「国民国家」の版間の差分
リンク調整 |
不正確な地図を削除しました。この地図は、現在ナチスへの同情を理由に禁止されているユーザーによって作成されました。 |
||
(8人の利用者による、間の11版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{複数の問題 |
|||
|
|出典の明記=2015年4月 |
||
|
|独自研究=2019年1月}} |
||
[[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|300px|right|thumb|『[[民衆を導く自由の女神]]』([[ウジェーヌ・ドラクロワ]]画)]] |
[[ファイル:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg|300px|right|thumb|『[[民衆を導く自由の女神]]』([[ウジェーヌ・ドラクロワ]]画)]] |
||
'''国民国家'''(こくみんこっか、{{lang-en-short|''Nation-state''}}、{{lang-fr-short|''État-nation''}}、{{lang-de-short|''Nationalstaat''}})とは、[[国家]]内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「[[国民]]」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、それを[[主権国家]]として成立する国家概念やそれを成り立たせる[[イデオロギー]]をも指している。 |
'''国民国家'''(こくみんこっか、{{lang-en-short|''Nation-state''}}、{{lang-fr-short|''État-nation''}}、{{lang-de-short|''Nationalstaat''}})とは、[[国家]]内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「[[国民]]」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、それを[[主権国家]]として成立する国家概念やそれを成り立たせる[[イデオロギー]]をも指している。 |
||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
[[ファイル:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|230px|right|[[ウェストファリア条約]]で総称される条約のうち[[ミュンスター条約]]締結の図([[ヘラルト・テル・ボルフ]]画)]] |
[[ファイル:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|230px|right|[[ウェストファリア条約]]で総称される条約のうち[[ミュンスター条約]]締結の図([[ヘラルト・テル・ボルフ]]画)]] |
||
歴史的にみれば、[[絶対王政]]によって[[中央集権]]体制の整えられた国家が[[三十年戦争]]を通じてさらに強力化し、三十年戦争の講和条約である[[ヴェストファーレン条約]](1648年)によって、このとき[[神聖ローマ帝国]](ドイツ)の領域に多数の[[主権国家]]が生まれ、また[[オランダ]](北部ネーデルラント)は[[スペイン]]から国としての独立を果たした<ref group="注釈">ドイツをはじめとして、オーストリア、[[スイス]]、オランダ、[[ベルギー]]など、[[中央ヨーロッパ]]には現在、連邦制の国家形態を採用する国家が多いが、これは、歴史的にみれば神聖ローマ帝国の遺産といえる。[[#坂井|坂井(2003)p.227]]</ref>。こうしてそのとき生まれた[[ヨーロッパ]]の国際秩序を「[[主権国家体制]]」ないし「[[ウェストファリア体制]]」と称する。 |
歴史的にみれば、[[絶対王政]]によって[[中央集権]]体制の整えられた国家が[[三十年戦争]]を通じてさらに強力化し、三十年戦争の講和条約である[[ヴェストファーレン条約]](1648年)によって、このとき[[神聖ローマ帝国]](ドイツ)の領域に多数の[[主権国家]]が生まれ、また[[オランダ]](北部ネーデルラント)は[[スペイン]]から国としての独立を果たした<ref group="注釈">ドイツをはじめとして、オーストリア、[[スイス]]、オランダ、[[ベルギー]]など、[[中央ヨーロッパ]]には現在、連邦制の国家形態を採用する国家が多いが、これは、歴史的にみれば神聖ローマ帝国の遺産といえる。[[#坂井|坂井(2003)p.227]]</ref>。こうしてそのとき生まれた[[ヨーロッパ]]の国際秩序を「[[主権国家体制]]」ないし「[[ウェストファリア体制]]」と称する。 |
||
18行目: | 16行目: | ||
[[ファイル:Ereignisblatt aus den revolutionären Märztagen 18.-19. März 1848 mit einer Barrikadenszene aus der Breiten Strasse, Berlin 01.jpg|250px|right|thumb|[[1848年]]のベルリン三月革命]] |
[[ファイル:Ereignisblatt aus den revolutionären Märztagen 18.-19. März 1848 mit einer Barrikadenszene aus der Breiten Strasse, Berlin 01.jpg|250px|right|thumb|[[1848年]]のベルリン三月革命]] |
||
{{main|1848年革命}} |
{{main|1848年革命}} |
||
ヨーロッパにおいては、[[1848年革命]](「諸国民の春」)ののち、つぎつぎと「国民国家」が成立した。[[ドイツ帝国]]と[[イタリア王国]]は統一運動によって、[[バルカン半島]]では[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]、[[モンテネグロ公国]]、[[ルーマニア王国]]、[[ブルガリア公国]]などは[[オスマン帝国]]からの独立によって、それぞれ生まれた国民国家であった。近代の国家システムのなかで、国民は主権者としてのさまざまな[[権利]]を有すると同時に、[[納税]]、[[兵役]]、[[教育]]の[[義務]]を担うこととなった。国民国家形成はしばしば、当該民族にとって「悲願のできごと」として表現されることが多い。しかし、実際には、国家領域のなかには多様な人びと、複数の集団が存在していることが多いため、さまざまな問題をはらんでおり、歴史的に重大な事件を引き起こす要因ともなってきた(後述''「[[# |
ヨーロッパにおいては、[[1848年革命]](「諸国民の春」)ののち、つぎつぎと「国民国家」が成立した。[[ドイツ帝国]]と[[イタリア王国]]は統一運動によって、[[バルカン半島]]では[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]、[[モンテネグロ公国]]、[[ルーマニア王国]]、[[ブルガリア公国]]などは[[オスマン帝国]]からの独立によって、それぞれ生まれた国民国家であった。近代の国家システムのなかで、国民は主権者としてのさまざまな[[権利]]を有すると同時に、[[納税]]、[[兵役]]、[[教育]]の[[義務]]を担うこととなった。国民国家形成はしばしば、当該民族にとって「悲願のできごと」として表現されることが多い。しかし、実際には、国家領域のなかには多様な人びと、複数の集団が存在していることが多いため、さまざまな問題をはらんでおり、歴史的に重大な事件を引き起こす要因ともなってきた(後述''「[[#問題|国民国家のはらむ問題]]」''節参照)。 |
||
== 国民的アイデンティティ == |
== 国民的アイデンティティー == |
||
国家の住民を、﹁国民﹂にまとめあげる際、重要な要素となったのが﹁[[民族]]としての[[アイデンティティ]]﹂であった。国家の一員としての帰属意識︵国民的アイデンティティ︶の獲得を促したのが、[[工業化]]による富や社会構造の変動、[[言文一致運動]]とそれを担った娯楽の発展、[[メディア (媒体)#マスメディア|マスメディア]]の誕生、[[義務教育]]等々による[[国語]]の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、[[歴史]]が国民に共有されたこと、[[経済圏]]が統一されて[[国民経済]]が確立したことが、その促進要因として挙げられる<ref group="注釈">ドイツの国民[[経済]]確立においては、[[1834年]]に発足した[[ドイツ関税同盟]]の果たした役割が大きい。また、[[マシュー・ペリー]]来航後の[[幕末]]期の日本で[[攘夷運動]]が起こり、それが倒幕運動へ転換していったことは、江戸時代の日本では[[東廻海運]]や[[西廻海運]]など国内航路の整備によって、遠隔地商業がさかんとなり、各地域がたがいに経済的に深くむすびついて国民経済の様相を示していたからであるという指摘がある。[[#岡崎・佐藤|岡崎・佐藤︵2000︶]]</ref>。国民国家は、国家のために税金から命まで差し出す国民を育成し、それまでの嫌々ながらも従う農民の構図に比べて圧倒的に動員能力のある国家を生み出した<ref>[[田中宇]]﹁[https://tanakanews.com/080814hegemon.htm 覇権の起源]﹂</ref>。
|
国家の住民を、﹁国民﹂にまとめあげる際、重要な要素となったのが﹁[[民族]]としての[[自己同一性|アイデンティティー]]﹂であった。ここでいう民族は、[[民族#エスニック・グループの定義|人類学的な民族]]︵エスニック集団︶と必ず一致しているわけではない。国家の一員としての帰属意識︵国民的アイデンティティ、ナショナル・アイデンティティー︶の獲得を促したのが、[[工業化]]による富や社会構造の変動、[[言文一致運動]]とそれを担った娯楽の発展、[[メディア (媒体)#マスメディア|マスメディア]]の誕生、[[義務教育]]等々による[[国語]]の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、[[歴史]]が国民に共有されたこと、[[経済圏]]が統一されて[[国民経済]]が確立したことが、その促進要因として挙げられる<ref group="注釈">ドイツの国民[[経済]]確立においては、[[1834年]]に発足した[[ドイツ関税同盟]]の果たした役割が大きい。また、[[マシュー・ペリー]]来航後の[[幕末]]期の日本で[[攘夷運動]]が起こり、それが倒幕運動へ転換していったことは、江戸時代の日本では[[東廻海運]]や[[西廻海運]]など国内航路の整備によって、遠隔地商業がさかんとなり、各地域がたがいに経済的に深くむすびついて国民経済の様相を示していたからであるという指摘がある。[[#岡崎・佐藤|岡崎・佐藤︵2000︶]]</ref>。国民国家は、国家のために税金から命まで差し出す国民を育成し、それまでの嫌々ながらも従う農民の構図に比べて圧倒的に動員能力のある国家を生み出した<ref>[[田中宇]]﹁[https://tanakanews.com/080814hegemon.htm 覇権の起源]﹂</ref>。
|
||
[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|130px|left|thumb|[[明治天皇]]]] |
[[ファイル:Meiji tenno1.jpg|130px|left|thumb|[[明治天皇]]]] |
||
日本では、[[明治維新]]によって、日本列島に[[大日本帝国]]という[[国民]]国家が成立した。それまで[[幕藩体制]]下では民衆はまず直接の統治者である[[藩]]を国(クニ)として意識していた。それまでは[[ |
日本では、[[明治維新]]によって、日本列島に[[大日本帝国]]という[[国民]]国家が成立した。それまで[[幕藩体制]]下では民衆はまず直接の統治者である[[藩]]を国(クニ)として意識していた。それまでは[[幕府]]による統一はあっても中央集権は緩やかであり、藩をまたぐ民衆の移動が制限されていたので言葉や[[文化]]、政治の違いも大きく、民衆は「日本国民」という意識が稀薄であった。そうした状況を改め、西欧諸国に対抗するべく[[明治政府]]は[[一君万民論|一君万民]]を唱え中央集権化を進めることで地方較差を薄め、「日本国民」としての意識を広めていく必要があった。しかし、西欧的な「国民」という概念は当時の日本人にとって抽象的であり、民衆に浸透させることが困難であると危惧した明治政府は、当時の民衆にもわかりやすいように、万民が等しく天皇陛下の臣(臣民)であるというように広めた。 |
||
[[宮台真司]]は、「[[幕藩体制]]下では『クニ』とは藩のことで、[[庶民]]レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『[[天皇]]』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている<ref>宮台・宮崎(2003)</ref>。また、[[宮崎哲弥]]は「[[マスメディア]]は国民国家の要であり、特に[[テレビ]]は、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している<ref>宮崎(1998)</ref>。 |
[[宮台真司]]は、「[[幕藩体制]]下では『クニ』とは藩のことで、[[庶民]]レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『[[天皇]]』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている<ref>宮台・宮崎(2003)</ref>。また、[[宮崎哲弥]]は「[[マスメディア]]は国民国家の要であり、特に[[テレビ]]は、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している<ref>宮崎(1998)</ref>。 |
||
41行目: | 39行目: | ||
[[19世紀]]後半の[[ドイツ統一]]は、一般的には、[[プロイセン王国]]の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって進められ、[[1871年]]のプロイセンを中心とする[[ドイツ帝国]]([[ドイツ国]])という国民国家の成立で達成されたと理解される。しかし、実際のドイツ帝国は、領域内の全住民をひとつのまとまった構成員として統合する国家という上述の定義からは程遠いものであった<ref name="sakai">坂井(2003)</ref>。 |
[[19世紀]]後半の[[ドイツ統一]]は、一般的には、[[プロイセン王国]]の宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって進められ、[[1871年]]のプロイセンを中心とする[[ドイツ帝国]]([[ドイツ国]])という国民国家の成立で達成されたと理解される。しかし、実際のドイツ帝国は、領域内の全住民をひとつのまとまった構成員として統合する国家という上述の定義からは程遠いものであった<ref name="sakai">坂井(2003)</ref>。 |
||
[[ファイル:The development of the German linguistic area.gif|thumb|300px|血縁的・言語的「ドイツ人」の居住地域の変遷(700年から19世紀まで)]] |
|||
ドイツ統一へ向けた議論は、[[1848年]]の[[フランクフルト国民議会]]で本格化した。この時期のドイツは、[[オーストリア帝国]]とプロイセン王国の二大邦国をはじめ39の独立[[領邦]]が[[ドイツ連邦]]という[[国家連合]]を構成し、各自の[[国家主権]]を保持したまま相互の[[安全保障]]を図っていた。議会では「ドイツ人とは何か」「どこまでをドイツとするか」という問題をめぐって紛糾した。前者においては、 |
ドイツ統一へ向けた議論は、[[1848年]]の[[フランクフルト国民議会]]で本格化した。この時期のドイツは、[[オーストリア帝国]]とプロイセン王国の二大邦国をはじめ39の独立[[領邦]]が[[ドイツ連邦]]という[[国家連合]]を構成し、各自の[[国家主権]]を保持したまま相互の[[安全保障]]を図っていた。議会では「ドイツ人とは何か」「どこまでをドイツとするか」という問題をめぐって紛糾した。前者においては、 |
||
#[[地縁]](ドイツに住む人) |
#[[地縁]](ドイツに住む人) |
||
71行目: | 68行目: | ||
「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、 |
「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、[[バスク地方]]など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにも[[アイルランド共和軍]]([[IRA暫定派]])による[[北アイルランド]]のイギリスからの分離と全[[アイルランド]]の統一を目指す運動があり、[[ブリテン島]]内部にも[[スコットランド]]の地域分離主義運動がある。 |
||
== 現在 == |
== 現在 == |
||
第二次世界大戦以降、旧[[植民地]]が相次いで独立し、また、その後の[[冷戦]]の崩壊による急速なグローバル化のなかで、﹁国民国家﹂の批判的な問い直しが進行している<ref name=shimizu/>。[[社会科学]]や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって﹁国民﹂という均質的な﹁想像の共同体﹂が現出したのか、また、﹁国民﹂は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、﹁国民﹂の形成が、レイシズム︵[[人種主義]]︶や[[性差別]]、クセノフォビア︵[[外国人嫌悪]]あるいは外国人恐怖︶、[[階級]]などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている<ref name=shimizu/>。
|
第二次世界大戦以降、旧[[列強]]の[[植民地]]が相次いで独立し、また、その後の[[冷戦]]の崩壊による急速な[[グローバリゼーション|グローバル化]]のなかで、﹁国民国家﹂の批判的な問い直しが進行している<ref name=shimizu/>。[[社会科学]]や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって﹁国民﹂という均質的な﹁想像の共同体﹂が現出したのか、また、﹁国民﹂は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、﹁国民﹂の形成が、レイシズム︵[[人種主義]]︶や[[性差別]]、クセノフォビア︵[[外国人嫌悪]]あるいは外国人恐怖︶、[[階級]]などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている<ref name=shimizu/>。
|
||
[[1983年]]には、[[アメリカ合衆国]]の政治学者[[ベネディクト・アンダーソン]]によって、このような国民国家論の先がけとなる『[[想像の共同体]]』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による[[小説|近代小説]]の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された<ref name=shimizu/>。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。 |
[[1983年]]には、[[アメリカ合衆国]]の政治学者[[ベネディクト・アンダーソン]]によって、このような国民国家論の先がけとなる『[[想像の共同体]]』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による[[小説|近代小説]]の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された<ref name=shimizu/>。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。 |
||
[[ファイル:Ernestgellner2.jpg| |
[[ファイル:Ernestgellner2.jpg|150 px|right|thumb|[[パリ]]で生まれて[[プラハ]]で育った[[アーネスト・ゲルナー]](1977年)]] |
||
同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系の[[アーネスト・ゲルナー]]が『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「[[産業化]]」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した<ref name=shimizu/>。 |
同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系の[[アーネスト・ゲルナー]]が『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「[[産業化]]」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した<ref name=shimizu/>。 |
||
92行目: | 89行目: | ||
{{ページ番号|date=2022年5月|section=1}} |
{{ページ番号|date=2022年5月|section=1}} |
||
{{Reflist|2}} |
{{Reflist|2}} |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2024年5月29日 (水) 13:22時点における最新版
![]() |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg/300px-Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg)
概要[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/Westfaelischer_Friede_in_Muenster_%28Gerard_Terborch_1648%29.jpg/230px-Westfaelischer_Friede_in_Muenster_%28Gerard_Terborch_1648%29.jpg)
諸国民の春[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Ereignisblatt_aus_den_revolution%C3%A4ren_M%C3%A4rztagen_18.-19._M%C3%A4rz_1848_mit_einer_Barrikadenszene_aus_der_Breiten_Strasse%2C_Berlin_01.jpg/250px-Ereignisblatt_aus_den_revolution%C3%A4ren_M%C3%A4rztagen_18.-19._M%C3%A4rz_1848_mit_einer_Barrikadenszene_aus_der_Breiten_Strasse%2C_Berlin_01.jpg)
国民的アイデンティティー[編集]
国家の住民を、﹁国民﹂にまとめあげる際、重要な要素となったのが﹁民族としてのアイデンティティー﹂であった。ここでいう民族は、人類学的な民族︵エスニック集団︶と必ず一致しているわけではない。国家の一員としての帰属意識︵国民的アイデンティティ、ナショナル・アイデンティティー︶の獲得を促したのが、工業化による富や社会構造の変動、言文一致運動とそれを担った娯楽の発展、マスメディアの誕生、義務教育等々による国語の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、歴史が国民に共有されたこと、経済圏が統一されて国民経済が確立したことが、その促進要因として挙げられる[注釈 2]。国民国家は、国家のために税金から命まで差し出す国民を育成し、それまでの嫌々ながらも従う農民の構図に比べて圧倒的に動員能力のある国家を生み出した[2]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2d/Meiji_tenno1.jpg/130px-Meiji_tenno1.jpg)
問題[編集]
1861年イタリア統一[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cd/Tranquillo_Cremona_-_Vittorio_Emanuele_II.jpg/130px-Tranquillo_Cremona_-_Vittorio_Emanuele_II.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/Nesvobodni_rajoni_Italija.png/200px-Nesvobodni_rajoni_Italija.png)
1871年ドイツ統一[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/Bundesarchiv_Bild_146-1990-023-06A%2C_Otto_von_Bismarck.jpg/130px-Bundesarchiv_Bild_146-1990-023-06A%2C_Otto_von_Bismarck.jpg)
現代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/49/General_map_of_yugoslavia_%281945-1991%29_%28HR_labels%29.png/350px-General_map_of_yugoslavia_%281945-1991%29_%28HR_labels%29.png)
﹁国民国家﹂の先進国とされてきたフランスもまた、バスク地方など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにもアイルランド共和軍︵IRA暫定派︶による北アイルランドのイギリスからの分離と全アイルランドの統一を目指す運動があり、ブリテン島内部にもスコットランドの地域分離主義運動がある。
現在[編集]
第二次世界大戦以降、旧列強の植民地が相次いで独立し、また、その後の冷戦の崩壊による急速なグローバル化のなかで、﹁国民国家﹂の批判的な問い直しが進行している[1]。社会科学や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって﹁国民﹂という均質的な﹁想像の共同体﹂が現出したのか、また、﹁国民﹂は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、﹁国民﹂の形成が、レイシズム︵人種主義︶や性差別、クセノフォビア︵外国人嫌悪あるいは外国人恐怖︶、階級などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている[1]。 1983年には、アメリカ合衆国の政治学者ベネディクト・アンダーソンによって、このような国民国家論の先がけとなる﹃想像の共同体﹄が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した﹁世俗語革命﹂による近代小説の成立、そして﹁出版資本主義﹂によって書籍が流通することによって﹁国家語﹂の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、﹁公定ナショナリズム﹂の後押しによって﹁国民﹂という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された[1]。書名の﹁想像の共同体﹂とは、共同体のメンバーは﹁おそらく互いを知ることができない﹂ところに由来している。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Ernestgellner2.jpg/150px-Ernestgellner2.jpg)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
![]() | この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |