフォーメーションを組んでゴールした。 |
:マツダは日本勢としては最も古く1970年代からル・マン24時間レースに参戦していた。途中[[1984年のル・マン24時間レース|1984年]]にはアメリカ合衆国のチームがマツダ・ロータリーエンジンを積んだBFグッドリッチマツダローラを2台エントリーし、うち1台が総合10位・C2クラスでは優勝という成績を残している<ref>[http://www.mazda.co.jp/philosophy/rotary/motorsports/index05_04.html マツダ公式サイト内の、同年C2クラスで優勝したBFグッドリッチマツダローラT616]</ref>。僚車であるもう一台のBFグッドリッチマツダローラは総合12位に入賞、マツダワークスとして参加した727Cの2台も完走を果たし、4台でダイヤモンドフォーメーションを組んでゴールした。 |
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:レギュレーションの変更に伴い[[ロータリーエンジン]]が参加できるのは1990年までとなり、[[1990年のル・マン24時間レース]]に[[マツダ・787]]を投入したが惨敗した。しかし1990年秋、各社の新規格プロトタイプカーの準備が整わないことから翌1991年もロータリーエンジンの出場が認められることになった。 |
:レギュレーションの変更に伴い[[ロータリーエンジン]]が参加できるのは1990年までとなり、[[1990年のル・マン24時間レース]]に[[マツダ・787]]を投入したが惨敗した。しかし1990年秋、各社の新規格プロトタイプカーの準備が整わないことから翌1991年もロータリーエンジンの出場が認められることになった。 |
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:[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]、日本のメーカーとして初めて総合優勝を果たした。優勝車両は[[マツダ・787]] |
:[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]、日本のメーカーとして初めて総合優勝を果たした。優勝車両は[[マツダ・787#787B|マツダ・787B]]、ドライバーは[[ジョニー・ハーバート]]/[[ベルトラン・ガショー]]/[[フォルカー・ヴァイドラー]]。同時に参戦していた他の2台も6位と8位に入った。なおこの年はファイナルラップ中に24時間のゴールタイムを迎えたため終了前に観客がコースになだれ込んでしまい、マツダはピットロードにてチェッカーを受けることになってしまった。更にゴール時にドライブしていたジョニー・ハーバートが[[脱水症状]]を起こし、ゴール直後に医務室に搬送されたために表彰台に姿を現さない一幕もあった。 |
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:大資本をバックに大々的に参戦してきた他の日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自の技術とともに、長い年月をかけて地道に参戦を続けてきた{{独自研究範囲|マツダの総合優勝は、多くの地元観客のみならず、他の参戦ワークスチームや世界中のモータースポーツファンから大きな賞賛を浴びた|date=2018年6月}}。 |
:大資本をバックに大々的に参戦してきた他の日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自の技術とともに、長い年月をかけて地道に参戦を続けてきた{{独自研究範囲|マツダの総合優勝は、多くの地元観客のみならず、他の参戦ワークスチームや世界中のモータースポーツファンから大きな賞賛を浴びた|date=2018年6月}}。 |
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:このとき優勝した55号車に施されていたレナウン・チャージカラーの塗装は、スポンサーであった[[レナウン (企業)|レナウン]]の当時の社長がルマン以前のマツダの戦いを目にし﹁こりゃ勝つのは無理だ。じゃあとにかく目立て﹂と指示を出し、レナウンの社内デザイナーが布地の[[アーガイル柄]]をベースに考案したものである{{要出典|date=2018年6月}}。
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:このとき優勝した55号車に施されていたレナウン・チャージカラーの塗装は、スポンサーであった[[レナウン (企業)|レナウン]]の当時の社長がルマン以前のマツダの戦いを目にし﹁こりゃ勝つのは無理だ。じゃあとにかく目立て﹂と指示を出し、レナウンの社内デザイナーが布地の[[アーガイル柄]]をベースに考案したものである{{要出典|date=2018年6月}}。
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:トヨタが「ワークス」として参戦するようになったのは[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]からで、トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。翌[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]には[[トヨタ・87C|88C]]が12位で完走している。[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]には[[トヨタ・90C-V|90C-V]]が6位に入賞。1年の参戦中断の後[[1992年のル・マン24時間レース|1992年]][[トヨタ・TS010|TS010]]で復帰したが、雨の中のレースでプジョーに破れ、結局総合2位にとどまった。 |
:トヨタが「ワークス」として参戦するようになったのは[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]からで、トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。翌[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]には[[トヨタ・87C|88C]]が12位で完走している。[[1990年のル・マン24時間レース|1990年]]には[[トヨタ・90C-V|90C-V]]が6位に入賞。1年の参戦中断の後[[1992年のル・マン24時間レース|1992年]][[トヨタ・TS010|TS010]]で復帰したが、雨の中のレースでプジョーに破れ、結局総合2位にとどまった。 |
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:[[1994年のル・マン24時間レース|1994年]]には[[サード (企業)|サード]]から[[トヨタ・94C-V|トヨタ94C-V]]が参戦し、シフトリンケージが壊れあと一歩のところで総合優勝を逃し、総合2位、クラス優勝となった。 |
:[[1994年のル・マン24時間レース|1994年]]には[[サード (企業)|サード]]から[[トヨタ・94C-V|トヨタ94C-V]]が参戦し、シフトリンケージが壊れあと一歩のところで総合優勝を逃し、総合2位、クラス優勝となった。 |
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:久々の復帰となった[[1998年のル・マン24時間レース|1998年]]は[[トヨタ・チーム・ヨーロッパ |
:久々の復帰となった[[1998年のル・マン24時間レース|1998年]]は[[トヨタ・チーム・ヨーロッパ]](TTE)を通じて出走した[[トヨタ・GT-One TS020|TS020]]が圧倒的な速さを見せたが、終了30分前にリタイア。また[[1999年のル・マン24時間レース|1999年]]には[[片山右京]]、[[土屋圭市]]、[[鈴木利男]]組が1998年仕様と同型の3号車での出場ながらトップに迫る快走を見せたが、タイヤバーストに見舞われ総合2位に終わった。トヨタは[[2002年]]からの[[フォーミュラ1|F1]]参戦に集中するため同年限りで参戦を休止した。 |
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:なお先述のTTEの前身はラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツであり、のちの[[トヨタF1]]の実働部隊である[[トヨタ・モータースポーツ]](TMG)の母体となった組織である。ル・マン参戦前は[[世界ラリー選手権|WRC]]にトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦し、選手権を制覇している。 |
:なお先述のTTEの前身はラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツであり、のちの[[トヨタF1]]の実働部隊である[[トヨタ・モータースポーツ]](TMG)の母体となった組織である。ル・マン参戦前は[[世界ラリー選手権|WRC]]にトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦し、選手権を制覇している。 |
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:[[2012年のル・マン24時間レース|2012年]]には[[ハイブリッドカー]]の[[トヨタ・TS030 HYBRID|TS030 HYBRID]]で13年振りにル・マン復帰。2台で参戦し予選で3位になり、決勝でもトップ争いを繰り広げたものの、1台は周回遅れの車と絡んでクラッシュ、残る1台もトラブルでリタイアした。[[2013年のル・マン24時間レース|2013年]]には、決勝で2位に入賞。新モデルの[[トヨタ・TS040 HYBRID|TS040 HYBRID]]で臨んだ[[2014年のル・マン24時間レース|2014年]]では、予選で7号車の[[中嶋一貴]]が[[日本初の一覧|日本人初]]の[[ポールポジション]]を獲得、中嶋は本選途中リタイアだったがもう1台の8号車が決勝では3位に入賞した<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20140617-a144/ トヨタ、ル・マン24時間レース3位入賞も「結果は厳粛に受け止めなければ」]</ref><ref>[http://news.mynavi.jp/news/2014/06/14/207/ 【ル・マン24時間2014】中嶋一貴選手がル・マン初の日本人ポールポジションを獲得!]</ref>。[[2015年のル・マン24時間レース|2015年]]も参戦したもののライバルにスタートから終始圧倒され続けてしまい、完走したものの2台とも表彰台に昇ることはできなかった。[[2016年のル・マン24時間レース|2016年]]はマシンを[[トヨタ・TS050 HYBRID|TS050 HYBRID]]へ変更し、ポルシェと最後まで競り合い初の総合優勝がほぼ確実と思われた終盤残り3分、トップを走っていた5号車がマシントラブルによりストップしポルシェに逆転を許した<ref>[http://www.as-web.jp/sports-car/24429?cx_top=pickup トヨタ初勝利の夢、残り3分で破れる。ル・マン24時間はポルシェ2号車が大逆転勝利]</ref>。なお残った6号車が2位でチェッカーを受けている<ref>当の5号車はのちにチェッカーを受け、周回数では2位ではあるが最終周回にかかった時間が規定(首位でチェッカーフラッグを受けた車両より6分以内にチェッカーフラッグを受けた車両を完走扱いとするルールが存在する)を超えたため完走扱いになっておらず、失格またはリタイア扱いとなる。この時はリタイアの届出を行わなかったため規定違反で失格となった。</ref>。 |
:[[2012年のル・マン24時間レース|2012年]]には[[ハイブリッドカー]]の[[トヨタ・TS030 HYBRID|TS030 HYBRID]]で13年振りにル・マン復帰。2台で参戦し予選で3位になり、決勝でもトップ争いを繰り広げたものの、1台は周回遅れの車と絡んでクラッシュ、残る1台もトラブルでリタイアした。[[2013年のル・マン24時間レース|2013年]]には、決勝で2位に入賞。新モデルの[[トヨタ・TS040 HYBRID|TS040 HYBRID]]で臨んだ[[2014年のル・マン24時間レース|2014年]]では、予選で7号車の[[中嶋一貴]]が[[日本初の一覧|日本人初]]の[[ポールポジション]]を獲得、中嶋は本選途中リタイアだったがもう1台の8号車が決勝では3位に入賞した<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20140617-a144/ トヨタ、ル・マン24時間レース3位入賞も「結果は厳粛に受け止めなければ」]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150402182122/http://news.mynavi.jp/news/2014/06/14/207/ 【ル・マン24時間2014】中嶋一貴選手がル・マン初の日本人ポールポジションを獲得!]</ref>。[[2015年のル・マン24時間レース|2015年]]も参戦したもののライバルにスタートから終始圧倒され続けてしまい、完走したものの2台とも表彰台に昇ることはできなかった。[[2016年のル・マン24時間レース|2016年]]はマシンを[[トヨタ・TS050 HYBRID|TS050 HYBRID]]へ変更し、ポルシェと最後まで競り合い初の総合優勝がほぼ確実と思われた終盤残り3分、トップを走っていた5号車がマシントラブルによりストップしポルシェに逆転を許した<ref>[http://www.as-web.jp/sports-car/24429?cx_top=pickup トヨタ初勝利の夢、残り3分で破れる。ル・マン24時間はポルシェ2号車が大逆転勝利]</ref>。なお残った6号車が2位でチェッカーを受けている<ref>当の5号車はのちにチェッカーを受け、周回数では2位ではあるが最終周回にかかった時間が規定(首位でチェッカーフラッグを受けた車両より6分以内にチェッカーフラッグを受けた車両を完走扱いとするルールが存在する)を超えたため完走扱いになっておらず、失格またはリタイア扱いとなる。この時はリタイアの届出を行わなかったため規定違反で失格となった。</ref>。 |
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[[File:Tokyo Auto Salon 2019 (39804218063).jpg|thumb|230px|トヨタ・TS050 HYBRID 8号車<br/>([[東京オートサロン]]2019にて)]] |
[[File:Tokyo Auto Salon 2019 (39804218063).jpg|thumb|230px|トヨタ・TS050 HYBRID 8号車<br/>([[東京オートサロン]]2019にて)]] |
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:[[2018年]]はTS050 HYBRID 8号車の[[セバスチャン・ブエミ]]、中嶋一貴、[[フェルナンド・アロンソ]]組が悲願の初優勝を飾った。8号車はポールポジションからスタートを切り、[[ポールトゥーウィン]]の快挙を果たした。2位にもTS050 HYBRID 7号車の[[マイク・コンウェイ]]、小林可夢偉、[[ホセ・マリア・ロペス]]組が入った。途中7号車の小林がピットインのタイミングを忘れ一時燃料に懸念が生じセーフティモード走行で意図的にスローダウンせざるを得なかったなど人為的ミスはあったものの、8号車と7号車は最前列スタートから一度もトップ2を譲らないレース運びで、ル・マン24時間レース完全制覇を果たした。日本人が運転する日本車が優勝したのは史上初。 |
:[[2018年]]はTS050 HYBRID 8号車の[[セバスチャン・ブエミ]]、中嶋一貴、[[フェルナンド・アロンソ]]組が悲願の初優勝を飾った。8号車はポールポジションからスタートを切り、[[ポールトゥーウィン]]の快挙を果たした。2位にもTS050 HYBRID 7号車の[[マイク・コンウェイ]]、小林可夢偉、[[ホセ・マリア・ロペス]]組が入った。途中7号車の小林がピットインのタイミングを忘れ一時燃料に懸念が生じセーフティモード走行で意図的にスローダウンせざるを得なかったなど人為的ミスはあったものの、8号車と7号車は最前列スタートから一度もトップ2を譲らないレース運びで、ル・マン24時間レース完全制覇を果たした。日本人が運転する日本車が優勝したのは史上初。 |
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;[[本田技研工業|ホンダ]] |
;[[本田技研工業|ホンダ]] |
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:[[1994年のル・マン24時間レース|1994年]]から[[本田技研工業|ホンダ]]も[[ホンダ・NSX#レース活動|NSX GT]]により参戦を始めた。初年度はクレマーレーシングとのタイアップにより3台が参戦し、数多くのトラブルに見舞われ下位に沈むも、全車完走を果たした。 |
:[[1994年のル・マン24時間レース|1994年]]から[[本田技研工業|ホンダ]]も[[ホンダ・NSX#レース活動|NSX GT]]により参戦を始めた。初年度はクレマーレーシングとのタイアップにより3台が参戦し、数多くのトラブルに見舞われ下位に沈むも、全車完走を果たした。 |
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:2年目の[[1995年のル・マン24時間レース|1995年]]はTCPエンジニアリングが製作したGT1を3台(ターボ車両2台及びNA車両1台)、GT2を2台([[チーム国光]]及び[[中嶋企画]])エントリーさせたが、GT1ターボ車両と中嶋企画とがアクシデントにより予備予選を通過できなかった。ターボ車の一台に至っては、原因不明のトラブルでコースに出ることすらできずに予備予選落ちとなった。後に分解して調査した結果、カウルが電気系統のハーネスを挟み込んでいたために起きた断線が原因であることが判明している。中嶋企画はタイムアタックがうまく行かず好タイムを出せないでいたところに、ピットアウト時にオフィシャルが突然マシンの前に飛び出して撥ねてしまうというアクシデントに見舞われた。幸いオフィシャルは軽傷で済んだが、このためフロントウインドウを大破し、その補修に手間取るうちにタイムアタックの機会を失い、予備予選の時間が終了となってしまった。チーム側はこれを不服として嘆願書を提出して抗議したが、再度のタイムアタックは受理されず、結局決勝進出は果たせなかった(後の[[十勝24時間レース]]や[[鈴鹿1000km]]でもチーム国光とは全く明暗が分かれることとなる)。 |
:2年目の[[1995年のル・マン24時間レース|1995年]]はTCPエンジニアリングが製作したGT1を3台(ターボ車両2台及び[[自然吸気|NA]]車両1台)、GT2を2台([[チーム国光]]及び[[中嶋企画]])エントリーさせたが、GT1ターボ車両と中嶋企画とがアクシデントにより予備予選を通過できなかった。ターボ車の一台に至っては、原因不明のトラブルでコースに出ることすらできずに予備予選落ちとなった。後に分解して調査した結果、カウルが電気系統のハーネスを挟み込んでいたために起きた断線が原因であることが判明している。中嶋企画はタイムアタックがうまく行かず好タイムを出せないでいたところに、ピットアウト時にオフィシャルが突然マシンの前に飛び出して撥ねてしまうというアクシデントに見舞われた。幸いオフィシャルは軽傷で済んだが、このためフロントウインドウを大破し、その補修に手間取るうちにタイムアタックの機会を失い、予備予選の時間が終了となってしまった。チーム側はこれを不服として嘆願書を提出して抗議したが、再度のタイムアタックは受理されず、結局決勝進出は果たせなかった(後の[[十勝24時間レース]]や[[鈴鹿1000km]]でもチーム国光とは全く明暗が分かれることとなる)。 |
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:決勝レースでは、GT1クラスのターボ車が序盤にリタイア、NA車が深夜にクラッシュし、修復したものの義務周回数不足となり完走扱いとならなかったが、悪天候の中を果敢に攻めたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光([[高橋国光]]/[[土屋圭市]]/[[飯田章]]組)がGT2クラスでクラス優勝を果たした。GT1クラスのターボエンジン車はル・マンの後に鈴鹿サーキットでテストを行っているが、それ以降姿を消しており、ワークスチームであるGT1クラスの参戦はこの年限りで終了した。 |
:決勝レースでは、GT1クラスのターボ車が序盤にリタイア、NA車が深夜にクラッシュし、修復したものの義務周回数不足となり完走扱いとならなかったが、悪天候の中を果敢に攻めたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光([[高橋国光]]/[[土屋圭市]]/[[飯田章]]組)がGT2クラスでクラス優勝を果たした。GT1クラスのターボエンジン車はル・マンの後に鈴鹿サーキットでテストを行っているが、それ以降姿を消しており、ワークスチームであるGT1クラスの参戦はこの年限りで終了した。 |
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:[[1996年のル・マン24時間レース|1996年]]はGT2クラスにチーム国光1台のみが参戦したが、ライバルの進歩が上回りクラス3位に終わった。結局この年を最後に、ホンダのル・マン24時間レースへの参戦は幕を閉じている。
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:[[1996年のル・マン24時間レース|1996年]]はGT2クラスにチーム国光1台のみが参戦したが、ライバルの進歩が上回りクラス3位に終わった。結局この年を最後に、ホンダのル・マン24時間レースへの参戦は幕を閉じている。
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:2015年にはLMP2クラスにS103を投入し、ストラッカ童夢の42号車としてルマンを出走したが、ミッショントラブルによりリタイアした。 |
:2015年にはLMP2クラスにS103を投入し、ストラッカ童夢の42号車としてルマンを出走したが、ミッショントラブルによりリタイアした。 |
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;マツダオート東京(1979年、1981 - 1983年) |
;マツダオート東京(1979年、1981 - 1983年) |
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:[[1974年のル・マン24時間レース|1974年]]にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]に自らのチームで参戦を果たした。マシンは[[ |
:[[1974年のル・マン24時間レース|1974年]]にシグマ・オートモーティブとジョイントで参戦したマツダオート東京は、[[1979年のル・マン24時間レース|1979年]]に自らのチームで参戦を果たした。マシンは[[IMSA GT選手権|IMSA-GTO]]仕様の[[マツダ・RX-7|サバンナRX7・252i]]であった。しかしマツダ本社のサポートを得られず、マシンのテスト不足とチーム体制の不備により結果は予選落ちとなった。 |
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:翌[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]チーム体制構築のための参戦を見合せ、[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]に再挑戦をする。この際に[[トム・ウォーキンショー |
:翌[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]チーム体制構築のための参戦を見合せ、[[1981年のル・マン24時間レース|1981年]]に再挑戦をする。この際に[[トム・ウォーキンショー・レーシング]]︵TWR︶と提携した。また1979年に参戦した際、食事面の配慮を欠いたため食当たりでドライバーの体調不良を招いた反省から、フランスで修行中だった料理人の[[脇雅世]]をチームの料理長に迎えた。脇は[[1991年のル・マン24時間レース|1991年]]まで料理長を務めることとなった。この年はRX7・253を2台をエントリーし2台とも予選通過をしたものの決勝はリタイアとなった。[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]はRX7・254を2台エントリーし、1台はエンジントラブルでリタイア、もう一台の寺田陽次郎/[[従野孝司]]/アラン・モファット組はガス欠症状に悩まされながらも14位完走。
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:[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦し、マツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。その後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下の[[マツダスピード]]となり、以後の活動は[[ワークス・チーム]]によるものとなった。
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:[[1983年のル・マン24時間レース|1983年]]、前年に創設されたグループCのジュニアクラスに参戦し、マツダ・717を2台製作した。2台が完走を果たしグループCジュニアクラスの1位と2位となったが、もともとこのクラスの参戦が少なく評価はされていない。この年TWRの都合で提携を解消した。その後、マツダオート東京のモータースポーツ部門は独立してマツダ本社傘下の[[マツダスピード]]となり、以後の活動は[[ワークス・チーム]]によるものとなった。
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;[[トムス]](1980年、1985 - 1986年) |
;[[トムス]](1980年、1985 - 1986年) |
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:[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]、[[トヨタ・セリカ]]RA40系ベースの[[ |
:[[1980年のル・マン24時間レース|1980年]]、[[トヨタ・セリカ]]RA40系ベースの[[IMSA GT選手権|IMSA-GTXマシン]]で初参戦し予選落ち。 |
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:[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]、童夢と共同で日本で初めて[[グループC]]カーを開発し[[WEC-JAPAN]]に参戦。[[1983年]]以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の[[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権]])にフル参戦するようになった。 |
:[[1982年のル・マン24時間レース|1982年]]、童夢と共同で日本で初めて[[グループC]]カーを開発し[[WEC-JAPAN]]に参戦。[[1983年]]以降WEC-JAPANおよび全日本耐久選手権(後の[[全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権]])にフル参戦するようになった。 |
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:[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]、童夢とともにトヨタエンジンを搭載した[[童夢・84C|85C-L]]で5年ぶりにル・マンに参戦し12位完走。これが事実上トヨタのル・マン初参戦である。翌[[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]、[[トムス・86C|86C-L]]で参戦するが完走できなかった。[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]以降はトヨタ・チーム・トムス(TTT)として、トヨタワークスとしての活動になった。 |
:[[1985年のル・マン24時間レース|1985年]]、童夢とともにトヨタエンジンを搭載した[[童夢・84C|85C-L]]で5年ぶりにル・マンに参戦し12位完走。これが事実上トヨタのル・マン初参戦である。翌[[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]、[[トムス・86C|86C-L]]で参戦するが完走できなかった。[[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]以降はトヨタ・チーム・トムス(TTT)として、トヨタワークスとしての活動になった。 |
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=== その他の日本のチーム、ドライバー === |
=== その他の日本のチーム、ドライバー === |
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[[File:Hall of fame Le Mans-winners 1995.JPG|thumb| |
[[File:Hall of fame Le Mans-winners 1995.JPG|thumb|220 px|right|関谷の手形が納められた優勝記念プレート]] |
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[[File:Seiji Ara 2010 Motorsport Japan.jpg|thumb| |
[[File:Seiji Ara 2010 Motorsport Japan.jpg|thumb|150 px|right|荒聖治(2010年)]] |
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* [[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]から1990年まで[[高橋国光]]がドイツ・クレマーレーシングの[[ポルシェ・962C]]で参戦。最高位は1988年の9位。当時の日本人最高位記録。 |
* [[1986年のル・マン24時間レース|1986年]]から1990年まで[[高橋国光]]がドイツ・クレマーレーシングの[[ポルシェ・962C]]で参戦。最高位は1988年の9位。当時の日本人最高位記録。 |
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* [[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]には[[岡田秀樹]]が[[ザウバー]]から参戦。リタイア。岡田は88年から90年までクレマーレーシングのポルシェで参戦、最高位は高橋国光と組んだ88年で9位。 |
* [[1987年のル・マン24時間レース|1987年]]には[[岡田秀樹 (モータースポーツ)|岡田秀樹]]が[[ザウバー]]から参戦。リタイア。岡田は88年から90年までクレマーレーシングのポルシェで参戦、最高位は高橋国光と組んだ88年で9位。
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*[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]、[[米山二郎]]と[[福山英朗]]がADAエンジニアリング︵ADA・03︶から参戦し、総合18位でC2クラス2位に入賞している。[[片山右京]]も[[クラージュ・コンペティション]]︵クーガー・C22︶で、初参戦リタイア。
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*[[1988年のル・マン24時間レース|1988年]]、[[米山二郎]]と[[福山英朗]]がADAエンジニアリング︵ADA・03︶から参戦し、総合18位でC2クラス2位に入賞している。[[片山右京]]も[[クラージュ・コンペティション]]︵クーガー・C22︶で、初参戦リタイア。
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*[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]では、[[粕谷俊二]]が[[クラージュ・コンペティション]]︵クーガー・C20B︶から参戦し、総合14位でC2クラス優勝を果たしている。また[[FromA|FromAレーシング]]がブルンとジョイントで参戦。レギュラードライバーの[[中谷明彦]]が初出場。この他、池谷勝則がチーム・デイビーのポルシェで参戦、15位完走。米山二郎がクラージュのクーガーC22で参戦、リタイア。
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*[[1989年のル・マン24時間レース|1989年]]では、[[粕谷俊二]]が[[クラージュ・コンペティション]]︵クーガー・C20B︶から参戦し、総合14位でC2クラス優勝を果たしている。また[[FromA|FromAレーシング]]がブルンとジョイントで参戦。レギュラードライバーの[[中谷明彦]]が初出場。この他、池谷勝則がチーム・デイビーのポルシェで参戦、15位完走。米山二郎がクラージュのクーガーC22で参戦、リタイア。
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*2021年には[[青木拓磨]]がフランスのSRT41チームより特別枠で出場(マシンはオレカ07・ギブソン、ドライバーは青木拓磨、スヌーシー・ベン・マッサ、ナイジェル・バリー)<ref>[https://www.as-web.jp/sports-car/418468?all 元WGPライダーの青木拓磨が2020年のWECル・マン24時間レースに出場],autosport web,2018年10月10日</ref><ref> |
*2021年には[[青木拓磨]]がフランスのSRT41チームより特別枠で出場(マシンはオレカ07・ギブソン、ドライバーは青木拓磨、スヌーシー・ベン・マッサ、ナイジェル・バリー)<ref>[https://www.as-web.jp/sports-car/418468?all 元WGPライダーの青木拓磨が2020年のWECル・マン24時間レースに出場],autosport web,2018年10月10日</ref><ref> |
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[https://www.jomo-news.co.jp/sports/gunma/319464 「障害あっても夢はかなう」 車いすレーサーの青木拓磨がルマン24時間に初参戦 青木3兄弟の次男],上毛新聞,2021年8月21日</ref>。334周、総合32位で完走している。 |
[https://www.jomo-news.co.jp/sports/gunma/319464 「障害あっても夢はかなう」 車いすレーサーの青木拓磨がルマン24時間に初参戦 青木3兄弟の次男],上毛新聞,2021年8月21日</ref>。334周、総合32位で完走している。 |
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*2021年に星野敏率いるD’station racingがLMGTE Amクラスに藤井誠暢が操る[[アストンマーティン・ヴァンテージ]]で参戦し、クラス6位・総合33位で完走する |
*2021年に[[星野敏]]率いるD’station racingがLMGTE Amクラスに[[藤井誠暢]]が操る[[アストンマーティン・ヴァンテージ]]で参戦し、クラス6位・総合33位で完走する<ref>{{Cite web|和書|title=︻決勝結果︼2021年WEC第4戦・第89回ル・マン24時間レース/7号車トヨタが総合優勝 {{!}} ル・マン/WEC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/sports-car/730756 |website=AUTO SPORT web |date=2021-08-22 |access-date=2022-05-22 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=D’station Racing、ル・マン24時間は目標の完走果たしクラス6位﹁本当に素晴らしい結果﹂と藤井誠暢 |url=https://jp.motorsport.com/lemans/news/lemans24-2021-Dstation-fujii/6653463/ |website=jp.motorsport.com |access-date=2022-05-22 |language=ja}}</ref>。2022年のFIA世界耐久選手権にも参戦中<ref>{{Cite web|和書|title=D'station Racing、2022年のWEC/アジアン・ル・マン参戦体制を発表。初年度以上の結果目指す {{!}} ル・マン/WEC {{!}} autosport web |url=https://www.as-web.jp/sports-car/775514 |website=AUTO SPORT web |date=2022-01-12 |access-date=2022-05-22 |language=ja}}</ref>。
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== 日本での中継 == |
== 日本での中継 == |
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{{出典の明記|date=2023年9月}} |
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日本では、株式会社[[マクランサ]]代表の[[林正史]](株式会社童夢代表の[[林みのる]]の実弟)の企画により、[[1979年]]に[[TBSテレビ|TBS]]による2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより[[1982年]]から[[1986年]]まで[[テレビ朝日]]がダイジェスト版を放送し、 [[1987年]]から[[2003年]]まで中継を行っていた。2004年と2005年は、[[衛星放送|CS放送]]の[[スカパー!プレミアムサービス|スカイパーフェクTV!]]でレース前後を含めた25時間完全生中継、[[スポーツ・アイ ESPN]](後の[[J SPORTS|J sports ESPN]])でも部分的に中継を行っていた。 |
日本では、株式会社[[マクランサ]]代表の[[林正史]](株式会社童夢代表の[[林みのる]]の実弟)の企画により、[[1979年]]に[[TBSテレビ|TBS]]による2時間番組「ルマン栄光への24時間」が全国放送された。同じく、林正史の企画・プロデュースにより[[1982年]]から[[1986年]]まで[[テレビ朝日]]がダイジェスト版を放送し、 [[1987年]]から[[2003年]]まで中継を行っていた。2004年と2005年は、[[衛星放送|CS放送]]の[[スカパー!プレミアムサービス|スカイパーフェクTV!]]でレース前後を含めた25時間完全生中継、[[スポーツ・アイ ESPN]](後の[[J SPORTS|J sports ESPN]])でも部分的に中継を行っていた。 |
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2006年から2008年までは、CS放送の[[日テレジータス|G+]]でダイジェスト版が放送された。2012年以降はBSスポーツ専門チャンネルの[[J SPORTS]]がスタートから8時間とゴールまでの6時間の計14時間<ref group="注釈">2013年以降。J SPORTSが放送開始した2012年はゴールまでの4時間だったため合計12時間、また2015年は直前に[[J SPORTS STADIUM|野球中継]]﹁[[オリックス・バファローズ|オリックス]]対[[阪神タイガース|阪神]]﹂戦が放送された関係でゴールは5時間だった。</ref> の生中継を実施。さらに2017年には念願だった完全生中継を25時間30分に渡って実施されることになった<ref>{{Cite web |
2006年から2008年までは、CS放送の[[日テレジータス|G+]]でダイジェスト版が放送された。2012年以降はBSスポーツ専門チャンネルの[[J SPORTS]]がスタートから8時間とゴールまでの6時間の計14時間<ref group="注釈">2013年以降。J SPORTSが放送開始した2012年はゴールまでの4時間だったため合計12時間、また2015年は直前に[[J SPORTS STADIUM|野球中継]]﹁[[オリックス・バファローズ|オリックス]]対[[阪神タイガース|阪神]]﹂戦が放送された関係でゴールは5時間だった。</ref> の生中継を実施。さらに2017年には念願だった完全生中継を25時間30分に渡って実施されることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20170606110607/https://www.jsports.co.jp/press_release/20170602.html |date=2017-06-02 |title=最後の最後まで何が起こるのか分からない…24時間筋書きのないドラマ﹁ル・マン24時間レース﹂J SPORTSで初の完全中継が決定! |publisher=J SPORTS |accessdate=2017-06-13}}</ref>。また、J SPORTSの契約者向けに[[スカパー!オンデマンド]]での24時間ライブ配信を実施。2012年からは、[[日経CNBC]]が現地取材もとにした特別番組を放送。現地取材へは、[[谷中麻里衣]]が出向いている。
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=== テレビ朝日のテレビ中継 === |
=== テレビ朝日のテレビ中継 === |
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毎年原則として、スタート直前の日本時間土曜22時59分(現地時間15時59分)[[フォーメーションラップ]]がメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始直後に出場する全マシンの[[グリッド (モータースポーツ)#種類|スターティンググリッド]]がテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、そこから1時間程中継し(ここまでがパート1とされた)日曜午前0時過ぎ頃にニュース等による中断を挟み、その後午前2時過ぎまでパート2を中継し、ニュース等での中断を挟んでパート3を午前5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。その後日曜午後にパート4を1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールとなるパート5は |
毎年原則として、スタート直前の日本時間土曜22時59分(現地時間15時59分)[[フォーメーションラップ]]がメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始直後に出場する全マシンの[[グリッド (モータースポーツ)#種類|スターティンググリッド]]がテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、そこから1時間程中継し(ここまでがパート1とされた)日曜午前0時過ぎ頃にニュース等による中断を挟み、その後午前2時過ぎまでパート2を中継し、ニュース等での中断を挟んでパート3を午前5時まで(年によっては4時までの場合もあった)放送。その後日曜午後にパート4を1時間半程放送(2003年は放送されず)。ここまでが生中継。ゴールとなるパート5は遅延録画で日本時間日曜23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。 |
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なお[[UEFA欧州選手権|サッカー欧州選手権]]開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間土曜23時 |
なお[[UEFA欧州選手権|サッカー欧州選手権]]開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間土曜23時に放送が開始された。 |
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それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた<ref group="注釈">主にスタートを担当したアナウンサーは日曜午後の放送とゴールの放送を担当し、中断から朝4 - 5時までのパート2 - 3は別のアナウンサーが担当する傾向にあった。</ref>。 |
それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた<ref group="注釈">主にスタートを担当したアナウンサーは日曜午後の放送とゴールの放送を担当し、中断から朝4 - 5時までのパート2 - 3は別のアナウンサーが担当する傾向にあった。</ref>。 |
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競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界では |
競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界では禁忌とされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。 |
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;実況 |
;実況 |
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* [[東出甫]](1987年) |
* [[東出甫]](1987年) |
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* [[ミシェル・ヴァイヨン]](2003年、フランス) |
* [[ミシェル・ヴァイヨン]](2003年、フランス) |
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*[[フォードvsフェラーリ]] (2019年、アメリカ) |
*[[フォードvsフェラーリ]] (2019年、アメリカ) |
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*[[グランツーリスモ (映画)]] (2023年、アメリカ) |
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'''ドラマ''' |
'''ドラマ''' |
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* Le MANS 83(1983年、[[東映ビデオ]]、プロデュース DUKE marketing ltd) |
* Le MANS 83(1983年、[[東映ビデオ]]、プロデュース DUKE marketing ltd) |
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* ル・マン カタログ'85(1985年、[[クリエイティヴ・コア|TDKコア]]) |
* ル・マン カタログ'85(1985年、[[クリエイティヴ・コア|TDKコア]]) |
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*[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]ロータリー 47士の闘い ~夢のエンジン 廃墟からの誕生~(2000年放送、DVD [[NHKエンタープライズ]]) |
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'''LP''' |
'''LP''' |
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== 格言 == |
== 格言 == |
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昼夜を通して24時間走り続ける過酷なレース現場では予期せぬトラブルが発生することから、日本では「'''ル・マンには魔物が棲んでいる'''<ref>{{Cite web |
昼夜を通して24時間走り続ける過酷なレース現場では予期せぬトラブルが発生することから、日本では「'''ル・マンには魔物が棲んでいる'''<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-20 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2016/06/20/24_1/ |title=トヨタの悲願達成ならず。中嶋一貴が語ったル・マン24時間のラスト3分 |author=川喜田研 |publisher=web Sportiva |accessdate=2017-04-15}}</ref>」との格言が生まれた。[[2016年]]には、初優勝を目指してトップを快走していた[[トヨタ自動車|トヨタ]]のマシンが車両故障のため、'''残り3分'''で[[ポルシェ]]に逆転された。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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* [[アメリカン・ル・マン・シリーズ]] |
* [[アメリカン・ル・マン・シリーズ]] |
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* [[アジアン・ル・マン・シリーズ]] |
* [[アジアン・ル・マン・シリーズ]] |
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* [[録画チャンネル4.5]] - 本番組と同じく同業他社が同一番組スポンサーとなった番組。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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[[Category:耐久レース]] |
[[Category:耐久レース]] |
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[[Category:テレビ朝日のスポーツ番組]] |
[[Category:テレビ朝日のスポーツ番組]] |
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[[Category:テレビ朝日の深夜番組の歴史]] |
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[[Category:近藤真彦]] |
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[[Category:フランスのモータースポーツ大会]] |
[[Category:フランスのモータースポーツ大会]] |
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[[Category:ル・マンのスポーツ]] |
[[Category:ル・マンのスポーツ]] |
2024年6月16日 (日) 14:19時点における最新版
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FIA 世界耐久選手権 | |
---|---|
開催地 | サルト・サーキット |
初開催 | 1923 |
耐久時間 | 24時間 |
最多勝利 (ドライバー) | トム・クリステンセン (9) |
最多勝利 (チーム) | ヨースト・レーシング (13) |
最多勝利 (マニファクチャー) | ポルシェ (19) |
概要[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/99/United-Autosports-Le-Mans-2017-82_%2835340856665%29_%282%29.jpg/220px-United-Autosports-Le-Mans-2017-82_%2835340856665%29_%282%29.jpg)
開催方式[編集]
サーキット[編集]
出場資格[編集]
参加するだけでも名誉なことであり世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからのエントリーが殺到することから、FIA 世界耐久選手権 (WEC) の1戦に加えられている現在は、主催者であるフランス西部自動車クラブ︵ACO︶がWECのシーズンエントリーをベースに追加のエントリーを選考し、招待状を送付する。 審査は前年大会の優勝者、FIA 世界耐久選手権︵WEC︶への参戦履歴、ACOの車両規定を採用するスポーツカー選手権︵ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、アジアン・ル・マン・シリーズ、ウェザーテック・スポーツカー選手権︶における成績などから判断する。自動招待制度もあり、前述の各種スポーツカー選手権の成績上位チームやドライバーは自動的にエントリー権を得る事が可能[1][2]。 また、最大参加台数の55台[注釈 2]に加えて、2012年より近未来の自動車技術に挑戦する車両に対してガレージ56という賞典外の特別枠が用意されている。2016年は病で四肢を失ったドライバーが選ばれた[3]。 かつては多すぎるエントリー希望者を振るい落とすため、テストデーで予備予選が行われた時期もある。また、ル・マンに的を絞って特別に開発したマシンで、ルマンに合わせエントリーしようとするマニュファクチャラーがいたため、国際自動車連盟︵FIA︶がル・マンを含めた世界スポーツプロトタイプカー選手権︵WSPC︶全戦への参加を義務付けたこともある。スケジュール[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1c/United-autosports-le-mans-2018-170_%2841048825320%29.jpg/220px-United-autosports-le-mans-2018-170_%2841048825320%29.jpg)
ル・マン式スタート[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/1965-05-23_Le-Mans-Start_3.jpg/220px-1965-05-23_Le-Mans-Start_3.jpg)
オフィシャルカー[編集]
ペースカーはその年度にEU圏内で新発売された車輌が採用される。第1回レースが開催されてから65年目となる1999年には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりのベントレー・アルナージが起用された。1923年、第1回目のレースが国際レース化を謳いながら殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした2台のベントレーとベルギーの"エクセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できたことに対する感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。 日本車では、日産がエントリーしていた1990年に日産・フェアレディZ 300ZX、同じく日産がエントリーしていた1997年に日産・スカイラインGT-R︵BCNR33︶が採用された。コース全長の変遷[編集]
●A︵1923年 - ︶17.262 km - 現テルトルルージュ付近に向かわず、ル・マン市内中心部まで行き引き返すコースだった。 ●B︵1929年 - ︶16.340 km ●C︵1932年 - ︶13.492 km - テルトルルージュ→ユノディエールへと続く現コースの原型になった。 ●D︵1956年 - ︶13.461 km - 1955年の大事故を受けピット前ストレートのスタンドを後退させた。 ●E︵1968年 - ︶13.469 km ●F︵1972年 - ︶13.640 km ●G︵1979年 - ︶13.626 km ●H︵1986年︶13.528 km - ミュルサンヌコーナーの交差点が十字からロータリーに変更されたため、ロータリーを避ける専用コースでショートカットしている。 ●I︵1987年 - ︶13.535 km - ダンロップコーナー前にシケインが設置された。 ●J︵1990年 - ︶13.600 km - ユノディエールに2か所のシケインが設置された。 ●K︵1997年 - ︶13.605 km - ダンロップシケインのレイアウトを変更した。 ●L︵2002年 - ︶13.650 km - ダンロップブリッジ下からS字までレイアウトを変更した。 ●M︵2006年︶13.650 km - ダンロップシケイン付近を改修した。 ●N︵2007年 - ︶13.629 km - テルトルルージュ付近を改修した。 ●O︵2018年 - ︶13.626 km - ポルシェカーブ付近を改修した。優勝車/優勝者[編集]
メーカー別勝利数[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/54/Porsche_956_-_Flickr_-_andrewbasterfield_%281%29.jpg/220px-Porsche_956_-_Flickr_-_andrewbasterfield_%281%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/Bentley_4_of_Barnato_and_Rubin_at_the_1928_24_Hours_of_Le_Mans_%282%29.jpg/220px-Bentley_4_of_Barnato_and_Rubin_at_the_1928_24_Hours_of_Le_Mans_%282%29.jpg)
- 1位. 19回 - ポルシェ
- 2位. 13回 - アウディ
- 3位. 11回 - フェラーリ
- 4位. 7回 - ジャガー
- 5位. 6回 - ベントレー
- 6位. 5回 - トヨタ
- 7位. 4回 - アルファロメオ
- 7位. 4回 - フォード
- 9位. 3回 - マトラ
- 9位. 3回 - プジョー
- 11位.2回 - ブガッティ
- 11位.2回 - ロレーヌ・ディートリッシュ
- 11位.2回 - メルセデス・ベンツ
- 14位.1回 - シュナール・エ・ワルケル
- 14位.1回 - ラゴンダ
- 14位.1回 - ドライエ
- 14位.1回 - タルボ
- 14位.1回 - アストンマーティン
- 14位.1回 - ミラージュ
- 14位.1回 - ルノー
- 14位.1回 - ロンドー
- 14位.1回 - マツダ
- 14位.1回 - マクラーレン
- 14位.1回 - BMW
特筆的な出来事[編集]
ドライバー交代なしで24時間に挑戦[編集]
1955年の事故[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Mercedes-Benz_300_SLR_1986-08-16.jpg/220px-Mercedes-Benz_300_SLR_1986-08-16.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Jaguar_D-Type_1954.jpg/220px-Jaguar_D-Type_1954.jpg)
フェラーリとフォード[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b6/1965_Ferrari_250_LM.jpg/220px-1965_Ferrari_250_LM.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d7/Shelby_GT40.jpg/220px-Shelby_GT40.jpg)
映画俳優の参戦[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d7/Patrick_Dempsey_Le_Mans_2009.jpg/220px-Patrick_Dempsey_Le_Mans_2009.jpg)
ユノディエールとその分割[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/16/Mulsanne_Le_Mans.jpg/220px-Mulsanne_Le_Mans.jpg)
各国自動車メーカーの活動[編集]
フランス[編集]
地元でもあり第一回の1923年にシェナール&ウォルカーが総合優勝したのを含め初期には有力であった。 ロレーヌ・ディートリッシュ 1925年、1926年と連覇している。 ブガッティ 1937年、1939年と総合優勝している。 ドライエ 1938年総合優勝している。 DB/ボネ/マートラ DBは戦後最初に開催された1949年から1961年までの長年休みなしで参戦し、性能指数賞を1954年、1956年、1959年、1960年、1961年と獲得している。オトモビル・ルネ・ボネ体制になってからも1963年まで継続して参戦した。この頃は総合優勝を狙える力はなかったが、さらにその後はマトラ体制になり1966年から参戦、1972年には総合優勝、その後1973年、1974年と三連覇した[7]。 タルボ 1950年総合優勝している。なお下記のプジョーで1992年から1993年にかけて優勝したレースチーム名は、プジョー・タルボ・スポールである。 アルピーヌ・ルノー 1978年総合優勝している。 ロンドー 地元に育ったジャン・ロンドーは、自分の名前を冠したマシンでルマンに優勝するという夢を1980年に果たした。 プジョー 1992年、1993年、2009年に総合優勝した。イギリス[編集]
ベントレー 当初より参戦し、1924年第2回大会でフランス以外の外国車として初優勝。富裕層出身のドライバーたちは﹁ベントレー・ボーイズ﹂と呼ばれた。1927年から1930年まで4連勝し、黎明期に非常に大きな足跡を残した。2001年にはアウディグループ傘下でル・マンへ復帰し、2003年にスピード8が73年ぶりの総合優勝を果たした。 ジャガー 先駆的なメカニズムを持つCタイプで1951年、1953年に勝利しDタイプで1955年から1957年まで3連勝。またトム・ウォーキンショーと組んで1988年、1990年に総合優勝している。 ロータス 1954年、創始者コーリン・チャップマン自らマーク9で参戦し、失格となったもののその速さは国際的にロータスの名が知られるきっかけとなった[8]。参戦2回目の1956年にはイレブンで1,100ccクラス優勝、総合7位入賞を果たした。1962年にロータス・23を3台持ち込んだが、フロントとリアのホイールボルト数が違うことから車検不通過となり、手直しして再車検に臨むがその改造が危険であると指摘されて決勝に出場できず、これをきっかけにワークスは出場を取りやめた。1997年にエリーゼGT1で参戦。2013年にはLMP2クラスにT128︵開発はコデワ︶を投入した。 その他 ●アストンマーティンが1959年に、ガルフ・ミラージュが1975年に、総合優勝している。 ●マクラーレン・カーズ︵現マクラーレン・オートモーティブ︶が開発し、当時行われていたGT選手権で出走していたマクラーレン・F1 GTRが1995年のル・マン24時間レースに同レース初出走し、そのまま総合優勝している。 ●ウィリアムズF1はドイツのBMWと共同開発したBMW・V12 LMRで1999年に総合優勝を果たしている。イタリア[編集]
アルファロメオ 8Cで1931年から1934年まで4連覇した。 フェラーリ 創業間もない1949年に初優勝。その後、1954年、1958年で勝利。1960年から1965年まで6連覇とル・マンの盟主に君臨していたが、1966年フォードの物量作戦に敗れた。1973年に撤退した。1994年からプロトタイプクラスに333SPを、GT1クラスにF40を投入したが過去の様なワークスとしての参加ではなかった。2023年には50年ぶりにル・マン24時間レースのトップカテゴリー(LMH)に復帰し、ワークスマシンとなる﹁499P﹂を投入。ここまでル・マンを5連覇していたトヨタをLMHクラス参戦初年度にもかかわらず打ち破り、ル・マン100周年の節目かつ復帰初年度で総合優勝を飾った。 ランチア 1982年にグループ6のLC1で参戦したが、ポルシェ・956の前に惨敗に終わった。1983年からグループCのLC2にて参戦し、特にポルシェワークスが欠場した1984年は注目を集めたが、この時もヨースト・レーシングに惨敗した。ドイツ[編集]
ポルシェ ●1951年、いまだフランスでドイツに対する風当たりが強い中、競技長であるシャルル・ファルーの招聘によりポルシェ・356で参加し、これがドイツ車の戦後初の国際レースへの参加となった。長らく908、910等中排気量車によるクラス優勝を続けた後、ポルシェ・917を開発して1970年に初の総合優勝を果たした。その後は1971年、1976年、1977年、1979年、1981年から1987年まで7年連続総合優勝し、耐久王の名を馳せた。 ●1994年はダウアー・ポルシェ、1996年と1997年は1984年と1985年にも組んだヨースト・レーシング、1998年はTWRポルシェと連名で優勝した。ワークスチームとしての参加は1998年の優勝以降はしばらく遠のく。 ●2014年よりLMP1マシンでル・マンへ復帰。翌2015年のレースで17年ぶり17度目の優勝、2016年はトヨタとトップ争いを繰り広げたが、最後の最後でトヨタを逆転して18度目の優勝を飾った。2017年はLMP1の全車がトラブルに見舞われた影響で、終盤の時点でもLMP2の車両が総合首位につけていたが、一度は優勝争いから脱落した2号車︵ティモ・ベルンハルト/アール・バンバー/ブレンドン・ハートレイ組︶が残り1時間で逆転し19度目の優勝を飾った。その1か月後、ポルシェはFIA 世界耐久選手権から2017年シーズン限りで撤退することを発表した。 メルセデス・ベンツ 1952年に総合優勝するなど強豪であったが、1955年の大事故で撤退し、その後長らくモータースポーツ自体に参加しない時期が続いた。1985年からザウバーがメルセデス・ベンツのエンジンを使用し、1988年からワークス参戦となり、1989年には総合優勝を果たしている。 1955年は大惨事、1988年はタイヤバースト、1999年はCLRが3度宙を舞うアクシデントによって、3度もレース撤退の決断を強いられ、﹁西暦下2桁ぞろ目のジンクス﹂が囁かれた。 BMW ●1995年に優勝したマクラーレン・F1-GTRには、BMWモータースポーツ︵BMW M︶GmbH製でBMW・8シリーズ#M8のS70/2型というコードがつけられたエンジンが搭載されていた。6.1LV型12気筒DOHC48バルブで、ミッドシップにマウントされている。 ●1999年にはル・マン24時間レース参戦用にBMWとウィリアムズがプロトタイプレーシングカーBMW・V12 LMRを共同開発。このマシンで同年、BMWとしては初のル・マン総合優勝を飾った。同年に開発していたフライホイール式KERSはその後、ポルシェ・911 GT3 Rハイブリッドや、2012年に総合優勝したアウディが投入したR18 e-tron クワトロにも提供していた。 アウディ ●1999年に初出場で3位入賞。その後、21世紀に入ると圧倒的なペースで優勝を重ねる一方で、参戦初年度からの様々な記録を更新し続けていることから﹁ル・マンの鉄人メーカー﹂の異名が付いている。 ●R8を開発し2000年から2002年、荒聖治に日本人2人目のル・マン優勝をもたらした2004年、そして2005年に総合優勝を達成。 ●翌2006年に投入したアウディ・R10 TDIは、ル・マン史上初のディーゼルエンジン搭載車による総合優勝に加え、2007年、2008年と2度目の3連覇、合わせて2004年から2008年まで5連覇を達成した。 ●2010年には総走行距離の最長記録を更新して総合優勝し、2011年に10勝目を挙げた。2012年にはアウディ・R18 e-tron クアトロが初のハイブリッドシステム搭載車として総合優勝を達成した。 ●2016年限りでル・マンを含むWEC及びプロトタイプレース活動からの撤退を表明。同時に達成した参戦初年度から撤退までの18年間全てに及ぶル・マンの連続表彰台入賞記録は史上初かつ前人未到の最長記録となった。アメリカ[編集]
カニンガム カルフォルニアの大富豪ブリッグス・カニンガムが自分の財産をつぎ込んでキャデラックのレーシングバージョンを製作し、1950年代に参戦していた。 シャパラル テキサスの石油王ジム・ホールが個人の資産で作った自動車研究所で空力特性の良い車両を独自の方針に従って開発し、ゼネラルモーターズからエンジンやトランスミッションの支援を受けて参戦した。 フォード 1963年にシェルビー・アメリカンがACカーズとエド・ヒューガスからコブラで参戦し、スターリング・モスがマネージャーを務めるACカーズが総合7位に入賞し、これをフォードが評価してGTプロジェクトに繋がった。フォードはフェラーリ買収に失敗し、フォード・GTを投入した1965年のル・マンでも惨敗、最終的にシェルビー・アメリカンの協力を得て大量にエントリーし1966年に勝利、これがアメリカ車初の勝利となった。フォードは1969年まで4連覇し撤退した。 パノス シボレースイス[編集]
●ザウバー・モータースポーツ・AGが上記の通り1989年にザウバー・メルセデスとしてザウバー・C9で総合優勝した。日本[編集]
ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの先進国の主要自動車生産国としては最も遅い1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。 1970年代は、排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、シグマオートモーティブや童夢などのプライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。 1980年代以降はマツダや日産自動車、トヨタ自動車、本田技研工業などがワークス・準ワークスチームで参戦し、1991年にマツダが初の総合優勝を果たした。しかしマツダは1992年に撤退した。 2012年よりトヨタが再挑戦。2018年には、ついにトヨタ・ガズー・レーシングの中嶋一貴が日本チーム、日本車というオールジャパンチームで総合優勝を飾った。2019年にもトヨタが2連勝し、2020年にはLMP1規定最後となる年で3連覇を果たした。2021年にはLMH規定初年度となる年でトヨタは4連覇を果たすと共に、小林可夢偉が悲願の初優勝を飾った。2022年には平川亮が初優勝を飾っている。なお︵海外メーカー車を使用する︶日本チームや日本人ドライバーも優勝している。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c1/Mazda_757_2.jpg/220px-Mazda_757_2.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Le_Mans-120121-0073FP.jpg/220px-Le_Mans-120121-0073FP.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/1999_Toyota_TS020_01.jpg/220px-1999_Toyota_TS020_01.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/Tokyo_Auto_Salon_2019_%2839804218063%29.jpg/230px-Tokyo_Auto_Salon_2019_%2839804218063%29.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Kremer_Racing_-_Honda_NSX_-_1994_24_Hours_of_Le_Mans.jpg/220px-Kremer_Racing_-_Honda_NSX_-_1994_24_Hours_of_Le_Mans.jpg)
日本のプライベートチームの参戦[編集]
シグマオートモーティブ ル・マンに初めて日本のチームとマシンとドライバーが登場したのは1973年のシグマ・オートモーティブである。当初はトヨタ製エンジンを搭載する予定だったが、トヨタからエンジンの供給を受けられず、やむなくマツダ製の12Aロータリーエンジンを購入して搭載した。このため、ル・マンに出場したMC73はリアウイングに﹁TOYOTA﹂のスポンサーが描かれていながら、マツダのエンジンを搭載した異色のマシンであった。シグマMC73は元々富士グランチャンピオンレース用のマシンで耐久性に問題があり、クラッチトラブルにより79周目にリタイアした。 1974年はマツダオート東京と正式にジョイントし、24時間を走り切ったが、周回数不足で完走と認められなかった。マツダオート東京はエンジンのチューニングとメンテナンスを担当し、この時のル・マンへの思いがのちのマツダのル・マン挑戦のきっかけとなったと言われている。なおこのときのドライバーの一人が、長年参戦を続けたことから後に﹁ミスター・ル・マン﹂の異名を取ることになる寺田陽次郎である。 1975年はトヨタからのエンジン供給が実現し、2T-Gターボエンジンを搭載したシグマ・MC75でエントリーしたが、結果はエンジントラブルでリタイアとなった。 これを最後にル・マン挑戦をやめたが、シグマ・オートモーティブを母体に設立されたサードがその後を引き継ぎ、1990年にトヨタのワークスチームとしてル・マン再出場を果たした。1994年には旧グループCカーを貸与され出場、エディ・アーバイン/マウロ・マルティニ/ジェフ・クロスノフ組が2位表彰台を獲得している。1995年、1996年には独自開発のGTマシン・サード・MC8RとスープラLM-GTで参戦した。 童夢︵1979 - 1986年︶ 1978年のジュネーブモーターショーで、スーパーカー﹁童夢-零﹂を発表し、その玩具ライセンス収入をきっかけに1979年のル・マン24時間レースに初挑戦した。零RLはF1用に販売されていたフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載したが、1台がエンジントラブルで、もう1台もガス欠でリタイアした。 1980年、零RLをクローズドボディ化したRL80を1台エントリーし、最下位の25位で完走した。1981年は、前年と同じRL80で出場したが、エンジントラブルでリタイアした。 1982年、イギリスのマーチとジョイントして、フォード・コスワース・DFLエンジンを搭載した童夢RC82を製作したが、サスペンショントラブルでリタイアした。1983年、マーチとの提携は1年で解消され、前年のマシンを改良したRC82改で出場したが、マシントラブルでリタイアした。1984年、RC-83で出場するものの、予選でコースアウトしてマシンを大破し、決勝出場を辞退した。現地チームに貸与したRC82は予選を通過するも決勝はリタイヤ。 1985年、童夢・トヨタ・トムスによる提携が実現し、童夢製の車体に当時市販されていたグループB車両のトヨタ・セリカGT-TSの2,090ccエンジンをレース用に修正した4T-GT改を搭載する85C-Lで出場。決勝はトランスミッショントラブルでリタイアした。トムスがエントリーしたマシンはトムス・85C-Lと呼ばれるがほぼ同一のマシンである。1986年、前年と同様の体制で86C-Lで出場したが、冷却系統のトラブルでリタイアした。この年限りで童夢の第1期ル・マン参戦は終わった。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/43/Dome_S101.jpg/200px-Dome_S101.jpg)
その他の日本のチーム、ドライバー[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Seiji_Ara_2010_Motorsport_Japan.jpg/150px-Seiji_Ara_2010_Motorsport_Japan.jpg)
日本での中継[編集]
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テレビ朝日のテレビ中継[編集]
毎年原則として、スタート直前の日本時間土曜22時59分︵現地時間15時59分︶フォーメーションラップがメゾンブランツェに到達する頃放送開始、放送開始直後に出場する全マシンのスターティンググリッドがテロップで紹介され、スタートから2周ほどした後オープニングと提供クレジット、そこから1時間程中継し︵ここまでがパート1とされた︶日曜午前0時過ぎ頃にニュース等による中断を挟み、その後午前2時過ぎまでパート2を中継し、ニュース等での中断を挟んでパート3を午前5時まで︵年によっては4時までの場合もあった︶放送。その後日曜午後にパート4を1時間半程放送︵2003年は放送されず︶。ここまでが生中継。ゴールとなるパート5は遅延録画で日本時間日曜23時に放送開始し1時間半程中継、合計約9時間にも及ぶ長時間中継であった。 なおサッカー欧州選手権開催年にはスタート/ゴールが現地時間15時と1時間早まるため、日本でのスタート時の放送は録画であった。日本時間土曜23時に放送が開始された。 それぞれの時間帯がパートで分けられており、それに沿って実況するアナウンサーは交替していた[注釈 5]。 競合する同業社が同じ番組を提供するということは当時の広告業界では禁忌とされていたが、非常に長時間に及ぶこの番組を成立させるためには競合する自動車メーカーや、タイヤメーカーの協力が必要不可欠であった。企画者の林正史が各メーカーを説得して廻り、日本ではじめて競合社が提供する番組が誕生した。 実況 ●東出甫︵1987年︶ ●朝岡聡︵1987年︶ ●森下桂吉︵1987年、1994年︶ ●三浦智和︵1988 - 91年︶ - マツダの日本車初制覇を実況。 ●松苗慎一郎︵1988 - 93年、1995 - 96年︶ - 関谷の日本人初優勝を実況。 ●大熊英司︵1991 - 92年︶ - この後は、スタジオ司会を多く担当している。 ●田原浩史︵1993年、1995 - 2003年︶ ●飯村真一︵1994年︶ ●国吉伸洋︵1997 - 2000年、2003年︶ - 2002年はスタジオ司会を担当。 ●中山貴雄︵2001 - 02年︶ 解説 ●熊谷睦︵1987 - 1990年、1992年︶ - ﹃オートスポーツ﹄編集長︵当時︶、91年はスタジオ解説を担当。 ●赤井邦彦︵1987年︶- モータージャーナリスト、ピットレポートも併せて担当した。 ●津々見友彦︵1991 - 95年︶- 90年はスタジオ解説を担当。 ●由良拓也︵1995 - 2003年︶ - 長年に渡って解説を担当、参戦しているマシンを分析する﹁由良拓也が斬る!﹂というコーナーを持っていた。1995年はピットレポートを担当。 ●郷和道︵2001年︶ ピットリポーター ●ビル大友︵1988 - 89年︶ ●大石吾朗︵1988年︶ ●粕谷俊二︵1993年、1996 - 2001年︶ ●服部尚貴︵1996年︶ ●近藤真彦︵1997年︶ ●影山正彦︵2002年︶ ●飯田章︵2003年︶ 現地リポート ●篠田潤子︵1992年︶ ●田中真理子︵1994年︶ ●徳永有美︵2000年︶ ●石井希和︵2001年︶ ゲスト解説 ●高橋国光︵1991 - 93年︶ ●関谷正徳︵1998 - 99年︶ ●舘信秀︵2001 - 03年︶ ●飯田章︵2001年︶ 現地ゲスト ●松尾雄治︵1987年) - 実況席にゲストとして登場。 ●村上龍︵1989年︶ ●川島なお美︵1990年︶ - 実況席にゲストとして登場。 ●酒井法子︵1992年︶ - ピットバルコニーゲストとして登場。 ●岡本佳織︵1994 - 1995年︶ - ピットリポートを担当した。 ●MANISH︵1996年︶ - この年のテーマソング︵後述︶を担当し、ピットバルコニーゲストとして登場。 ●伊達公子 (1999年) - ピットバルコニーゲストとして登場。 ●松岡充︵SOPHIA︶︵2001年︶ - MANISHと同様、この年のテーマソング︵後述︶を担当。 スタジオゲスト ●後藤新弥︵日刊スポーツ︶︵1987 - 1988年︶ ●大石吾朗︵1989年︶ ●三原じゅん子︵1995年︶ ●奥山道子︵1995年︶ ●藤島親方︵2000年︶ スタジオ司会 ●三好康之︵1987 - 88年︶ ●大熊英司︵1989 - 90年、1993 - 97年、1999 - 2001年、2003年︶ ●田原浩史︵1991 - 92年︶ ●中山貴雄︵1998年︶ ●国吉伸洋︵2002年︶ ●高橋享子︵1990年︶ ●佐藤紀子︵1991年︶ ●川瀬眞由美︵1992年︶ ●木下智佳子︵1993年︶ ●大下容子︵1994 - 95年︶ ●高橋真紀子︵1996年︶ ●下平さやか︵1997 - 99年︶ ●萩野志保子︵2000年︶ ●徳永有美︵2001年︶ ●石井希和︵2002 - 03年︶ 歴代テーマ曲 1987 - 89年はタイアップ曲ではない︵オープニングに曲名、アーティスト名の表示がない︶。また1987 - 88年は提供スポンサー紹介時はテレビ朝日スポーツテーマが流れた。 また、1997年 - 99年のテーマ曲は、テレビ朝日で中継されていたインディ500中継とのダブルタイアップとなっていた。 ●1987年 - Jerry Goodman﹁Rockers﹂ ●1988年 - 3﹁Talkin' Bout﹂ ●1989年 - Genesis﹁Behind The Lines﹂ ●1990年 - 高中正義﹁Can You Feel It﹂ ●1991年 - 外道﹁龍神 〜空に舞う (1991 Version)﹂ ●1992年 - DIMENSION﹁Out Of Wind﹂ ●1993年 - FORCE﹁HUNAUDIERES﹂ ●1994年 - FORCE﹁DISTANT VIEW﹂ ●1995年 - DIMENSION﹁Land Breeze﹂ ●1996年 - MANISH﹁It's so Natural﹂ ●1997年 - ケン・イシイ﹁DRUMMELTER﹂ ●1998年 - CORNELIUS﹁Count 5,6,7,8﹂ ●1999年 - LUNA SEA﹁G.﹂ ●2000年 - 東儀秀樹﹁COOL RUN﹂ ●2001年 - SOPHIA﹁KURU KURU﹂ ●2002年 - SOPHIA﹁ROCK STAR﹂ ●2003年 - B'z﹁IT'S SHOWTIME!!﹂ラジオ中継[編集]
1990年、1991年に2年間、文化放送で中継された。 実況 ●扇一平︵1990年 - 1991年︶ル・マン24時間レースを主題にした映画・ドラマ・ゲーム[編集]
映画 ●栄光のル・マン︵Le Mans、1971年、アメリカ︶ ●ミシェル・ヴァイヨン︵2003年、フランス︶ ●フォードvsフェラーリ (2019年、アメリカ︶ ●グランツーリスモ (映画) (2023年、アメリカ︶ ドラマ ●ル・マンへ熱き涙を︵1992年、テレビ朝日︶マツダの参戦記をドラマ化したもの。 レーザーディスク ●'84 24HEURES DU MANS︵1984年、パイオニア、プロデューサー‥林正史︶ ビデオソフト ●エキサイティング ルマン︵1984年、プロデューサー‥林正史︶ ●爆走モンスターマシン24時間の記録 ●ル・マン'82 爆走!モンスター・マシン︵1982年、日本コロムビア、プロデューサー‥川野真︶ ●DOME&TOM'S IN LE MANS '85︵1985年、ファンハウス、プロデューサー‥林正史︶ ●24 HEURES DU MANS 1983︵1983年、アドインターナショナル︶ ●Dramas of Le Mans 24Hours︵1980年、東映芸能ビデオ︶ ●'86 LE MANS 24 HOURS RACE︵1986年、デルタポイント︶ ●Le MANS 83︵1983年、東映ビデオ、プロデュース DUKE marketing ltd︶ ●ル・マン カタログ'85︵1985年、TDKコア︶ ●プロジェクトX〜挑戦者たち〜ロータリー47士の闘い ~夢のエンジン 廃墟からの誕生~︵2000年放送、DVD NHKエンタープライズ︶ LP ●24HEURES DU MANS 1983︵1983年、Japan Records、プロデューサー‥林正史︶ ●TINNA/DOME IS A CHILD'S DREAM︵1979年、東芝EMI、プロデューサー‥新田和長︶ ●童夢ZERO RL︵1979年、東芝EMI、プロデューサー‥新田和長︶ ●FUNKY TRACK/鳴瀬喜博︵1984年、徳間ジャパン、プロデューサー‥林正史︶ ●DIGITAL EXPLOSION '83︵1983年、東芝EMI、プロデューサー‥林正史︶ VHD ●DOME & TOM'S IN LE MANS '85︵1985年、日本ビクター、プロデューサー‥林正史︶ CD ●24 HEURES DU MANS 1983︵1983年、Japan Records、プロデューサー‥林正史︶ ●Hot & Long Battle LE MANS 24 HOURS '90︵1990年、ポニーキャニオン︶ 小説 ●高斎正﹃ニッサンがルマンを制覇する時﹄徳間文庫 ISBN 978-4195775387 ●高斎正﹃お気に入りがルマンに優勝する時﹄徳間文庫 ISBN 978-4195792780 ●福野礼一郎﹃スーパーカーのル・マン﹄ - ﹃スーパーカー野郎﹄双葉社 ISBN 978-4575296983 に収録、1994年のル・マン24時間レースのパラレルワールド的作品 ●ブルース・カーター ﹃栄光のポンコツ車﹄岩崎書店 ジュニアベストノベルズ第18巻 1975年刊行絶版、1930年台のベントレースピード6を駆って1950年台のスポーツカー相手にル・マンを戦う話。訳 斎藤伯好 画 伊藤梯夫 漫画 ●新谷かおる﹃白と黒の羊﹄ ●聖悠紀﹃ミルザンヌの嵐﹄主婦と生活社 ISBN 978-4391920086 ●廣谷章、川崎のぼる﹃日産は勝つ―'58オーストラリアラリーから'89ル・マンまで 男たち30年の挑戦﹄東急エージェンシー出版部 ISBN 978-4924664685 ゲーム格言[編集]
昼夜を通して24時間走り続ける過酷なレース現場では予期せぬトラブルが発生することから、日本では﹁ル・マンには魔物が棲んでいる[21]﹂との格言が生まれた。2016年には、初優勝を目指してトップを快走していたトヨタのマシンが車両故障のため、残り3分でポルシェに逆転された。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』グランプリ出版 ISBN 4-87687-161-2
- 『Gr.Cとル・マン』学研 ISBN 978-4-05-604601-4
- 黒井尚志『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』集英社 ISBN 4-08-780158-6
- マーク・カーン著、相原俊樹訳『死のレース 1955年 ルマン』二玄社 ISBN 4-544-04043-4
- 大川悠『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』二玄社
- 神田重巳『世界の自動車-15 クーパー ローラ エルヴァ』二玄社
関連項目[編集]
- ル・マン24時間歴代勝者
- スポーツカー世界選手権
- FIA 世界耐久選手権
- フランス西部自動車クラブ
- ル・マン・シリーズ
- アメリカン・ル・マン・シリーズ
- アジアン・ル・マン・シリーズ
- 録画チャンネル4.5 - 本番組と同じく同業他社が同一番組スポンサーとなった番組。