ダットサン・フェアレディ
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ダットサン・フェアレディは、日産自動車が製造し、ダットサンブランドで販売したスポーツカー。フェアレディZの源流である。
本稿では前身モデルであるダットサン・スポーツDC-3、ダットサン・スポーツ1000についても述べる。
ダットサン・スポーツDC-3(1952年-1954年)[編集]
ダットサン・スポーツDC-3 | |
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概要 | |
販売期間 | 1952年 - 1954年 |
デザイン | 太田祐一 |
ボディ | |
乗車定員 | 4人 |
ボディタイプ | コンバーチブルクーペ |
駆動方式 | FR |
パワートレイン | |
エンジン | 直列4気筒 860cc SV |
変速機 | 3速MT |
前 | 4輪半楕円リーフ |
後 | 4輪半楕円リーフ |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,150mm |
全長 | 3,510mm |
全幅 | 1,360mm |
全高 | 1,450mm |
車両重量 | 750kg |
その他 | |
ブレーキ | 4輪ドラム |
最高速度 | 80km/h |
系譜 | |
先代 | ダットサン・16型クーペ |
後継 |
ダットサン・スポーツ1000 (S210型) |
1952年1月、発売。
ダットサン・フェアレディの源流となるロードスターモデル。直列4気筒 860ccのSVエンジンを搭載。
太田祐一によるデザインは、バルクヘッド以前を戦前型のダットサン・トラックやダットサン・フェートン、ダットサン・クーペ、ダットサン・セダンの意匠と揃えている。
北米で成功を収めていた、イギリスのMG・Tシリーズを目標としていたが、ハンドリングや動力性能では、より旧式のJシリーズにも及ばなかった。
1954年、製造終了。50台の少量生産にとどまった。
初代 S210型系(1959年-1962年)[編集]
ダットサン・スポーツ1000 ダットサン・フェアレデー(初代) S210型/S212型 | |
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ダットサン・スポーツ1000 | |
![]() ダットサン・フェアレデー1200 | |
概要 | |
販売期間 |
1959年 1960年 - 1962年 |
ボディ | |
乗車定員 | 4人 |
ボディタイプ | コンバーチブル |
駆動方式 | FR |
パワートレイン | |
エンジン | 直列4気筒 1.0/1.2L |
変速機 | 4速MT |
前 | 4輪半楕円リーフ+リジッド |
後 | 4輪半楕円リーフ+リジッド |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,220mm |
全長 | 3,936/4,025mm |
全幅 | 1,472/1,475mm |
全高 | 1,407/1,365mm |
車両重量 | 765/890kg |
その他 | |
ブレーキ | 4輪ドラム |
最高速度 | 115/132km/h |
系譜 | |
先代 | ダットサン・スポーツDC-3 |
ダットサン・スポーツ1000[編集]
S211型
●1957年11月 - 自動車展示会でダットサン・スポーツ1000発表。当初は国内販売も計画されていた。
●1958年10月 - 東京モーターショーに生産型を出品。ボディーは当時新素材として日本でも流行していたFRP製で、4座のオープンモデルとされた。シャシはダットサン・トラック 220型系 / セダン211型︵ブルーバードの前身︶のラダーフレームの流用である。エンジンはOHV988ccのC型で、トラック、セダンと同様であるが、ツーバレル式キャブレターの装着で34馬力︵25.35kW︶/6.59kgm︵64.7Nm︶を発揮し、最高速度は115km/hと発表された。
●1959年6月 - 生産開始。
●1960年 - ボディーサイドにめっきモールが配され、モールを境にしたツートーンカラーとなる。前年からの総生産台数はわずか20台で右ハンドル仕様。ほとんどが1960年モデルとして北米でテスト販売された。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Datsun_S211_002.JPG/241px-Datsun_S211_002.JPG)
ダットサン・スポーツ1000︵内装・リアビュー︶
ダットサン・フェアレデー1200[編集]
SPL212 / SPL213型
●1960年1月 - ﹁フェアレデー1200﹂発表。車名はミュージカル﹁マイ・フェア・レディ﹂に由来するもので、当時の日産の川又克二社長が前年に渡米した際、ブロードウェーでの同ミュージカルの観覧で感銘を受けたことから命名された。後の﹁フェアレディ﹂へとつながる源流となったネーミングである。型式記号はそれぞれ、﹁S﹂が﹁スポーツ﹂、﹁P﹂が﹁パワーアップ版﹂、﹁L﹂が﹁レフトハンドドライブ︵左ハンドル︶﹂を表す。数字の百の位の﹁2﹂は第二世代の意味であるが、この場合はダットサンセダン210型の派生車であることからそれに揃えた型式となっている。十の位は、奇数が乗用、偶数が貨物用︵トラックシャーシ流用のバスも偶数︶で、﹁1﹂と﹁2﹂が小型の﹁ダットサン﹂、﹁3﹂、﹁4﹂以上が﹁ニッサン﹂となる。ダットサンスポーツの場合は﹁小型乗用﹂なので﹁1﹂となる。一の位は、﹁0﹂を基本型として改良された回数を表しており、SPL212の場合は、2回目のマイナーチェンジモデルということになる。
この212と次の213は北米専売モデルの扱いであり、左ハンドルのみの生産であったが、日本国内でも少数がそのまま販売された。
生産性を考慮し、ボディーは一般的なスチール製としたがシャシに大きな変更は無く、4輪リーフリジッドのままであった。なおダットサントラックのフロントサスペンションは、セダンやフェアレデーに先駆けてダブルウイッシュボーンと縦置きトーションバー・スプリングによる独立式となっている。
エンジンは、ブルーバードにも使われたOHV1,189ccのE型に変更され、ツーバレルキャブレターを装着し、48馬力/8.4kgmの出力を発揮、フロアシフトの4速トランスミッションを介し、最高速度は132km/hと発表された。
自動車としての洗練度は英国製ライトウエイトスポーツカーに及ばなかったが、これらの改良により市場での競争力は着実に高まっていった。生産台数は288台。
●1960年10月 - エンジンは改良されたE1型となり、出力を60馬力/9.3kgmにアップ。当時アメリカの広告での価格は、新世代のシャシを使う310型ブルーバード4ドアセダンの$1,816に対し、$1,996となっている。
●1961年 - SPL213登場
●1962年 - 生産終了。生産台数は525台[1]。
2代目 S310型系︵1962年-1970年︶[編集]
ダットサン・フェアレディ(2代目) S310型 | |
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![]() SP310型 | |
![]() SP310型(リア) | |
![]() SR311型 | |
概要 | |
販売期間 | 1962年 - 1970年 |
デザイン | 飯塚英博 |
ボディ | |
乗車定員 | 3 / 2名 |
ボディタイプ | コンバーチブル |
駆動方式 | FR |
パワートレイン | |
エンジン | 直列4気筒 2.0/1.6/1.5L |
変速機 | 5速MT/4速MT |
前 |
F:ウイッシュボーン R:半楕円リーフ |
後 |
F:ウイッシュボーン R:半楕円リーフ |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,280mm |
全長 | 3,910mm |
全幅 | 1,495mm |
全高 | 1,300mm |
車両重量 | 910kg |
その他 | |
ブレーキ |
F:ディスク (フェアレディ1500はドラム) R:ドラム |
最高速度 |
205km/h (フェアレディ2000) |
系譜 | |
後継 | 日産・フェアレディZ |
高速化を考慮して小径ホイール、低床フレームの採用で低重心化を図り、エンジンも連続高回転運転を考慮したものに変更された。
フェアレディ1500[編集]
SP310 / SPL310型 ●1961年10月 - 東京モーターショーに﹁ダットサン・フェアレディ1500﹂として展示。シャーシはダットサン・ブルーバード310系の流用で、前輪独立懸架となり、前後のサスペンション支持部の間にX型の補強メンバーが追加され一段と剛性が高められた。このメンバーはシルビアを含むS310型系の大きな特徴でもある。 ●1962年10月 - 輸出用のDATSUN 1500︵SPL310︶に加え、日本国内向けモデルのフェアレディ1500︵SP310︶発表。直列4気筒G型エンジン︵71馬力/5,000rpm︶を搭載。 左向きの後部座席が備わる3人乗りであった。 ●1963年5月 - ﹁第1回日本グランプリ﹂国内スポーツカーB2クラス︵1,300〜2,500cc︶にて輸出仕様キャブレターを搭載するフェアレディ1500︵田原源一郎がドライブ︶が優勝を飾る。 ●1963年6月 - 日本GPでの活躍を受け、SUツインキャブを装着し出力が80馬力/5,600rpmへ向上。 ●1964年3月 - レーシングキット発売。 ●1964年8月 - マイナーチェンジで2シーターに変更。 ●1965年4月 - 後述する﹁フェアレディ1600﹂と入れ替わるかたちで販売終了。フェアレディ1600[編集]
SP311 / SPL311型 ●1965年5月 - ﹁フェアレディ1600﹂︵SP311型︶発売。直列4気筒OHV1,595cc、R型エンジン︵90馬力/6,000rpm︶を搭載。1か月前に発売された﹁シルビア﹂とエンジン、ポルシェシンクロ︵サーボタイプ︶トランスミッション、シャシなどを同一とした。フロントブレーキがドラムブレーキ︵ツーリーディング式︶からディスクブレーキに変更され、ロードホイールは14インチ化された。 ●1966年3月 - ﹁第4回クラブマンレース﹂︵日本グランプリの前哨戦的レース︶に、特別製のB680X型エンジン︵直列6気筒DOHC1,992cc、190馬力/7,600rpm︶を搭載するフェアレディS︵プロトタイプマシンの扱い︶が参戦︵ドライバーは田中健二郎︶し、ポールポジションを獲得したがリタイア︵優勝は同じく初参戦のトヨタ・RTX=後の1600GTのプロトタイプ︶。またGT IIクラスでは、フェアレディ1600が優勝を飾る。 ●1966年5月 - 第3回日本グランプリ予選︵雨︶で、フェアレディS︵ドライバーは北野元︶は プリンス・R380やポルシェ・カレラ6等の本格レーシングカーに対し、2位に14秒73の大差を付けポールポジションを獲得したが決勝はリタイア。 ●1966年11月 - ﹁第2回富士ツーリスト・トロフィー・レース﹂GT-I〜Vクラスにて﹁フェアレディ1600﹂が総合6位、クラス優勝を飾る。 ●1967年11月 - ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドやヘッドレストの追加、シートベルトの3点式化、ドアアウターハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の形状の変更で北米の安全基準︵Motor Vehicle Safty Standard︶に準拠。1965年5月から1967年10月までのモデルは﹁ローウインドスクリーン﹂、1967年11月以降のものは﹁ハイウインドスクリーン﹂と呼ばれ、区別されている。フェアレディ2000[編集]
SR311 / SRL311型
●1967年3月 - ﹁フェアレディ1600﹂に追加されるかたちで﹁フェアレディ2000﹂︵SR311型︶発売。
ソレックスキャブレター2基を備えた新設計の直列4気筒SOHC1,982cc、U20型エンジン︵145馬力/6,000rpm︶と[2]、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載。発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなり、高性能車としても注目を浴びる[2]。後に﹁フェアレディ﹂の完成形と賞賛されるモデルとなる。テレビコマーシャルは杉山登志らが制作し、数々の賞を受賞した。
●1967年5月 - ﹁第4回日本グランプリ﹂GTクラスにてフェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾る。
●1967年11月 - 上記の﹁フェアレディ1600﹂同様、ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドやヘッドレストの追加、シートベルトの3点化、ドアアウターハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の形状の変更で北米の安全基準︵Motor Vehicle Safty Standard︶に準拠。1967年3月から同年10月までのモデルは﹁ローウインドスクリーン﹂、同年11月以降のものは﹁ハイウインドスクリーン﹂と呼ばれ、区別されている。
●1968年1月 - 第37回モンテカルロ・ラリーに、カーナンバー66︵ハンヌ・ミッコラ / Anssi Jarvi組︶と、同じく70︵Jorma Lusenius / Vihervaara組︶の2台の﹁ローウインドスクリーン﹂タイプのワークスSRL311で初出場。カーバッジはDATSUN 2000。FR車は圧倒的に不利と言われるモンテカルロで、カーナンバー66のミッコラ/ヤルヴィ組が総合9位、グループ3クラス3位を獲得する。
●1968年5月 - ﹁'68日本グランプリ﹂GTクラスにて﹁フェアレディ2000﹂が1-2-3フィニッシュを飾る。
●1968年7月 - SP/SRともにソフトトップを持たないハードトップモデルを追加。
●1968年8月 - ﹁第3回富士ツーリスト・トロフィー・レース﹂GTS-IIクラスにて﹁フェアレディ2000﹂が優勝を飾る。
●1968年11月 - ステアリングギアボックス、マフラー、ワイパー、ライセンスプレートランプ、テールランプなどを変更。
●1969年1月 - 第38回モンテカルロ・ラリーに出場。カーナンバー79︵Raimo Kossila / Pertti Mannonen組︶と、同44︵Risto Virtapuro / Charles Lindholm組︶の2台の﹁ハイウインドスクリーン﹂タイプのSRL311でエントリー。
●1969年10月 - ﹁第6回日本グランプリ﹂GTクラスにて﹁フェアレディ2000﹂が優勝を飾る。
●1969年 - 後継車種﹁フェアレディZ﹂が発表されるが、1970年4月まで継続生産(日産内部資料による)。
●1970年 - 生産終了。2代目の国内販売台数は約6000台[3]。