「田村俊子」の版間の差分
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翌年代々続く[[札差]]だったという米穀商の家に生まれる。[[1893年]]︵明治26年︶4月、浅草小学校︵現在の台東区立浅草小学校︶に入学。翌年2月、[[下谷区]]下谷金杉上町︵現在の台東区[[下谷]]、[[竜泉 (台東区)|竜泉]]、[[入谷 (台東区)|入谷]]辺り︶に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校︵現在の[[台東区立根岸小学校]]︶に編入学。[[1895年]]︵明治28年︶、浅草区馬道︵現在の台東区[[浅草]]、[[花川戸]]辺り︶に転居し浅草小学校に再編入学。[[1896年]]︵明治29年︶、[[東京女子高等師範学校]]附属高等女学校︵現在の[[お茶の水女子大学附属中学校・高等学校]]︶に入学するが、僅か1学期で退学。東京府立第一高等女学校︵現在の[[東京都立白鴎高等学校・附属中学校]]︶に転学。作家を志し、[[幸田露伴]]の門下に入る。露伴を選んだ理由は、その作品からでなく、[[尾崎紅葉]]が﹁[[金色夜叉]]﹂の上演につききりでやかましく言っているのと反対に、露伴は﹁ひげ男﹂の上演に一切無干渉だという新聞記事を読み、人格に惚れたためだった<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2927_9212.html ﹁婦人と文学﹂宮本百合子]</ref>。
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翌年代々続く[[札差]]だったという米穀商の家に生まれる。[[1893年]]︵明治26年︶4月、浅草小学校︵現在の台東区立浅草小学校︶に入学。翌年2月、[[下谷区]]下谷金杉上町︵現在の台東区[[下谷]]、[[竜泉 (台東区)|竜泉]]、[[入谷 (台東区)|入谷]]辺り︶に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校︵現在の[[台東区立根岸小学校]]︶に編入学。[[1895年]]︵明治28年︶、浅草区馬道︵現在の台東区[[浅草]]、[[花川戸]]辺り︶に転居し浅草小学校に再編入学。[[1896年]]︵明治29年︶、[[東京女子高等師範学校]]附属高等女学校︵現在の[[お茶の水女子大学附属中学校]]・[[お茶の水女子大学附属高等学校]]︶に入学するが、僅か1学期で退学。東京府立第一高等女学校︵現在の[[東京都立白鴎高等学校・附属中学校]]︶に転学。作家を志し、[[幸田露伴]]の門下に入る。露伴を選んだ理由は、その作品からでなく、[[尾崎紅葉]]が﹁[[金色夜叉]]﹂の上演につききりでやかましく言っているのと反対に、露伴は﹁ひげ男﹂の上演に一切無干渉だという新聞記事を読み、人格に惚れたためだった<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2927_9212.html ﹁婦人と文学﹂宮本百合子]</ref>。
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[[1902年]]に露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、[[岡本綺堂]]らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。女優としての芸名は'''花房露子'''。しかし文学への意欲は失われず、[[1909年]]に結婚(事実婚)した[[田村松魚]]の勧めで書いた『あきらめ』が、[[1911年]][[朝日新聞|大阪朝日新聞]]懸賞小説一等になり文壇デビュー、その後「[[青鞜]]」、「[[中央公論]]」、「[[新潮]]」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、[[1918年]]、朝日新聞記者[[鈴木悦]]の後を追い、松魚と別れ[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]へ移住。悦とともに現地の邦字紙[[大陸日報]]の編集に参画する。[[1936年]]、悦の死去により18年ぶりに帰国。日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また[[佐多稲子]]の夫である[[窪川鶴次郎]]との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した。日本敗戦前に上海で脳溢血により客死した。享年62。墓所は[[鎌倉市|鎌倉]]の[[東慶寺]]にある。 |
[[1902年]]に露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、[[岡本綺堂]]らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。女優としての芸名は'''花房露子'''。しかし文学への意欲は失われず、[[1909年]]に結婚(事実婚)した[[田村松魚]]の勧めで書いた『あきらめ』が、[[1911年]][[朝日新聞|大阪朝日新聞]]懸賞小説一等になり文壇デビュー、その後「[[青鞜]]」、「[[中央公論]]」、「[[新潮]]」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、[[1918年]]、朝日新聞記者[[鈴木悦]]の後を追い、松魚と別れ[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]へ移住。悦とともに現地の邦字紙[[大陸日報]]の編集に参画する。[[1936年]]、悦の死去により18年ぶりに帰国。日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また[[佐多稲子]]の夫である[[窪川鶴次郎]]との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した。日本敗戦前に上海で脳溢血により客死した。享年62。墓所は[[鎌倉市|鎌倉]]の[[東慶寺]]にある。 |