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「牛島辰熊」の版間の差分

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[[1929年]]に開かれた第1回[[昭和天覧試合|天覧試合]]では[[リーグ戦|予選リーグ]]を得意の[[寝技]]でオール[[一本|一本勝ち]]、決勝を[[大日本武徳会武道専門学校 (旧制)|武道専門学校]][[教授]]の[[栗原民雄]](後の十段)と争い、25分の激闘の末、惜しくも[[判定]]で敗れる<ref>『昭和天覧試合』[[講談社]]</ref>。

[[1929年]]に開かれた第1回[[昭和天覧試合|天覧試合]]では[[リーグ戦|予選リーグ]]を得意の[[寝技]]でオール[[一本|一本勝ち]]、決勝を[[大日本武徳会武道専門学校 (旧制)|武道専門学校]][[教授]]の[[栗原民雄]](後の十段)と争い、25分の激闘の末、惜しくも[[判定]]で敗れる<ref>『昭和天覧試合』[[講談社]]</ref>。




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そしてこの年の夏から東京での更なる猛稽古が始まった。あちこちに出稽古に回り、1日最低でも40本の[[乱取り]]をこなした。稽古後は消耗して階段も昇れず、食事は[[粥]]しか喉を通らない。朝起きると手の指が固く縮こまって開かず、湯につけて暖めながら少しずつ伸ばすほどの凄まじい稽古量をこなしたという<ref name="kimura"/>。

そしてこの年の夏から東京での更なる猛稽古が始まった。あちこちに出稽古に回り、1日最低でも40本の[[乱取り]]をこなした。稽古後は消耗して階段も昇れず、食事は[[粥]]しか喉を通らない。朝起きると手の指が固く縮こまって開かず、湯につけて暖めながら少しずつ伸ばすほどの凄まじい稽古量をこなしたという<ref name="kimura"/>。

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これらの激しい稽古でさらに実力を伸ばし、[[日本柔道選士権大会|全日本選士権]]ができてからも第1回大会([[1930年]])こそ東京府予選の決勝で[[曽根幸蔵]]の[[大外刈]]に苦杯を嘗めたものの、本大会出場を果たした第2回([[1931年]])・第3回([[1932年]])大会では連覇を達成。先の明治神宮大会と合わせ、現在で言えば全日本選手権を5度制した事になる、この時代を代表する最強の柔道家だった。

これらの激しい稽古でさらに実力を伸ばし、[[日本柔道選士権大会|全日本選士権]]ができてからも第1回大会([[1930年]])こそ東京府予選の決勝で[[曽根幸蔵]]の[[大外刈]]に苦杯を嘗めたものの、本大会出場を果たした第2回([[1931年]])・第3回([[1932年]])大会では連覇を達成。先の明治神宮大会と合わせ、現在で言えば全日本選手権を5度制した事になる、この時代を代表する最強の柔道家だった。




[[1934]][[|]][[#殿|2]][[]][[]][[]]退[[]]

[[1934]][[|]][[#殿|2]][[]][[]]退[[]]


「負けは死と同義」と公言していた牛島は即引退し、その後は私塾「牛島塾」を開いて[[木村政彦]]、[[船山辰幸]][[甲斐利之]]らを育てる名[[伯楽]]となった。


退[[]][[]][[]]


== 人物 ==

== 人物 ==

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後に空手家の[[大山倍達]]が牛島を慕うようになる<ref group="注釈">木村政彦の師である牛島は、思想家としての顔があり、大山は牛島の極右思想に惹かれていた。</ref>。

後に空手家の[[大山倍達]]が牛島を慕うようになる<ref group="注釈">木村政彦の師である牛島は、思想家としての顔があり、大山は牛島の極右思想に惹かれていた。</ref>。

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晩年もその力は衰える事はなく、50歳を越えた牛島が寝業の出稽古で[[明治大学]]に赴いた際も、同大学のエース的存在であった[[神永昭夫]]を子供扱いしたといわれる<ref name="近代柔道">『続・柔道一代』[[近代柔道]]2006年2月号、[[今村春夫]]([[ベースボール・マガジン社]])</ref>。

晩年もその力は衰える事はなく、50歳を越えた牛島が寝業の出稽古で[[明治大学]]に赴いた際も、同大学のエース的存在であった[[神永昭夫]]を子供扱いしたといわれる<ref name="近代柔道">『続・柔道一代』[[近代柔道]]2006年2月号、今村春夫([[ベースボール・マガジン社]])</ref>。



亡くなる前年の[[1984年]]に講道館100周年を記念して九段に昇段したが、[[講道館#柔道殿堂|柔道殿堂]]においても十分な実績を残していることからすれば、実質的な最高段位である十段に昇っても不思議はなかったという声もある<ref group="注釈">牛島と同年代で、福岡・熊本県対抗団体戦では同じ熊本県代表メンバーとして活躍した[[小谷澄之]]は、晩年に十段に列せられている。</ref>。

亡くなる前年の[[1984年]]に講道館100周年を記念して九段に昇段したが、[[講道館#柔道殿堂|柔道殿堂]]においても十分な実績を残していることからすれば、実質的な最高段位である十段に昇っても不思議はなかったという声もある<ref group="注釈">牛島と同年代で、福岡・熊本県対抗団体戦では同じ熊本県代表メンバーとして活躍した[[小谷澄之]]は、晩年に十段に列せられている。</ref>。


2024年2月17日 (土) 07:55時点における最新版

牛島辰熊
牛島辰熊
基本情報
ラテン文字 Tatsukuma Ushijima
愛称 鬼の牛島
日本の旗 日本
出生地 熊本県熊本市
生年月日 (1904-03-10) 1904年3月10日
没年月日 (1985-05-26) 1985年5月26日(81歳没)
選手情報
階級 男子
段位 九段
引退 1934年

2013年12月19日現在
テンプレートを表示

  190437310 - 198560526

3

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21931

15[1]

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19253

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1929125[3]



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60kg



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西

[ 1]

1940310

[2][5]

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1945352

[ 2]

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[6]GHQ1950

50[7]

1984100殿[ 3]

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 8589

(二)^ 

(三)^ 

出典[編集]



(一)^ ab 4  - -西200010

(二)^ abc

(三)^ 

(四)^ TV

(五)^ 2000

(六)^  簿1949705NDLJP:1276156 

(七)^ 20062

[]


殿 





200090