牛島辰熊
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![]() 牛島辰熊 | ||||
基本情報 | ||||
ラテン文字 | Tatsukuma Ushijima | |||
愛称 | 鬼の牛島 | |||
国 |
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出生地 | 熊本県熊本市 | |||
生年月日 | 1904年3月10日 | |||
没年月日 | 1985年5月26日(81歳没) | |||
選手情報 | ||||
階級 | 男子 | |||
段位 | 九段 | |||
引退 | 1934年 | |||
2013年12月19日現在 |
牛島 辰熊︵うしじま たつくま、1904年︵明治37年︶3月10日 - 1985年︵昭和60年︶5月26日︶は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。
明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから﹁鬼の牛島﹂と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7e/Usijima_flag.jpg/200px-Usijima_flag.jpg)
第2回全日本選士権を制し優勝旗を持つ牛島辰熊︵1931年︶
熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した[1]。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。
この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく﹁参った﹂のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った[2]。これら古流柔術は柔︵やわら︶をあくまで武士の戦場での殺人武術だと位置づけていた。
まだ全日本選士権がない頃、実質的な日本一決定戦だった明治神宮大会を1925年から3連覇した。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/97/Usijima_sumo.jpg/200px-Usijima_sumo.jpg)
引退の7年後、北京で中国相撲の王者に異種格闘技戦を挑みこれを破っ た︵1941年︶
これらの激しい稽古でさらに実力を伸ばし、全日本選士権ができてからも第1回大会︵1930年︶こそ東京府予選の決勝で曽根幸蔵の大外刈に苦杯を嘗めたものの、本大会出場を果たした第2回︵1931年︶・第3回︵1932年︶大会では連覇を達成。先の明治神宮大会と合わせ、現在で言えば全日本選手権を5度制した事になる、この時代を代表する最強の柔道家だった。
1934年、皇太子生誕記念の第2回天覧試合に出場。予選リーグで遠藤清に勝ったが菊池揚二と大谷晃に敗れ、リーグ敗退した。この時の牛島の敗戦は肝吸虫により体が衰弱しきっていた事が原因だったという。
﹁負けは死と同義﹂と公言していた牛島は即引退し、その後は私塾﹁牛島塾﹂を開いて木村政彦、船山辰幸、甲斐利之、平野時男らを育てる名伯楽となった。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Tatuguma_Ushijima_Kimura_Masahiko.JPG/250px-Tatuguma_Ushijima_Kimura_Masahiko.JPG)
牛島辰熊と木村政彦
牛島は自身が叶えられなかった天覧試合制覇を制すために有望な選手を探す。見つけたのが母校の旧制鎮西中学校の後輩木村政彦であった。
木村を拓殖大学予科に引っぱり自宅で衣食住の面倒をみながら激しい稽古をつけ、不世出の柔道王・木村政彦を育てた[注釈 1]。
1940年の第3回天覧試合に向けて、木村は毎日10時間をこえる稽古を繰り返し、牛島も木村の優勝を願って毎夜水垢離をして、牛島の悲願であった天覧試合制覇がなされた。その激しい師弟愛は﹁師弟の鑑﹂と賞賛された。
﹁鬼の木村﹂の称号は、師匠牛島から受け継がれたもので、牛島も木村の事を晩年まで気に掛けていた。“昭和の巌流島”と呼ばれた木村と力道山との戦いでは、木村が敗れると真っ先にリングに駆け上がり、また、会場を去る木村に寄り添う牛島の映像が残されている。妻や娘に﹁なぜあの時リングに上がったのですか﹂と聞かれ、﹁木村の骨を拾えるのは俺しかいない﹂と目を潤ませながら語った[2][5]。
来歴[編集]
古流柔術で命を賭けた稽古[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7e/Usijima_flag.jpg/200px-Usijima_flag.jpg)
第1回天覧試合で惜敗し準優勝[編集]
1929年に開かれた第1回天覧試合では予選リーグを得意の寝技でオール一本勝ち、決勝を武道専門学校教授の栗原民雄︵後の十段︶と争い、25分の激闘の末、惜しくも判定で敗れる[3]。 天覧試合は毎年開催されるものではなく、皇室の記念行事なのでいつ次の天覧試合が開かれるか分からないため、牛島は次に開催される天覧試合の雪辱を期し上京、皇宮警察、警視庁、東京商科大学︵現・一橋大学︶、学習院、拓殖大学の師範となった。 そしてこの年の夏から東京での更なる猛稽古が始まった。あちこちに出稽古に回り、1日最低でも40本の乱取りをこなした。稽古後は消耗して階段も昇れず、食事は粥しか喉を通らない。朝起きると手の指が固く縮こまって開かず、湯につけて暖めながら少しずつ伸ばすほどの凄まじい稽古量をこなしたという[2]。当時最強の柔道家[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/97/Usijima_sumo.jpg/200px-Usijima_sumo.jpg)