「十河存保」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
(9人の利用者による、間の14版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{基礎情報 武士 |
{{基礎情報 武士 |
||
| 氏名 = 十河存保 |
| 氏名 = 十河 存保 |
||
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] |
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] |
||
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]]) |
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]]) |
||
| 死没 = [[天正]]14年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1587年]][[1月20日]]) |
| 死没 = [[天正]]14年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1587年]][[1月20日]]) |
||
| 改名 = 十河千松(幼名)、存康、三好存康、存保、義堅<ref name=amano2010/> |
|||
| 改名 = |
|||
| 別名 = 孫六郎([[仮名 (通称)|通称]])<ref name=amano2010/>、三好三郎<ref name=taniguchi>{{Citation|和書|last=谷口|first=克広|author-link=谷口克広|year=2010|title=織田信長家臣人名辞典 第2版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-01457-1|pages=249-250}}</ref> |
|||
| 別名 = 孫六(幼名)、三好正安、政泰、存康、義堅、三好三郎 |
|||
| 戒名 = 眞光院殿義賢實存禅定門<br />龍雲院殿義賢實存大居士 |
| 戒名 = 眞光院殿義賢實存禅定門<br />龍雲院殿義賢實存大居士 |
||
| 墓所 = [[香川県]][[高松市]]の十川東町 |
| 墓所 = [[香川県]][[高松市]]の十川東町 |
||
| 官位 = 隼人佐<ref name=taniguchi/>、隼人正<ref name=taniguchi/><ref name=新人物/>、[[阿波国|阿波]]守<ref name=taniguchi/>、[[河内国|河内]]守<ref name=新人物>{{Citation|和書|editor1-last=阿部|editor1-first=猛|editor1-link=阿部猛|editor2-last=西村|editor2-first=圭子|editor2-link=西村圭子|year=1990|title=戦国人名事典コンパクト版|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4-404-01752-9|page=460}}</ref>、民部大輔<ref name=taniguchi/><ref name=新人物/> |
|||
| 官位 = 隼人正、隼人佐、[[阿波国|阿波]]守、[[河内国|河内]]守、民部大輔 |
|||
| 幕府 = |
| 幕府 = |
||
| 主君 = |
| 主君 = |
||
| 藩 = |
| 藩 = |
||
| 氏族 = [[三好氏]]→[[十河氏]] |
| 氏族 = [[三好氏]]→[[十河氏]] |
||
| 父母 = 父:[[三好実休]]、母:不明{{efn|存保の母を兄・長治と同じ[[小少将 (阿波国の人物)|小少将]]とする史料があるが<ref>「三好記」([[山本大]]校注『四国史料集』人物往来社〈第二期戦国史料叢書5〉、1966年、236頁)。</ref><ref>「阿州古戦記」([[小杉榲邨]]編『[{{NDLDC|1918662/480}} 阿波国徴古雑抄]』日本歴史地理学会、1913年、875頁)。</ref>、近年の研究では存保と長治は異母兄弟とされる<ref>{{Citation|和書|last=天野|first=忠幸|author-link=天野忠幸|year=2021|title=三好一族―戦国最初の「天下人」|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=978-4-12-102665-1|page=117}}</ref><ref>{{Citation|和書|last=森脇|first=崇文|year=2023|chapter=三好長治―畿内情勢に翻弄され続けた悲運の二代目|editor-last=平井|editor-first=上総|title=戦国武将列伝10 四国編|publisher=[[戎光祥出版]]|isbn=978-4-86403-449-4|page=142}}</ref>。}}<br />養父:''[[十河一存]]'' |
|||
| 父母 = 父:[[三好実休]]、母:[[岡本牧西]]の娘・[[細川真之#母・小少将|小少将]]<br />養父:''[[十河一存]]'' |
|||
| 兄弟 = |
| 兄弟 = [[三好長治]]、'''存保''' |
||
| 妻 = |
| 妻 = |
||
| 子 = [[十河千松丸|千松丸]]、[[十河存英|存英]]、[[坂東保長]](伊賀守) |
| 子 = [[十河千松丸|千松丸]]、[[十河存英|存英]]、[[坂東保長]](伊賀守) |
||
| 特記事項 = |
| 特記事項 = |
||
}} |
}} |
||
'''十河 存保'''(そごう まさやす / |
'''十河 存保'''︵そごう まさやす{{efn|﹃続群書類従﹄所収の﹃三好別記﹄に﹁政康﹂とあることから、﹁存保﹂は﹁まさやす﹂と読むことが判明する<ref name=amano2010/>。また﹃長元記﹄に﹁正安﹂、﹃十河物語﹄に﹁政泰﹂とある<ref name=taniguchi/>。}}︶は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[戦国武将|武将]]、[[戦国大名|大名]]。
|
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
27行目: | 27行目: | ||
[[永禄]]4年︵[[1561年]]︶に叔父で[[讃岐国]][[十河城]]主の[[十河一存]]の急死や、永禄6年︵[[1563年]]︶の長慶の嫡子で三好家当主の[[三好義興]]の早世にともない、一存の嫡子・重存︵のちの[[三好義継]]︶が三好家を継ぐこととなったため、代わって存保が一存の養子という形で十河家を継いだ︵義継の実弟・[[十河存之]]は[[庶子]]であったため家督を継げず、存保の[[家老]]となった︶。ただし、[[阿波国|阿波]]三好家を継いだ実兄の[[三好長治]]と存保は幼かったため、実休の旧臣・[[篠原長房]]が[[篠原自遁]]、[[赤沢宗伝]]らと共に三好家、十河家を補佐した。
|
[[永禄]]4年︵[[1561年]]︶に叔父で[[讃岐国]][[十河城]]主の[[十河一存]]の急死や、永禄6年︵[[1563年]]︶の長慶の嫡子で三好家当主の[[三好義興]]の早世にともない、一存の嫡子・重存︵のちの[[三好義継]]︶が三好家を継ぐこととなったため、代わって存保が一存の養子という形で十河家を継いだ︵義継の実弟・[[十河存之]]は[[庶子]]であったため家督を継げず、存保の[[家老]]となった︶。ただし、[[阿波国|阿波]]三好家を継いだ実兄の[[三好長治]]と存保は幼かったため、実休の旧臣・[[篠原長房]]が[[篠原自遁]]、[[赤沢宗伝]]らと共に三好家、十河家を補佐した。
|
||
ただし、十河家当主としての初出は永禄11年︵[[1568年]]︶のことであり︵﹃己行記﹄︶であり、古文書に登場する名乗りは元亀2年︵1571年︶初出の﹁︵孫六郎︶存康﹂である<ref name="amano2006">天野忠幸﹁三好氏の権力基盤と阿波国人﹂︵初出 |
ただし、十河家当主としての初出は永禄11年︵[[1568年]]︶のことであり︵﹃己行記﹄︶であり、古文書に登場する名乗りは元亀2年︵1571年︶初出の﹁︵孫六郎︶存康﹂である<ref name="amano2006">天野忠幸﹁三好氏の権力基盤と阿波国人﹂︵{{harvnb|天野|2015}}、初出‥﹃年報中世史研究﹄31号、2006年︶。</ref><ref name="amano2010">天野忠幸﹁三好一族の人名比定について﹂︵{{harvnb|天野|2015}}、初出‥天野﹃戦国期三好政権の研究︵初版︶﹄清文堂出版、2010年︶。</ref>。
|
||
=== 織田信長との戦いと讃岐衆の離反 === |
=== 織田信長との戦いと讃岐衆の離反 === |
||
これ以降は長房による出兵にたびたび帯同した。永禄9年([[1566年]])6月、篠原長房が[[阿波公方]]・[[足利義栄]]を奉じて四国勢を率い[[大和国]]の[[松永久秀]]・[[三好義継]]を攻めると、兄・長治と共にこれに呼応したが([[東大寺大仏殿の戦い]])、[[織田信長]]が足利義昭を奉じ上洛すると、阿波・讃岐へ撤退した。元亀元年([[1570年]])7月、[[三好三人衆]]・[[三好康長]]らが野田・福島に兵を挙げると([[野田城・福島城の戦い]])、存保は長房に呼応し再び畿内に上陸するが、[[正親町天皇]]の勅命により信長と和睦し、阿波・讃岐に引いている。 |
これ以降は長房による出兵にたびたび帯同した。永禄9年([[1566年]])6月、篠原長房が[[阿波公方]]・[[足利義栄]]を奉じて四国勢を率い[[大和国]]の[[松永久秀]]・[[三好義継]]を攻めると、兄・長治と共にこれに呼応したが([[東大寺大仏殿の戦い]])、[[織田信長]]が[[足利義昭]]を奉じ上洛すると、阿波・讃岐へ撤退した。元亀元年([[1570年]])7月、[[三好三人衆]]・[[三好康長]]らが野田・福島に兵を挙げると([[野田城・福島城の戦い]])、存保は長房に呼応し再び畿内に上陸するが、[[正親町天皇]]の勅命により信長と和睦し、阿波・讃岐に引いている。 |
||
元亀4年︵[[1573年]]︶3月、三好長治と険悪な仲となった篠原長房が[[上桜城]]に篭ると、同年 |
元亀4年︵[[1573年]]︶3月、三好長治と険悪な仲となった篠原長房が[[上桜城]]に篭ると、同年5月、長治の命で十河存保は、阿波国の森飛騨守、井沢右近大輔、東讃の[[香西氏]]、西讃の[[香川氏]]、淡路国の兵の総勢7千人、紀伊国の増援3千人︵鉄砲千丁︶を率いて赤沢宗伝がいる[[板西城]]を攻め、ついで上桜城を攻め、同年7月15日に篠原長房、[[篠原長重 (三好家臣)|篠原長重]]を討ち取った︵[[上桜城の戦い]]︶。
|
||
この頃、存保は[[和泉国]]の[[松浦信輝]]を介し[[織田氏]]に通じたという説もある |
この頃、存保は[[和泉国]]の[[松浦信輝]]を介し[[織田氏]]に通じたという説もある。﹁︵織田︶信長、[[柴田勝家|柴田修理亮︵勝家︶]]へ十河︵某︶より松肥︵松浦肥前守︶を介して河内国[[若江城]]攻撃の後援要請を受けたことを通知、河内国若江城を即時攻略すれば十河に︵三好︶義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を契約し、もし一度の攻撃で陥落しなくても付城を構築するなどして攻略に成功すれば河内半国を与えることを約束﹂︵4月19日﹁山崎文書﹂︶。ただし、仲介した松浦氏には十河一存の実子で[[岸和田城]]主・松浦孫八郎がおり<ref>{{Citation|和書|last=馬部|first=隆弘|author-link=馬部隆弘|year=2009|title=信長上洛前夜の畿内情勢―九条稙通と三好一族の関係を中心に―|journal=日本歴史|issue=736}}</ref>、書状の十河某は存保とは別系統の十河氏か、十河一行などの別人の可能性がある。しかし三好長治、十河存保兄弟は、その後も織田家と敵対している。
|
||
その後、讃岐国人らが反三好の行動を見せ始め、[[天正]]2年︵1574年︶に十河存保は[[香川之景]] |
その後、讃岐国人らが反三好の行動を見せ始め、[[天正]]2年︵1574年︶に十河存保は[[香川之景]]︵ただし、香川氏については三好氏・十河氏により永禄7年頃より天正5年まで讃岐を追われて備中にて毛利氏の庇護を受けて反三好氏活動を続けていたとする説もある<ref>川島佳弘﹁天正五年元吉合戦と香川氏の動向﹂︵{{harvnb|橋詰|2019}}︶。</ref>。[[香西佳清]]から連名で阿波三好家からの離反を警告される。理由は、以前に篠原長房が東讃の有力国人であった[[寒川氏]]から大内郡を割譲したことと、三好長治の強権政治だったという。これに対し長治は讃岐に兵を出したが、大西氏、長尾氏ら他の讃岐国人までもが香西氏らに同調した上に、[[土佐国]]の[[長宗我部元親]]が阿波南部の[[海部城]]を攻撃したため、長治は阿波に撤退した。
|
||
一方の畿内では、天正3年︵[[1575年]]︶4月、河内国[[高屋城]]と摂津国[[新堀城]]が落城、三好康長が信長に降伏した。この時、新堀城に立て籠もっていた[[十河一行]]と[[香西長信]]が戦死している︵[[高屋城の戦い]]︶。これにより三好氏と十河氏は畿内の拠点を全て失った。さらに、降伏した三好康長は信長のために阿波・讃岐国人衆の調略まで開始している。
|
一方の畿内では、天正3年︵[[1575年]]︶4月、河内国[[高屋城]]と摂津国[[新堀城]]が落城、三好康長が信長に降伏した。この時、新堀城に立て籠もっていた[[十河一行]]と[[香西長信]]が戦死している︵[[高屋城の戦い]]︶。これにより三好氏と十河氏は畿内の拠点を全て失った。さらに、降伏した三好康長は信長のために阿波・讃岐国人衆の調略まで開始している。
|
||
この頃には三好氏は、讃岐国人に対する支配力を完全に喪失しており、同3年、離反した香川之景は香西佳清と謀り、三好家家臣で那珂郡の奈良氏領の代官をつとめていた[[金倉顕忠]]を攻め滅ぼし |
この頃には三好氏は、讃岐国人に対する支配力を完全に喪失しており、同3年、離反した香川之景は香西佳清と謀り、三好家家臣で那珂郡の奈良氏領の代官をつとめていた[[金倉顕忠]]を攻め滅ぼした。翌天正4年︵[[1576年]]︶には香川氏と香西氏は揃って織田信長に使者を派遣し、織田氏に従属している<ref>{{Citation|和書|editor=香川県香西町|year=1930|chapter=第二編 第九章 織田時代|title=香西史|publisher=香川県香西町|url={{NDLDC|1191564/106}}}}</ref>。
|
||
=== 長宗我部元親との戦い === |
=== 長宗我部元親との戦い === |
||
49行目: | 49行目: | ||
その間、天正8年︵[[1580年]]︶に長宗我部氏の四国征服をよしとしない織田信長は臣従するよう迫るが、元親はこの要求を拒絶する。このため信長と元親は敵対関係になる。天正9年︵[[1581年]]︶3月、信長の助力を得た三好康長・十河存保は、長宗我部元親への反攻を開始する。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で[[毛利氏]]と交戦している織田家臣の羽柴秀吉︵後の[[豊臣秀吉]]︶と通じて元親に圧迫を加えた。
|
その間、天正8年︵[[1580年]]︶に長宗我部氏の四国征服をよしとしない織田信長は臣従するよう迫るが、元親はこの要求を拒絶する。このため信長と元親は敵対関係になる。天正9年︵[[1581年]]︶3月、信長の助力を得た三好康長・十河存保は、長宗我部元親への反攻を開始する。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で[[毛利氏]]と交戦している織田家臣の羽柴秀吉︵後の[[豊臣秀吉]]︶と通じて元親に圧迫を加えた。
|
||
これに対して、天正8年︵1580年︶4月頃に重臣の篠原右京進が一宮成相と結んで反乱を計画し、それを知った十河存保は讃岐を脱出を図っている。中平景介は存保が織田方に通じたのはこの時期のことであるとし、併せてその後同年11月に石山本願寺を追われた大坂牢人衆が雑賀衆や淡路衆と結んで勝瑞城を占拠し、それを見た存保は再び織田方から離反して勝瑞城を返還して貰ったことを指摘している。この説によれば、その後織田氏と長宗我部氏の関係が悪化したことで、存保は信長に従ったことになる<ref>中平景介﹁天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係﹂ |
これに対して、天正8年︵1580年︶4月頃に重臣の[[篠原右京|篠原右京進]]が[[一宮成相]]と結んで反乱を計画し、それを知った十河存保は讃岐を脱出を図っている。中平景介は存保が織田方に通じたのはこの時期のことであるとし、併せてその後同年11月に[[石山本願寺]]を追われた大坂牢人衆が雑賀衆や淡路衆と結んで勝瑞城を占拠し、それを見た存保は再び織田方から離反して勝瑞城を返還して貰ったことを指摘している。この説によれば、その後織田氏と長宗我部氏の関係が悪化したことで、存保は信長に従ったことになる<ref>中平景介﹁天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係﹂︵{{harvnb|橋詰|2019|pp=39–65}}︶。</ref>。
|
||
ところが、天正10年([[1582年]])6月2日、[[本能寺の変]]で信長が死去すると存保は後ろ盾を失う。これにより同年8月、香川親和が香西佳清が立て篭もる[[藤尾城]]に攻め入り、佳清が長宗我部氏に降伏すると、同月、香川氏と香西氏は、城代・十河存之が籠城する十河城を攻めるが、落城させることはできなかった。 |
ところが、天正10年([[1582年]])6月2日、[[本能寺の変]]で信長が死去すると存保は後ろ盾を失う。これにより同年8月、香川親和が香西佳清が立て篭もる[[藤尾城]]に攻め入り、佳清が長宗我部氏に降伏すると、同月、香川氏と香西氏は、城代・十河存之が籠城する十河城を攻めるが、落城させることはできなかった。 |
||
一方、阿波の存保は、[[中富川の戦い]]にて激戦を繰り広げるも長宗我部元親に敗北、存保は阿波と勝瑞城を放棄し、同年9月、讃岐の虎丸城に撤退した。長宗我部軍は香川軍と合流し、総勢3万6千の兵をもって十河城を攻めたが落城させることは出来ず、冬には土佐に帰国した︵[[十河城#第一次十河城の戦い|第一次十河城の戦い]]︶。同年10月、存保は阿波に再侵攻し[[茅ヶ岡城]]を攻め、細川真之を自害に追い込んでいる︵ただし、長宗我部軍の讃岐・阿波侵攻と時期が被るため、真之を討ったのは元親であるとする説もある<ref>若松和三郎﹃阿波細川氏の研究﹄ |
一方、阿波の存保は、[[中富川の戦い]]にて激戦を繰り広げるも長宗我部元親に敗北、存保は阿波と勝瑞城を放棄し、同年9月、讃岐の虎丸城に撤退した。長宗我部軍は香川軍と合流し、総勢3万6千の兵をもって十河城を攻めたが落城させることは出来ず、冬には土佐に帰国した︵[[十河城#第一次十河城の戦い|第一次十河城の戦い]]︶。同年10月、存保は阿波に再侵攻し[[茅ヶ岡城]]を攻め、細川真之を自害に追い込んでいる︵ただし、長宗我部軍の讃岐・阿波侵攻と時期が被るため、真之を討ったのは元親であるとする説もある<ref>若松和三郎﹃阿波細川氏の研究﹄戎光祥出版、2013年︵原著‥﹃中世阿波細川氏考﹄私家版、2000年︶。</ref>︶。
|
||
その後、天正11年︵1583年︶2月より、 |
その後、天正11年︵1583年︶2月より、﹁存保﹂の名乗りを用い始めるが、8月になると﹁三好義堅﹂という名乗りを用いている。天野忠幸の研究によれば、存保の名乗りは十河一存の後継者として讃岐支配の立て直しを意図したものであったが、羽柴秀吉が自らの甥︵後の[[豊臣秀次]]︶を三好康長の養嗣子にして﹁三好信吉﹂と名乗らせたことに警戒感を強め、三好本宗家ゆかり︵[[三好義興|義興]]・義継︶の﹁義﹂の字を加えて、阿波三好家や十河家ではなく三好本宗家継承の意思を表明したものとしている<ref name=amano2006/><ref name=amano2010/>ただし、中平景介はこれに対して、それ以前の文書にも﹁義堅﹂の署名があるものが存在するとして、足利義昭及び毛利氏が三好氏と和睦して存保の三好氏継承を承認した際に、義昭から[[偏諱]]を得て﹁義堅﹂と改名したとする見解を採っている<ref>中平景介﹁天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係﹂︵{{harvnb|橋詰|2019|pp=41–44}}︶。</ref>。
|
||
しかし、天正12年︵[[1584年]]︶6月、十河城と虎丸城は長宗我部元親により落城、存保は大坂の羽柴秀吉︵豊臣秀吉︶を頼って落ち延びた︵[[十河城#第二次十河城の戦い|第二次十河城の戦い]]︶。
|
しかし、天正12年︵[[1584年]]︶6月、十河城と虎丸城は長宗我部元親により落城、存保は大坂の羽柴秀吉︵豊臣秀吉︶を頼って落ち延びた︵[[十河城#第二次十河城の戦い|第二次十河城の戦い]]︶。
|
||
62行目: | 62行目: | ||
天正13年︵[[1585年]]︶6月、豊臣秀吉の[[四国攻め]]に協力し、旧領である讃岐十河3万石を秀吉より与えられて大名として復帰した︵[[四国国分]]︶。しかし、それは[[仙石氏]]の与力大名﹁十河孫六郎﹂としてであり、三好本宗家の継承権も阿波の領有権も否認された<ref name=amano2006/><ref name=amano2010/>。
|
天正13年︵[[1585年]]︶6月、豊臣秀吉の[[四国攻め]]に協力し、旧領である讃岐十河3万石を秀吉より与えられて大名として復帰した︵[[四国国分]]︶。しかし、それは[[仙石氏]]の与力大名﹁十河孫六郎﹂としてであり、三好本宗家の継承権も阿波の領有権も否認された<ref name=amano2006/><ref name=amano2010/>。
|
||
天正14年︵1586年︶、秀吉の[[九州平定|九州征伐]]に従った際、軍監・[[仙石秀久]]の無謀な作戦に巻き込まれてしまい、[[島津家久]]との[[戸次川の戦い]]において戦死した。享年33。
|
天正14年︵1586年︶、秀吉の[[九州平定|九州征伐]]に従った際、軍監・[[仙石秀久]]の無謀な作戦に巻き込まれてしまい、[[島津家久]]との[[戸次川の戦い]]において存之共々戦死した。享年33。
|
||
戸次川の戦いにおいて﹁まだ︵嫡男の︶千松丸は豊臣秀吉に謁見していない。自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、十河家を存続させるように﹂と家臣に伝え戦死した。しかし、存保の死により領地は没収された。
|
戸次川の戦いにおいて﹁まだ︵嫡男の︶千松丸は豊臣秀吉に謁見していない。自分が亡くなったら必ず秀吉に謁見させ、十河家を存続させるように﹂と家臣に伝え戦死した。しかし、存保の死により領地は没収された。
|
||
68行目: | 68行目: | ||
子として、[[嫡子]]の[[十河千松丸|千松丸]]、[[十河存英|存英]]がいる。このほかに[[坂東保長]]、豊前守長康、雅楽頭存純、村田九兵衛存継の名も伝えられるが、諸説あり定かではない。
|
子として、[[嫡子]]の[[十河千松丸|千松丸]]、[[十河存英|存英]]がいる。このほかに[[坂東保長]]、豊前守長康、雅楽頭存純、村田九兵衛存継の名も伝えられるが、諸説あり定かではない。
|
||
== |
== 関連作品 == |
||
=== 小説 === |
|||
*[[今村翔吾]]『三好の舳』(『戦国武将伝 西日本編』収録、[[PHP研究所]]、2023年) |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{Notelist}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist}} |
{{Reflist}} |
||
== 参考文献 == |
|||
* {{Citation|和書|last=天野|first=忠幸|author-link=天野忠幸|year=2015|title=増補版 戦国期三好政権の研究|publisher=清文堂出版|isbn=978-4-7924-1039-1}} |
|||
* {{Citation|和書|editor-last=橋詰|editor-first=茂|year=2019|title=戦国・近世初期 西と東の地域社会|publisher=[[岩田書院]]|isbn=978-4-86602-074-7}} |
|||
{{DEFAULTSORT:そこう まさやす}} |
{{DEFAULTSORT:そこう まさやす}} |
2024年4月25日 (木) 13:16時点における最新版
十河 存保 | |
---|---|
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 天正14年12月12日(1587年1月20日) |
改名 | 十河千松(幼名)、存康、三好存康、存保、義堅[1] |
別名 | 孫六郎(通称)[1]、三好三郎[2] |
戒名 |
眞光院殿義賢實存禅定門 龍雲院殿義賢實存大居士 |
墓所 | 香川県高松市の十川東町 |
官位 | 隼人佐[2]、隼人正[2][3]、阿波守[2]、河内守[3]、民部大輔[2][3] |
氏族 | 三好氏→十河氏 |
父母 |
父:三好実休、母:不明[注釈 1] 養父:十河一存 |
兄弟 | 三好長治、存保 |
子 | 千松丸、存英、坂東保長(伊賀守) |