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{{複数の問題

{{出典の明記|date=2015年4月}}

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{{独自研究|date=2019年1月}}

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[[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|300px|right|thumb|『[[民衆を導く自由の女神]]』([[ウジェーヌ・ドラクロワ]]画)]]

[[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|300px|right|thumb|『[[民衆を導く自由の女神]]』([[ウジェーヌ・ドラクロワ]]画)]]

'''国民国家'''(こくみんこっか、{{lang-en-short|''Nation-state''}}、{{lang-fr-short|''État-nation''}}、{{lang-de-short|''Nationalstaat''}})とは、[[国家]]内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「[[国民]]」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、それを[[主権国家]]として成立する国家概念やそれを成り立たせる[[イデオロギー]]をも指している。

'''国民国家'''(こくみんこっか、{{lang-en-short|''Nation-state''}}、{{lang-fr-short|''État-nation''}}、{{lang-de-short|''Nationalstaat''}})とは、[[国家]]内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「[[国民]]」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、それを[[主権国家]]として成立する国家概念やそれを成り立たせる[[イデオロギー]]をも指している。



== 概要 ==

== 概要 ==


[[ファイル:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|230px|right|[[ウェストファリア条約]]で総称される条約のうち[[ミュンスター条約]]締結の図([[ヘラルト・テル・ボルフ]]画)]]

[[ファイル:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|230px|right|[[ウェストファリア条約]]で総称される条約のうち[[ミュンスター条約]]締結の図([[ヘラルト・テル・ボルフ]]画)]]


歴史的にみれば、[[絶対王政]]によって[[中央集権]]体制の整えられた国家が[[三十年戦争]]を通じてさらに強力化し、三十年戦争の講和条約である[[ヴェストファーレン条約]](1648年)によって、このとき[[神聖ローマ帝国]](ドイツ)の領域に多数の[[主権国家]]が生まれ、また[[オランダ]](北部ネーデルラント)は[[スペイン]]から国としての独立を果たした<ref group="注釈">ドイツをはじめとして、オーストリア、[[スイス]]、オランダ、[[ベルギー]]など、[[中央ヨーロッパ]]には現在、連邦制の国家形態を採用する国家が多いが、これは、歴史的にみれば神聖ローマ帝国の遺産といえる。[[#坂井|坂井(2003)p.227]]</ref>。こうしてそのとき生まれた[[ヨーロッパ]]の国際秩序を「[[主権国家体制]]」ないし「[[ウェストファリア体制]]」と称する。

歴史的にみれば、[[絶対王政]]によって[[中央集権]]体制の整えられた国家が[[三十年戦争]]を通じてさらに強力化し、三十年戦争の講和条約である[[ヴェストファーレン条約]](1648年)によって、このとき[[神聖ローマ帝国]](ドイツ)の領域に多数の[[主権国家]]が生まれ、また[[オランダ]](北部ネーデルラント)は[[スペイン]]から国としての独立を果たした<ref group="注釈">ドイツをはじめとして、オーストリア、[[スイス]]、オランダ、[[ベルギー]]など、[[中央ヨーロッパ]]には現在、連邦制の国家形態を採用する国家が多いが、これは、歴史的にみれば神聖ローマ帝国の遺産といえる。[[#坂井|坂井(2003)p.227]]</ref>。こうしてそのとき生まれた[[ヨーロッパ]]の国際秩序を「[[主権国家体制]]」ないし「[[ウェストファリア体制]]」と称する。



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[[ファイル:Ereignisblatt aus den revolutionären Märztagen 18.-19. März 1848 mit einer Barrikadenszene aus der Breiten Strasse, Berlin 01.jpg|250px|right|thumb|[[1848年]]のベルリン三月革命]]

[[ファイル:Ereignisblatt aus den revolutionären Märztagen 18.-19. März 1848 mit einer Barrikadenszene aus der Breiten Strasse, Berlin 01.jpg|250px|right|thumb|[[1848年]]のベルリン三月革命]]

{{main|1848年革命}}

{{main|1848年革命}}

ヨーロッパにおいては、[[1848年革命]](「諸国民の春」)ののち、つぎつぎと「国民国家」が成立した。[[ドイツ帝国]]と[[イタリア王国]]は統一運動によって、[[バルカン半島]]では[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]、[[モンテネグロ公国]]、[[ルーマニア王国]]、[[ブルガリア公国]]などは[[オスマン帝国]]からの独立によって、それぞれ生まれた国民国家であった。近代の国家システムのなかで、国民は主権者としてのさまざまな[[権利]]を有すると同時に、[[納税]]、[[兵役]]、[[教育]]の[[義務]]を担うこととなった。国民国家形成はしばしば、当該民族にとって「悲願のできごと」として表現されることが多い。しかし、実際には、国家領域のなかには多様な人びと、複数の集団が存在していることが多いため、さまざまな問題をはらんでおり、歴史的に重大な事件を引き起こす要因ともなってきた(後述''「[[#国民国家のはらむ問題|国民国家のはらむ問題]]」''節参照)。

ヨーロッパにおいては、[[1848年革命]](「諸国民の春」)ののち、つぎつぎと「国民国家」が成立した。[[ドイツ帝国]]と[[イタリア王国]]は統一運動によって、[[バルカン半島]]では[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]、[[モンテネグロ公国]]、[[ルーマニア王国]]、[[ブルガリア公国]]などは[[オスマン帝国]]からの独立によって、それぞれ生まれた国民国家であった。近代の国家システムのなかで、国民は主権者としてのさまざまな[[権利]]を有すると同時に、[[納税]]、[[兵役]]、[[教育]]の[[義務]]を担うこととなった。国民国家形成はしばしば、当該民族にとって「悲願のできごと」として表現されることが多い。しかし、実際には、国家領域のなかには多様な人びと、複数の集団が存在していることが多いため、さまざまな問題をはらんでおり、歴史的に重大な事件を引き起こす要因ともなってきた(後述''「[[#問題|国民国家のはらむ問題]]」''節参照)。



== 国民的アイデンティティ ==

== 国民的アイデンティティ ==


[[]][[]][[]][[]][[ ()#|]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref group="">[[]][[1834]][[]][[]][[]][[]][[]][[西]][[#|2000]]</ref><ref>[[]][https://tanakanews.com/080814hegemon.htm ]</ref>

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[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|130px|left|thumb|[[明治天皇]]]]

[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|130px|left|thumb|[[明治天皇]]]]

日本では、[[明治維新]]によって、日本列島に[[大日本帝国]]という[[国民]]国家が成立した。それまで[[幕藩体制]]下では民衆はまず直接の統治者である[[藩]]を国(クニ)として意識していた。それまでは[[幕府 (日本)|幕府]]による統一はあっても中央集権は緩やかであり、藩をまたぐ民衆の移動が制限されていたので言葉や[[文化]]、政治の違いも大きく、民衆は「日本国民」という意識が稀薄であった。そうした状況を改め、西欧諸国に対抗するべく[[明治政府]]は[[一君万民論|一君万民]]を唱え中央集権化を進めることで地方較差を薄め、「日本国民」としての意識を広めていく必要があった。しかし、西欧的な「国民」という概念は当時の日本人にとって抽象的であり、民衆に浸透させることが困難であると危惧した明治政府は、当時の民衆にもわかりやすいように、万民が等しく天皇陛下の臣(臣民)であるというように広めた。

日本では、[[明治維新]]によって、日本列島に[[大日本帝国]]という[[国民]]国家が成立した。それまで[[幕藩体制]]下では民衆はまず直接の統治者である[[藩]]を国(クニ)として意識していた。それまでは[[幕府]]による統一はあっても中央集権は緩やかであり、藩をまたぐ民衆の移動が制限されていたので言葉や[[文化]]、政治の違いも大きく、民衆は「日本国民」という意識が稀薄であった。そうした状況を改め、西欧諸国に対抗するべく[[明治政府]]は[[一君万民論|一君万民]]を唱え中央集権化を進めることで地方較差を薄め、「日本国民」としての意識を広めていく必要があった。しかし、西欧的な「国民」という概念は当時の日本人にとって抽象的であり、民衆に浸透させることが困難であると危惧した明治政府は、当時の民衆にもわかりやすいように、万民が等しく天皇陛下の臣(臣民)であるというように広めた。



[[宮台真司]]は、「[[幕藩体制]]下では『クニ』とは藩のことで、[[庶民]]レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『[[天皇]]』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている<ref>宮台・宮崎(2003)</ref>。また、[[宮崎哲弥]]は「[[マスメディア]]は国民国家の要であり、特に[[テレビ]]は、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している<ref>宮崎(1998)</ref>。

[[宮台真司]]は、「[[幕藩体制]]下では『クニ』とは藩のことで、[[庶民]]レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『[[天皇]]』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている<ref>宮台・宮崎(2003)</ref>。また、[[宮崎哲弥]]は「[[マスメディア]]は国民国家の要であり、特に[[テレビ]]は、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している<ref>宮崎(1998)</ref>。

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[[19世紀]]後半の[[ドイツ統一]]は、一般的には、[[プロイセン王国]]の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって進められ、[[1871年]]のプロイセンを中心とする[[ドイツ帝国]]([[ドイツ国]])という国民国家の成立で達成されたと理解される。しかし、実際のドイツ帝国は、領域内の全住民をひとつのまとまった構成員として統合する国家という上述の定義からは程遠いものであった<ref name="sakai">坂井(2003)</ref>。

[[19世紀]]後半の[[ドイツ統一]]は、一般的には、[[プロイセン王国]]の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって進められ、[[1871年]]のプロイセンを中心とする[[ドイツ帝国]]([[ドイツ国]])という国民国家の成立で達成されたと理解される。しかし、実際のドイツ帝国は、領域内の全住民をひとつのまとまった構成員として統合する国家という上述の定義からは程遠いものであった<ref name="sakai">坂井(2003)</ref>。



[[ファイル:The development of the German linguistic area.gif|thumb|300px|血縁的・言語的「ドイツ人」の居住地域の変遷(700年から19世紀まで)]]

ドイツ統一へ向けた議論は、[[1848年]]の[[フランクフルト国民議会]]で本格化した。この時期のドイツは、[[オーストリア帝国]]とプロイセン王国の二大邦国をはじめ39の独立[[領邦]]が[[ドイツ連邦]]という[[国家連合]]を構成し、各自の[[国家主権]]を保持したまま相互の[[安全保障]]を図っていた。議会では「ドイツ人とは何か」「どこまでをドイツとするか」という問題をめぐって紛糾した。前者においては、

ドイツ統一へ向けた議論は、[[1848年]]の[[フランクフルト国民議会]]で本格化した。この時期のドイツは、[[オーストリア帝国]]とプロイセン王国の二大邦国をはじめ39の独立[[領邦]]が[[ドイツ連邦]]という[[国家連合]]を構成し、各自の[[国家主権]]を保持したまま相互の[[安全保障]]を図っていた。議会では「ドイツ人とは何か」「どこまでをドイツとするか」という問題をめぐって紛糾した。前者においては、

#[[地縁]](ドイツに住む人)

#[[地縁]](ドイツに住む人)

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「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、{{要出典範囲|date=2020年1月|共和制原理である[[政教分離]]を認めようとしないムスリム移民}}の問題や[[バスク地方]]など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにも[[アイルランド共和軍]]([[IRA暫定派]])による[[北アイルランド]]のイギリスからの分離と全[[アイルランド]]の統一を目指す運動があり、[[ブリテン島]]内部にも[[スコットランド]]の地域分離主義運動がある。

「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、[[バスク地方]]など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにも[[アイルランド共和軍]]([[IRA暫定派]])による[[北アイルランド]]のイギリスからの分離と全[[アイルランド]]の統一を目指す運動があり、[[ブリテン島]]内部にも[[スコットランド]]の地域分離主義運動がある。



== 現在 ==

== 現在 ==


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[[1983年]]には、[[アメリカ合衆国]]の政治学者[[ベネディクト・アンダーソン]]によって、このような国民国家論の先がけとなる『[[想像の共同体]]』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による[[小説|近代小説]]の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された<ref name=shimizu/>。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。

[[1983年]]には、[[アメリカ合衆国]]の政治学者[[ベネディクト・アンダーソン]]によって、このような国民国家論の先がけとなる『[[想像の共同体]]』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による[[小説|近代小説]]の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された<ref name=shimizu/>。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。



[[ファイル:Ernestgellner2.jpg|150px|right|thumb|[[パリ]]で生まれて[[プラハ]]で育った[[アーネスト・ゲルナー]](1977年)]]

[[ファイル:Ernestgellner2.jpg|150 px|right|thumb|[[パリ]]で生まれて[[プラハ]]で育った[[アーネスト・ゲルナー]](1977年)]]

同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系の[[アーネスト・ゲルナー]]が『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「[[産業化]]」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した<ref name=shimizu/>。

同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系の[[アーネスト・ゲルナー]]が『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「[[産業化]]」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した<ref name=shimizu/>。



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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==


2024年5月29日 (水) 13:22時点における最新版

民衆を導く自由の女神』(ウジェーヌ・ドラクロワ画)

: Nation-state: État-nation: Nationalstaat

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1648[ 1]

1718[1]1819[1]

使[1]

諸国民の春[編集]

1848年のベルリン三月革命

1848

[]


[ 2][2]

西西

[3][4]

問題[編集]

1861年イタリア統一[編集]

統一されたイタリアの初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

18617

1915192030

1871年ドイツ統一[編集]


191871[5]

184839

(一)

(二)

(三)

[5]

3[5]41849[5]

18661870-1871[5][6][ 3]2[6]1,000 

[ 4][ 5]




[1]20[1]

現代[編集]


 (ASEAN)  (EU)  (UNASUR) 

[ 6]
194519901

7654321[ 7]

19916199234199578,00019961999


IRA

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[1][1]

1983[1]
1977

1983[1]

1983[1]

1988

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 2003p.227

(二)^ 1834西2000

(三)^ 2006p.65

(四)^ 2

(五)^ 1938

(六)^ 1992p.27

(七)^ 7654321

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 清水(2004)
  2. ^ 田中宇覇権の起源
  3. ^ 宮台・宮崎(2003)
  4. ^ 宮崎(1998)
  5. ^ a b c d e 坂井(2003)
  6. ^ a b ハフナー(2006)

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︿19927ISBN 4-06-149107-5 

19986ISBN 978-4-16-354110-5

16020006ISBN 4594029175 

6 10︿20032ISBN 4-00-430826-7 

10 10︿20032ISBN 4-00-430826-7 

 M2220036ISBN 978-4-901873-04-8

 200311ISBN 978-4-902465-00-6

︿Professional Win20042ISBN 4099067459 

20064ISBN 4-7942-1489-8 

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