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{{複数の問題 |
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⚫ | [[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|300px|right|thumb|『[[民衆を導く自由の女神]]』([[ウジェーヌ・ドラクロ |
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|出典の明記=2015年4月 |
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⚫ | '''国民国家'''(こくみんこっか、{{lang-en-short|''Nation-state''}}、{{lang-fr-short|''État-nation''}}、{{lang-de-short|''Nationalstaat''}})とは、[[国家]]内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「[[国民]]」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、 |
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|独自研究=2019年1月}} |
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⚫ | [[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|300px|right|thumb|『[[民衆を導く自由の女神]]』([[ウジェーヌ・ドラクロワ]]画)]] |
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[[近代]]国家の典型の1つとされることも多い。[[英語]]では、"''Nation-state''" は「一民族により構成される国家」の意で用いられることが多く、この意味からは「[[単一民族国家]]」が原意に近い。''state''と''nation''については、しばしば "''The state is a political and geopolitical entity; the nation is a cultural and/or ethnic entity.''"(「''state''は政治的あるいは地政学的なもの、''nation''は文化的あるいはまた民族的なものである。」)と説明される。 |
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⚫ | '''国民国家'''(こくみんこっか、{{lang-en-short|''Nation-state''}}、{{lang-fr-short|''État-nation''}}、{{lang-de-short|''Nationalstaat''}})とは、[[国家]]内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「[[国民]]」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、それを[[主権国家]]として成立する国家概念やそれを成り立たせる[[イデオロギー]]をも指している。 |
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[[ヨーロッパ]]は一般に「国民国家」成立のモデル地域とされており、その[[先進国]]とされるのが[[イギリス]]、[[フランス]]であった<ref name=sakai>坂井(2003)</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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国民国家はネイション‐ステイト (''Nation-state'') の訳語ではあるが、[[ネイション]] (''nation'') の意味は多様であり、日本では「国民」と訳されることが多いものの、世界的にみれば[[多民族国家]]がむしろ一般的であることから、海外では、日本でいう「[[民族]]」の意味で使われることも多い。したがって、単純に〈国民=ネイション、国家=ステイト〉と当てはめることはできない。ネイションは本来「生まれ故郷を同じくする人の集団」を意味し、そこから、[[文化]]、[[言語]]、[[宗教]]や[[歴史]]を共有する人びと、つまり「民族」という意味が派生している。その点から、''Arab Nationalism''は「[[アラブ民族主義]]」と訳すのが正確であり、各国に散らばる[[ユダヤ人]]もまた、それぞれ互いに同じ ''Nation'' に属しているものと理解される。したがって、"''Nation''"を「民族」と機械的に訳してきたことは、訳語上の混乱という瑕疵を作った。このような訳語上の混乱を理解した上で、"''Nation''"を「国民」と訳することは首肯できるのである。さて、その一方で、[[ステイト]] (''state'') は元来「[[国王]]が所有する[[財産]]」、すなわち土地や収穫物、財産としての人間([[奴隷]])を意味する。 |
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つまり、「ネイション‐ステイト」とは、国民国家を構成する人的な要素と物的な要素(奴隷ふくむ)を合成した言葉である。[[日本語]]においては、「国家」の語には物的な側面だけでなく[[政治家]]や[[官僚]]・[[天皇]]など、国家機構にかかわる人的な要素も含まれるため、単純に「国家=ステイト」とはならない。国民国家はあくまでネイション‐ステイトというひとつながりの言葉の訳語として理解するべきである。 |
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ネイションの側面は、[[ベネディクト・アンダーソン]]の「想像の共同体」や[[カール・マルクス]]のいう「幻想共同体」に相当し、ステイトの側面は、[[統治機構]]や法共同体としての同一性に相当すると考えられている<ref>姜・宮台(2003)</ref>。 |
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さらに「国民国家」とは、確定した[[領土]]をもち、国民を[[主権者]]とする国家体制およびその概念を指すことがある<ref name=shimizu>清水(2004)</ref>。 |
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[[ファイル:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|230px|right|[[ウェストファリア条約]]で総称される条約のうち[[ミュンスター条約]]締結の図([[ヘラルト・テル・ボルフ]]画)]] |
[[ファイル:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|230px|right|[[ウェストファリア条約]]で総称される条約のうち[[ミュンスター条約]]締結の図([[ヘラルト・テル・ボルフ]]画)]] |
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歴史的にみれば、[[絶対王政]]によって[[中央集権]]体制の整えられた国家が[[三十年戦争]]を通じてさらに強力化し、三十年戦争の講和条約である[[ヴェストファーレン条約]](1648年)によって、このとき[[神聖ローマ帝国]](ドイツ)の領域に多数の[[主権国家]]が生まれ、また[[オランダ]](北部ネーデルラント)は[[スペイン]]から国としての独立を果たした<ref group="注釈">ドイツをはじめとして、オーストリア、[[スイス]]、オランダ、[[ベルギー]]など、[[中央ヨーロッパ]]には現在、連邦制の国家形態を採用する国家が多いが、これは、歴史的にみれば神聖ローマ帝国の遺産といえる。[[#坂井|坂井(2003)p.227]]</ref>。こうしてそのとき生まれた[[ヨーロッパ]]の国際秩序を「[[主権国家体制]]」ないし「[[ウェストファリア体制]]」と称する。 |
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こののち、ヨーロッパでは[[17世紀]]のイギリス市民革命︵[[清教徒革命]]、[[名誉革命]]︶、[[18世紀]]の[[フランス革命]]などにみられるように、絶対王政に対する批判として[[君主]]に代わって﹁国民﹂が主権者の位置につくことによって近代国家が形成された<ref name="shimizu">清水︵2004︶</ref>。18世紀から19世紀にかけて、オランダ・[[イギリス]]・[[フランス]]につづいてヨーロッパの他地域でも[[市民革命]]が起こり、また、英仏をモデルとした近代化が進められた<ref name=shimizu/>。こうして成立した国家が﹁国民国家﹂であるとされる。
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「国民国家」形成過程においては、[[国民]]は一般に、[[国旗]] |
「国民国家」形成過程においては、[[国民]]は一般に、[[国旗]]、[[国歌]]、使用する[[文字]]や言語の標準化などの統制を通じて、国民的アイデンティティを形成していく<ref name=shimizu/>。 |
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== 諸国民の春 == |
== 諸国民の春 == |
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[[ファイル:Ereignisblatt aus den revolutionären Märztagen 18.-19. März 1848 mit einer Barrikadenszene aus der Breiten Strasse, Berlin 01.jpg|250px|right|thumb|[[1848年]]のベルリン三月革命]] |
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{{main|1848年革命}} |
{{main|1848年革命}} |
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ヨーロッパにおいては、[[1848年革命]]︵﹁諸国民の春﹂︶ののち、つぎつぎと﹁国民国家﹂が成立した。[[ドイツ帝国]]と[[イタリア王国]]は統一運動によって、[[バルカン半島]]では[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]、[[モンテネグロ公国]]、[[ルーマニア王国]]、[[ |
ヨーロッパにおいては、[[1848年革命]](「諸国民の春」)ののち、つぎつぎと「国民国家」が成立した。[[ドイツ帝国]]と[[イタリア王国]]は統一運動によって、[[バルカン半島]]では[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]、[[モンテネグロ公国]]、[[ルーマニア王国]]、[[ブルガリア公国]]などは[[オスマン帝国]]からの独立によって、それぞれ生まれた国民国家であった。近代の国家システムのなかで、国民は主権者としてのさまざまな[[権利]]を有すると同時に、[[納税]]、[[兵役]]、[[教育]]の[[義務]]を担うこととなった。国民国家形成はしばしば、当該民族にとって「悲願のできごと」として表現されることが多い。しかし、実際には、国家領域のなかには多様な人びと、複数の集団が存在していることが多いため、さまざまな問題をはらんでおり、歴史的に重大な事件を引き起こす要因ともなってきた(後述''「[[#問題|国民国家のはらむ問題]]」''節参照)。 |
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== 国民的アイデンティティー == |
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国家の住民を、﹁国民﹂にまとめあげる際、重要な要素となったのが﹁[[民族]]としての[[アイデンティティ]]﹂であった。国家の一員としての帰属意識︵国民的アイデンティティ︶の獲得を促したのが、[[工業化]]による富や社会構造の変動、[[言文一致運動]]とそれを担った娯楽の発展、[[メディア (媒体)#マスメディア|マスメディア]]の誕生、[[義務教育]]等々による[[国語]]の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、[[歴史]]が国民に共有されたこと、[[経済圏]]が統一されて[[国民経済]]が確立したことが、その促進要因として挙げられる<ref group="注釈">ドイツの国民[[経済]]確立においては、[[1834年]]に発足した[[ドイツ関税同盟]]の果たした役割が大きい。また、[[マシュー・ペリー]]来航後の[[幕末]]期の日本で[[攘夷運動]]が起こり、それが倒幕運動へ転換していったことは、江戸時代の日本では[[東廻海運]]や[[西廻海運]]など国内航路の整備によって、遠隔地商業がさかんとなり、各地域がたがいに経済的に深くむすびついて国民経済の様相を示していたからであるという指摘がある。[[#岡崎・佐藤|岡崎・佐藤︵2000︶]]</ref>。
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国家の住民を、﹁国民﹂にまとめあげる際、重要な要素となったのが﹁[[民族]]としての[[自己同一性|アイデンティティー]]﹂であった。ここでいう民族は、[[民族#エスニック・グループの定義|人類学的な民族]]︵エスニック集団︶と必ず一致しているわけではない。国家の一員としての帰属意識︵国民的アイデンティティ、ナショナル・アイデンティティー︶の獲得を促したのが、[[工業化]]による富や社会構造の変動、[[言文一致運動]]とそれを担った娯楽の発展、[[メディア (媒体)#マスメディア|マスメディア]]の誕生、[[義務教育]]等々による[[国語]]の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、[[歴史]]が国民に共有されたこと、[[経済圏]]が統一されて[[国民経済]]が確立したことが、その促進要因として挙げられる<ref group="注釈">ドイツの国民[[経済]]確立においては、[[1834年]]に発足した[[ドイツ関税同盟]]の果たした役割が大きい。また、[[マシュー・ペリー]]来航後の[[幕末]]期の日本で[[攘夷運動]]が起こり、それが倒幕運動へ転換していったことは、江戸時代の日本では[[東廻海運]]や[[西廻海運]]など国内航路の整備によって、遠隔地商業がさかんとなり、各地域がたがいに経済的に深くむすびついて国民経済の様相を示していたからであるという指摘がある。[[#岡崎・佐藤|岡崎・佐藤︵2000︶]]</ref>。国民国家は、国家のために税金から命まで差し出す国民を育成し、それまでの嫌々ながらも従う農民の構図に比べて圧倒的に動員能力のある国家を生み出した<ref>[[田中宇]]﹁[https://tanakanews.com/080814hegemon.htm 覇権の起源]﹂</ref>。
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[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|130px|left|thumb|[[明治天皇]]]] |
[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|130px|left|thumb|[[明治天皇]]]] |
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[[宮台真司]]は、「[[幕藩体制]]下では『クニ』とは藩のことで、[[庶民]]レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『[[天皇]]』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている<ref>宮台・宮崎(2003)</ref>。また、[[宮崎哲弥]]は「[[マスメディア]]は国民国家の要であり、特に[[テレビ]]は、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している<ref>宮崎(1998)</ref>。 |
[[宮台真司]]は、「[[幕藩体制]]下では『クニ』とは藩のことで、[[庶民]]レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『[[天皇]]』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている<ref>宮台・宮崎(2003)</ref>。また、[[宮崎哲弥]]は「[[マスメディア]]は国民国家の要であり、特に[[テレビ]]は、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している<ref>宮崎(1998)</ref>。 |
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== 問題 == |
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=== 1861年イタリア統一 |
=== 1861年イタリア統一 === |
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{{main|イタリア統一運動|未回収のイタリア}} |
{{main|イタリア統一運動|未回収のイタリア}} |
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[[ファイル:Tranquillo Cremona - Vittorio Emanuele II.jpg|130px|left|thumb|統一されたイタリアの初代国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]]] |
[[ファイル:Tranquillo Cremona - Vittorio Emanuele II.jpg|130px|left|thumb|統一されたイタリアの初代国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世]]]] |
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﹁未回収のイタリア﹂の存在は、その後のイタリアを左右しつづけた。イタリアは、[[第一次世界大戦]]に際し、当初[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]に基づいて[[中央同盟国|同盟国]]側に立ったが、﹁未回収のイタリア﹂帰属問題をめぐり[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と対立、開戦に際しては中立を宣言し、最終的には、[[1915年]]にイギリス・フランスなど[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側について参戦した。しかし、こうして第一次大戦の戦勝国となりながらも、期待していたフィウーメなどの領地が得られなかったことから、戦後の[[ヴェルサイユ体制]]に強い不満をもつ人も少なくなかった。﹁未回収のイタリア﹂問題は、[[1920年代]]から30年代にかけての[[ファシスト党]]の台頭の遠因のひとつとなったのである。
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﹁未回収のイタリア﹂の存在は、その後のイタリアを左右しつづけた。イタリアは、[[第一次世界大戦]]に際し、当初[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]に基づいて[[中央同盟国|同盟国]]側に立ったが、﹁未回収のイタリア﹂帰属問題をめぐり[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と対立、開戦に際しては中立を宣言し、最終的には、[[1915年]]にイギリス・フランスなど[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側について参戦した。しかし、こうして第一次大戦の戦勝国となりながらも、期待していたフィウーメなどの領地が得られなかったことから、戦後の[[ヴェルサイユ体制]]に強い不満をもつ人も少なくなかった。﹁未回収のイタリア﹂問題は、[[1920年代]]から30年代にかけての[[ファシスト党]]の台頭の遠因のひとつとなったのである。
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=== 1871年ドイツ統一 |
=== 1871年ドイツ統一 === |
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{{main|ドイツ統一}} |
{{main|ドイツ統一}} |
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19世紀後半の[[ドイツ統一]]は、一般的には、[[プロイセン王国]]の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって進められ、[[1871年]] |
[[19世紀]]後半の[[ドイツ統一]]は、一般的には、[[プロイセン王国]]の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって進められ、[[1871年]]のプロイセンを中心とする[[ドイツ帝国]]︵[[ドイツ国]]︶という国民国家の成立で達成されたと理解される。しかし、実際のドイツ帝国は、領域内の全住民をひとつのまとまった構成員として統合する国家という上述の定義からは程遠いものであった<ref name="sakai">坂井︵2003︶</ref>。
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[[ファイル:The development of the German linguistic area.gif|thumb|300px|血縁的・言語的「ドイツ人」の居住地域の変遷(700年から19世紀まで)]] |
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⚫ | ドイツ統一へ向けた議論は、[[1848年]]の[[フランクフルト国民議会]]で本格化した。この時期のドイツはオーストリア帝国とプロイセン王国の二大邦国はじめ39の独立邦 |
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#[[地縁]](ドイツに住む人) |
#[[地縁]](ドイツに住む人) |
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#[[言語]](ドイツ語を話す人) |
#[[言語]]([[ドイツ語]]を話す人) |
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#[[血縁]]([[ドイツ人]]的血縁をもつ人) |
#[[血縁]]([[ドイツ人]]的血縁をもつ人) |
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が考えられたが、実際にはこれらが重ならないことも多かった。プロイセンやオーストリアには言語・血縁において「非ドイツ人」も多かった一方、ドイツの領域外にも[[東方植民]]などによって多数の「ドイツ人」が居住していたからである<ref name=sakai/>。 |
が考えられたが、実際にはこれらが重ならないことも多かった。プロイセンやオーストリアには言語・血縁において「非ドイツ人」も多かった一方、ドイツの領域外にも[[東方植民]]などによって多数の「ドイツ人」が居住していたからである<ref name=sakai/>。 |
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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1990-023-06A, Otto von Bismarck.jpg|130px|right|thumb|プロイセン王国・ドイツ帝国の宰相ビスマルク]] |
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1990-023-06A, Otto von Bismarck.jpg|130px|right|thumb|プロイセン王国・ドイツ帝国の宰相ビスマルク]] |
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結局、ドイツ統一はビスマルクの誘発した[[普墺戦争]] |
結局、ドイツ統一はビスマルクの誘発した[[普墺戦争]]([[1866年]])と[[普仏戦争]]([[1870年]]-[[1871年]])によって成し遂げられた<ref name=sakai/><ref name=haffner>ハフナー(2006)</ref>。それは「小ドイツ主義」的ではあったが「大プロイセン」的な性格をもっていた<ref group="注釈">ビスマルクは、ドイツ人である以前にプロイセン人であったため、[[北ドイツ連邦]]の盟主となったプロイセンが南ドイツを支配することによってかえって統一ドイツのなかに埋没してしまうことを何よりも怖れていた。[[#ハフナー|ハフナー(2006)p.65]]</ref>。この過程で、ビスマルクは[[バイエルン王国]]の[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]を買収している<ref name=haffner/>。このように強引な形で完成した「国民国家・ドイツ」は、オーストリアに1,000万人を越えるドイツ人を残す一方、普墺・普仏戦争によって獲得した{{仮リンク|南部シュレースヴィヒ|en|Southern Schleswig}} (旧[[シュレースヴィヒ公国]]領)や[[エルザス=ロートリンゲン]](旧[[フランス]]領)などには「非ドイツ人」を多数かかえる国家となった。 |
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歪な形で成立した「国民国家」における未解決の諸問題は、新たな問題の火種となった。エルザス=ロートリンゲンをめぐってはフランスとの対立が繰り返され、[[第一次世界大戦]]後に顕在化した旧オーストリア領のドイツ人問題<ref group="注釈">第一次大戦で[[オーストリア=ハンガリー帝国]]が崩壊すると、旧帝国のドイツ的部分は[[オーストリア第一共和国|新オーストリア]]となり、「ドイツ人の国民国家」が2つ並立することになった。また、[[ボヘミア]]・[[モラヴィア]]・[[シレジア]]でドイツ人が多数を占める地域([[ズデーテン地方]])は[[チェコスロバキア]]に編入され、ドイツ系住民が新オーストリアないしドイツへの編入運動を行っていた。</ref>は[[アドルフ・ヒトラー]]に[[アンシュルス|独墺合邦]]及び[[ズデーテン併合]]の野望を抱かせた<ref group="注釈">これらはいずれも[[1938年]]に実現し、オーストリアとズデーテンはドイツ領となった。</ref>。「非ドイツ人」問題は、周辺諸国との国境問題や国内での[[民族紛争|民族問題]]につながったが、その最たるものが[[ナチス・ドイツ]](ヒトラー政権)による[[ユダヤ人]]大量虐殺([[ホロコースト]])である。 |
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このように強引なかたちで完成した「国民国家」ドイツは、オーストリアに1,000万人を越えるドイツ人をのこす一方、エルザスとロートリンゲン(現在はフランス共和国の[[アルザス地域圏]]および[[ロレーヌ地域圏]])や旧[[シュレースヴィヒ公国]]などには「非ドイツ人」を多数かかえる国家となった。 |
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⚫ | 一方、第一次大戦後もドイツ領にとどまった[[シレジア]](シュレージエン)では、ドイツ系住民による[[ポーランド人|ポーランド系住民]]の迫害が起こり、従来、ドイツ帝国への帰属意識の強かったポーランド系住民の間にも民族意識が高まって、シレジアの[[ポーランド]]([[ポーランド第二共和国]])への併合を求める[[シレジア蜂起]]が数回にわたって起こっている。 |
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いびつなかたちで成立した「国民国家」における未解決の諸問題は、新たな問題の火種となった。エルザス・ロートリンゲンをめぐってはフランスとの対立が繰り返され、オーストリアの問題は[[アドルフ・ヒトラー]]による[[1938年]]の[[アンシュルス]](独墺併合)の野望をいだかせた<ref group="注釈">第一次世界大戦後、[[チェコスロバキア]]に編入された[[ズデーテン地方]]はチェコスロバキアと[[ナチス・ドイツ]]の係争地となり、[[1938年]]の[[ミュンヘン会談]]の結果、ドイツに割譲された。</ref>。「非ドイツ人」問題は、周辺諸国との国境問題や国内での民族問題につながったが、その最たるものがヒトラー政権([[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]])による[[ユダヤ人]]大量虐殺([[ホロコースト]])である。 |
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﹁国民国家﹂は、国民の同質性を前提として統合されたが、﹁国民﹂という均質で固定された純粋な存在を意識的につくりだしていく |
﹁国民国家﹂は、[[国民]]の同質性を前提として統合されたが、﹁国民﹂という均質で固定された純粋な存在を意識的につくりだしていく一方、他面では雑種的でしかありえない[[文化]]や[[言語]]、そこからはみ出てしまう[[社会的少数者]]に対して抑圧的、排他的な現実をつくり出した<ref name=shimizu/>。この現象は、決してドイツに限った話ではない。﹁国民国家﹂の大義は、[[先住民族]]や[[少数民族]]の権利と衝突することが多いのである。[[20世紀]]前半は、世界各地において、国民国家に潜在化していた矛盾や隠蔽してきた諸問題が、特に際立って露呈した時代であった<ref name=shimizu/>。
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=== 現代 |
=== 現代 === |
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{{see also|グローバリゼーション|リージョナリズム}} |
{{see also|グローバリゼーション|リージョナリズム}} |
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[[第二次世界大戦]]後には、[[多国籍企業]]が多数あらわれ、国民経済の枠組みを超える存在となっている。また、[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) や[[ヨーロッパ連合]] (EU) や[[南米諸国連合]] (UNASUR) のような[[:category:地域統合|地域連合]]も結成され、特に[[冷戦]]後にはその動きが活発化するなど、「国民国家」の枠組みが問われる時代になっている。しかしながら、「国民国家」の問題は決して過去の問題ではない。 |
[[第二次世界大戦]]後には、[[多国籍企業]]が多数あらわれ、国民経済の枠組みを超える存在となっている。また、[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) や[[ヨーロッパ連合]] (EU) や[[南米諸国連合]] (UNASUR) のような[[:category:地域統合|地域連合]]も結成され、特に[[冷戦]]後にはその動きが活発化するなど、「国民国家」の枠組みが問われる時代になっている。しかしながら、「国民国家」の問題は決して過去の問題ではない。 |
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現代の[[ドイツ連邦共和国基本法]]によれば、﹁ドイツ人﹂とは、﹁ドイツ国籍を有する者﹂または﹁ドイツ民族所属性を有する難民ないし被追放者として、あるいはその配偶者ないし直系卑属として、…︵略︶…ドイツ・帝国の領内に受け入れられていた者﹂と規定される。この文言のなかの﹁ドイツ民族所属性を有する﹂という定義は、ナチ時代の内務省の回状に淵源をもつといわれる。これは、戦後、移住先の[[東ヨーロッパ]]諸国などを追われたドイツ系の人びとを受け入れるためにやむを得ない処置でもあったが、ドイツは、現代においても同一言語・同一人種という民族主義的な国籍原理を採用しているのである<ref group="注釈">[[ワルター・ラカー]]は、戦後のドイツ人はユダヤ人の大量虐殺については多少なりとも良心の呵責を感じ、償いに応じようという気があったとしても、[[ロシア]]やポーランド、チ |
現代の[[ドイツ連邦共和国基本法]]によれば、﹁ドイツ人﹂とは、﹁ドイツ国籍を有する者﹂または﹁ドイツ民族所属性を有する難民ないし被追放者として、あるいはその配偶者ないし直系卑属として、…︵略︶…ドイツ・帝国の領内に受け入れられていた者﹂と規定される。この文言のなかの﹁ドイツ民族所属性を有する﹂という定義は、ナチ時代の内務省の回状に淵源をもつといわれる。これは、戦後、移住先の[[東ヨーロッパ]]諸国などを追われたドイツ系の人びとを受け入れるためにやむを得ない処置でもあったが、ドイツは、現代においても同一言語・同一人種という民族主義的な国籍原理を採用しているのである<ref group="注釈">[[ワルター・ラカー]]は、戦後のドイツ人はユダヤ人の大量虐殺については多少なりとも良心の呵責を感じ、償いに応じようという気があったとしても、[[ロシア]]やポーランド、チェコスロバキアに対しては罪悪感はなく、むしろ被害感情があったと証言している。これら東欧諸国は、大戦にあっては敵国だったのであり、かれら︵[[スラブ人]]︶は何百万人ものドイツ人を故郷から追放し、略奪し、ときには生命まで奪って十分すぎるくらい報復したではないかというのが、戦後ドイツの論理だったのである。[[#永井|永井︵1992︶p.27]]</ref>。
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[[ファイル:General map of yugoslavia (1945-1991) (HR labels).png|350px|right|thumb|1945年から1990年までは「1つの国」であった旧ユーゴスラビア連邦{{hr icon}}]] |
[[ファイル:General map of yugoslavia (1945-1991) (HR labels).png|350px|right|thumb|1945年から1990年までは「1つの国」であった旧ユーゴスラビア連邦{{hr icon}}]] |
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[[多民族国家]]であったかつての[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]は、その多様性を「7つの[[国境]]、6つの[[共和国]]、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と表現されていた<ref group="注釈">「7つの国境」はイタリア、オーストリア、[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ギリシア]]、[[アルバニア]]。「6つの共和国」はスロベニア、クロアチア、セルビア、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア共和国|マケドニア]]。「5つの民族」はスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、[[モンテネグロ人]]、[[マケドニア人]]。「4つの言語」は[[スロベニア語]]、[[セルビア語]]、[[クロアチア語]]、[[マケドニア語]]。「3つの宗教」は[[正教会|正教]]、[[カトリック教会|カトリック]]、[[イスラム教]]。「2つの文字」は[[ラテン文字]]、[[キリル文字]]。「1つの国家」はユーゴスラビア連邦。</ref>。しかし、冷戦の終結と東欧社会主義の崩壊は、この国を「[[ヨーロッパの火薬庫]]」に引き戻した。 |
[[多民族国家]]であったかつての[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]は、その多様性を「7つの[[国境]]、6つの[[共和国]]、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と表現されていた<ref group="注釈">「7つの国境」はイタリア、オーストリア、[[ハンガリー]]、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ギリシア]]、[[アルバニア]]。「6つの共和国」はスロベニア、クロアチア、セルビア、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア共和国|マケドニア]]。「5つの民族」はスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、[[モンテネグロ人]]、[[マケドニア人]]。「4つの言語」は[[スロベニア語]]、[[セルビア語]]、[[クロアチア語]]、[[マケドニア語]]。「3つの宗教」は[[正教会|正教]]、[[カトリック教会|カトリック]]、[[イスラム教]]。「2つの文字」は[[ラテン文字]]、[[キリル文字]]。「1つの国家」はユーゴスラビア連邦。</ref>。しかし、冷戦の終結と東欧社会主義の崩壊は、この国を「[[ヨーロッパの火薬庫]]」に引き戻した。 |
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[[1991年]]6月、[[スロベニア]]と[[クロアチア]]の両共和国はユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、[[セルビア]]が主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に[[十日間戦争]]、クロアチアとの間に[[クロアチア紛争]]が勃発した。十日間戦争は短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、それまで地域社会で共存していた[[セルビア人]]と[[クロアチア人]]が相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す﹁憎しみの連鎖﹂が生まれた。また、[[1992年]]3月に発せられた[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の独立宣言をきっかけに、独立に反対するセルビア人と独立を推進する[[ボシュニャク人]]︵[[ムスリム人]]︶が軍事的に衝突、多くは独立に賛成の立場をとるクロアチア人がこれに加わった。これが同年4月よりはじまった[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住が進行していたため、状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化し、その過程で[[民族浄化]]が発生した。[[1995年]]7月、セルビア人勢力は、[[国際連合]]の指定する﹁安全地帯﹂であった[[スレブレニツァ]]に侵攻し、同地のボシュニャク人男性すべてを絶滅の対象とし、8,000人以上を組織的に殺害する[[スレブレニツァの虐殺]]が引き起こされた。この虐殺は、[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]および[[国際司法裁判所]]によって[[ジェノサイド]]と認定された。[[1996年]]に起こった[[コソボ紛争]]でも[[1999年]]にジェノサイド︵ |
[[1991年]]6月、[[スロベニア]]と[[クロアチア]]の両共和国はユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、[[セルビア]]が主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に[[十日間戦争]]、クロアチアとの間に[[クロアチア紛争]]が勃発した。十日間戦争は短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、それまで地域社会で共存していた[[セルビア人]]と[[クロアチア人]]が相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す﹁憎しみの連鎖﹂が生まれた。また、[[1992年]]3月に発せられた[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の独立宣言をきっかけに、独立に反対するセルビア人と独立を推進する[[ボシュニャク人]]︵[[ムスリム人]]︶が軍事的に衝突、多くは独立に賛成の立場をとるクロアチア人がこれに加わった。これが同年4月よりはじまった[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住が進行していたため、状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化し、その過程で[[民族浄化]]が発生した。[[1995年]]7月、セルビア人勢力は、[[国際連合]]の指定する﹁安全地帯﹂であった[[スレブレニツァ]]に侵攻し、同地のボシュニャク人男性すべてを絶滅の対象とし、8,000人以上を組織的に殺害する[[スレブレニツァの虐殺]]が引き起こされた。この虐殺は、[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]]および[[国際司法裁判所]]によって[[ジェノサイド]]と認定された。[[1996年]]に起こった[[コソボ紛争]]でも[[1999年]]にジェノサイド︵ラチャクの虐殺︶が発生し、国際問題へと発展した。
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「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、 |
「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、[[バスク地方]]など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにも[[アイルランド共和軍]]([[IRA暫定派]])による[[北アイルランド]]のイギリスからの分離と全[[アイルランド]]の統一を目指す運動があり、[[ブリテン島]]内部にも[[スコットランド]]の地域分離主義運動がある。 |
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== 現在 == |
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ヨーロッパ連合が生まれて久しく、その統合は深化しており、国家の枠組みや[[ナショナリズム]]に対する疑問も多い現代ではあるが、以上のような国民国家の歴史に目を向けたうえで統合を進めることが必要である。 |
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第二次世界大戦以降、旧[[列強]]の[[植民地]]が相次いで独立し、また、その後の[[冷戦]]の崩壊による急速な[[グローバリゼーション|グローバル化]]のなかで、﹁国民国家﹂の批判的な問い直しが進行している<ref name=shimizu/>。[[社会科学]]や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって﹁国民﹂という均質的な﹁想像の共同体﹂が現出したのか、また、﹁国民﹂は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、﹁国民﹂の形成が、レイシズム︵[[人種主義]]︶や[[性差別]]、クセノフォビア︵[[外国人嫌悪]]あるいは外国人恐怖︶、[[階級]]などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている<ref name=shimizu/>。
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== 国民国家論の現在 == |
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第二次世界大戦以降、旧[[植民地]]が相次いで独立し、また、その後の[[冷戦]]の崩壊による急速なグローバル化のなかで、﹁国民国家﹂の批判的な問い直しが進行している<ref name=shimizu/>。[[社会科学]]や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって﹁国民﹂という均質的な﹁想像の共同体﹂が現出したのか、また、﹁国民﹂は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、﹁国民﹂の形成が、レイシズム︵[[人種主義]]︶や[[性差別]]、クセノフォビア︵[[外国人嫌悪]]あるいは外国人恐怖︶、[[階級]]などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている<ref name=shimizu/>。
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[[1983年]]には、[[アメリカ合衆国]]の政治学者[[ベネディクト・アンダーソン]]によって、このような国民国家論の先がけとなる『[[想像の共同体]]』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による[[小説|近代小説]]の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された<ref name=shimizu/>。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。 |
[[1983年]]には、[[アメリカ合衆国]]の政治学者[[ベネディクト・アンダーソン]]によって、このような国民国家論の先がけとなる『[[想像の共同体]]』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による[[小説|近代小説]]の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された<ref name=shimizu/>。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。 |
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[[ファイル:Ernestgellner2.jpg|150 px|right|thumb|[[パリ]]で生まれて[[プラハ]]で育った[[アーネスト・ゲルナー]](1977年)]] |
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同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系の[[アーネスト・ゲルナー]]が『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「[[産業化]]」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した<ref name=shimizu/>。 |
同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系の[[アーネスト・ゲルナー]]が『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「[[産業化]]」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した<ref name=shimizu/>。 |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author= |
* {{Cite book|和書|author=永井清彦|authorlink=永井清彦|chapter=|editor=|year=1992|month=7|title=国境をこえるドイツ|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|isbn=4-06-149107-5|ref=永井}} |
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* [[宮崎哲弥]]『身捨つるほどの祖国はありや』[[文藝春秋]]、1998年6月。ISBN 978-4-16-354110-5 |
* [[宮崎哲弥]]『身捨つるほどの祖国はありや』[[文藝春秋]]、1998年6月。ISBN 978-4-16-354110-5 |
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* {{Cite book|和書|author1=岡崎久彦|authorlink1=岡崎久彦|author2=佐藤誠三郎|authorlink2=佐藤誠三郎|chapter=|editor=|year=2000|month=6|title=日本の失敗と成功――近代160年の教訓|publisher=[[扶桑社]]|series=|isbn=4594029175|ref=岡崎・佐藤}} |
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* {{Cite book|和書|author=坂井榮八郎|authorlink=坂井榮八郎|chapter=第6章 ドイツ統一への道|editor=|year=2003|month=2|title=ドイツ史10講|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|isbn=4-00-430826-7|ref=}} |
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* {{Cite book|和書|author=坂井榮八郎|chapter=第10章 分割ドイツから統一ドイツへ|editor=|year=2003|month=2|title=ドイツ史10講|publisher=岩波書店|series=岩波新書|isbn=4-00-430826-7|ref=坂井}} |
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* [[宮台真司]]・宮崎哲弥 『ニッポン問題。M2:2』[[インフォバーン]]、2003年6月。ISBN 978-4-901873-04-8 |
* [[宮台真司]]・宮崎哲弥 『ニッポン問題。M2:2』[[インフォバーン]]、2003年6月。ISBN 978-4-901873-04-8 |
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* [[姜尚中]]・宮台真司 ﹃挑発する知――国家、思想、そして知識を考える﹄[[双風舎]]、2003年11月。ISBN 978-4-902465-00-6。
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* [[姜尚中]]・宮台真司 ﹃挑発する知――国家、思想、そして知識を考える﹄[[双風舎]]、2003年11月。ISBN 978-4-902465-00-6。
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* {{Cite book|和書|author=清水知子|authorlink=清水知子|chapter=国民国家|editor=小学館|editor-link=小学館|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn= 4099067459|ref=清水}} |
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* {{Cite book|和書|author=セバスチャン・ハフナー|authorlink=セバスチャン・ハフナー|chapter=ビスマルクのドイツ帝国建設|editor=|year=2006|month=4|title=ドイツ現代史の正しい見方|publisher=[[草思社]]|series=|isbn=4-7942-1489-8|ref=ハフナー}} |
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== 外部リンク == |
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg/300px-Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg)
概要[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/Westfaelischer_Friede_in_Muenster_%28Gerard_Terborch_1648%29.jpg/230px-Westfaelischer_Friede_in_Muenster_%28Gerard_Terborch_1648%29.jpg)
諸国民の春[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Ereignisblatt_aus_den_revolution%C3%A4ren_M%C3%A4rztagen_18.-19._M%C3%A4rz_1848_mit_einer_Barrikadenszene_aus_der_Breiten_Strasse%2C_Berlin_01.jpg/250px-Ereignisblatt_aus_den_revolution%C3%A4ren_M%C3%A4rztagen_18.-19._M%C3%A4rz_1848_mit_einer_Barrikadenszene_aus_der_Breiten_Strasse%2C_Berlin_01.jpg)
国民的アイデンティティー[編集]
国家の住民を、﹁国民﹂にまとめあげる際、重要な要素となったのが﹁民族としてのアイデンティティー﹂であった。ここでいう民族は、人類学的な民族︵エスニック集団︶と必ず一致しているわけではない。国家の一員としての帰属意識︵国民的アイデンティティ、ナショナル・アイデンティティー︶の獲得を促したのが、工業化による富や社会構造の変動、言文一致運動とそれを担った娯楽の発展、マスメディアの誕生、義務教育等々による国語の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、歴史が国民に共有されたこと、経済圏が統一されて国民経済が確立したことが、その促進要因として挙げられる[注釈 2]。国民国家は、国家のために税金から命まで差し出す国民を育成し、それまでの嫌々ながらも従う農民の構図に比べて圧倒的に動員能力のある国家を生み出した[2]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2d/Meiji_tenno1.jpg/130px-Meiji_tenno1.jpg)
問題[編集]
1861年イタリア統一[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cd/Tranquillo_Cremona_-_Vittorio_Emanuele_II.jpg/130px-Tranquillo_Cremona_-_Vittorio_Emanuele_II.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/Nesvobodni_rajoni_Italija.png/200px-Nesvobodni_rajoni_Italija.png)
1871年ドイツ統一[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/Bundesarchiv_Bild_146-1990-023-06A%2C_Otto_von_Bismarck.jpg/130px-Bundesarchiv_Bild_146-1990-023-06A%2C_Otto_von_Bismarck.jpg)
現代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/49/General_map_of_yugoslavia_%281945-1991%29_%28HR_labels%29.png/350px-General_map_of_yugoslavia_%281945-1991%29_%28HR_labels%29.png)
﹁国民国家﹂の先進国とされてきたフランスもまた、バスク地方など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにもアイルランド共和軍︵IRA暫定派︶による北アイルランドのイギリスからの分離と全アイルランドの統一を目指す運動があり、ブリテン島内部にもスコットランドの地域分離主義運動がある。
現在[編集]
第二次世界大戦以降、旧列強の植民地が相次いで独立し、また、その後の冷戦の崩壊による急速なグローバル化のなかで、﹁国民国家﹂の批判的な問い直しが進行している[1]。社会科学や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって﹁国民﹂という均質的な﹁想像の共同体﹂が現出したのか、また、﹁国民﹂は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、﹁国民﹂の形成が、レイシズム︵人種主義︶や性差別、クセノフォビア︵外国人嫌悪あるいは外国人恐怖︶、階級などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている[1]。 1983年には、アメリカ合衆国の政治学者ベネディクト・アンダーソンによって、このような国民国家論の先がけとなる﹃想像の共同体﹄が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した﹁世俗語革命﹂による近代小説の成立、そして﹁出版資本主義﹂によって書籍が流通することによって﹁国家語﹂の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、﹁公定ナショナリズム﹂の後押しによって﹁国民﹂という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された[1]。書名の﹁想像の共同体﹂とは、共同体のメンバーは﹁おそらく互いを知ることができない﹂ところに由来している。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Ernestgellner2.jpg/150px-Ernestgellner2.jpg)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
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