南金六町
表示
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/59/Hakuhinkan.jpg/400px-Hakuhinkan.jpg)
南金六町︵みなみきんろくちょう︶は、1872年︵明治5年︶ - 1930年︵昭和5年︶3月4日に、東京府東京市京橋区にかつて存在した町丁である[1]。現在の東京都中央区銀座8丁目7番地から同10番地のうち、東を三原通り、西を西五番街に挟まれた部分の南半分にあたる[1]。旧町名芝口金六町︵しばぐちきんろくちょう︶、それ以前は出雲町︵いずもちょう︶の南部分であった[2]。
概要[編集]
そもそも江戸期には、東海道の起点から見て芝地域への入口に位置し、汐留川にかかる新橋︵芝口橋︶の両岸で﹁芝口﹂を冠した地域である[1]。当時、隣接して存在した幕府拝領地﹁金春屋敷﹂をやがて併合し、同屋敷の下女たちに端を発する﹁金春芸者﹂あるいは﹁新橋芸者﹂と呼ばれる芸妓の本拠地であった。 1872年︵明治5年︶の銀座大火以降、銀座煉瓦街が建って近代化が進み、﹁日本初﹂の近代的建築物、店舗がこの地に登場する。﹁日本初のビアホール﹂である﹁恵比寿ビヤホール﹂が1899年︵明治32年︶に5番地︵現在の銀座8丁目9番11号︶に、﹁日本初の映画専門館﹂と﹁日本初の撮影所﹂を開いた﹁日本最古の映画会社﹂である吉沢商店は13番地︵現在の銀座8丁目10番8号︶に田中久重が1875年︵明治8年︶に9番地︵現在の銀座8丁目9番15号︶に開いた工場は、﹁東芝発祥の地﹂とされている。このほか、1894年︵明治27年︶には3番地︵現在の銀座8丁目8番8号︶に千疋屋フルーツパーラーが、1899年には4番地︵現在の銀座8丁目8番11号︶に帝国博品館勧工場が建つ。なお、﹁日本初のカフェー﹂とされるカフェー・プランタンが現在の銀座8丁目9番16号にあったが、関東大震災後に日吉町から移転してきたものである。 1923年︵大正12年︶9月1日、関東大震災を経て、1930年︵昭和5年︶3月4日には、北に隣接する﹁出雲町﹂とともに﹁銀座八丁目﹂に改称し、﹁南金六町﹂の町名は消滅していくが、2012年︵平成24年︶5月現在、﹁南金六町﹂の時代から同地に残る店舗がいくつかある。﹁銀座千疋屋﹂は1999年︵平成11年︶に銀座5丁目の店舗に統合されて撤退するが、それを除いても、青柳総本店は﹁青柳ビル﹂として、帝国博品館勧工場は﹁博品館﹂として、銀座天國は建物を替えてそのままに、金春湯も同様に現在も営業している。「#番地ごとの施設」を参照
地理[編集]
京橋区の最南部に位置する[1]。1872年︵明治5年︶の銀座大火後に煉瓦街対象となった地域である[3]。平坦な土地であり、住居や商店が立ち並んだ。
東は三十間堀川︵のちに埋立・消失︶を隔てて木挽町7丁目︵のちの木挽町8丁目︶が、西には日吉町が隣接している[1]。北は出雲町が、南は汐留川︵のちに埋立・消失︶を隔てて芝区芝口1丁目︵現在の新橋1丁目︶と隣接しており、汐留川には﹁新橋﹂が架かっている[1]。﹁南金六町﹂に丁目はなく、1番地から15番地まであり、1番地から13番地は北西から南東に向けて順に並ぶが、14番地および15番地は1番地の西側にある。[1]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9d/Ginza-townmap-kyobashiward.png/400px-Ginza-townmap-kyobashiward.png)
区画整理実施前後の町名町域対照地図︵1930年3月︶
河川[編集]
●三十間堀川 - 1953年︵昭和27年︶埋立完了・消滅 ●汐留川 - 1963年︵昭和38年︶埋立完了・消滅橋梁[編集]
●新橋 - 現在の同名の地名・駅名の由来となった橋、汐留川に架かり同町と芝口一丁目を結ぶ、川とともに消滅 ●出雲橋 - 三十間堀川に架かり、同町の北に隣接する出雲町と木挽町を結ぶ、川とともに消滅歴史[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9d/Ginza-townmap-kyobashiward.png/400px-Ginza-townmap-kyobashiward.png)
地名の由来[編集]
江戸期に京橋川の南に芝田金六が長屋を開き、1657年︵明暦3年︶の明暦の大火の後に一帯を﹁京橋金六町﹂︵のちの木挽町1丁目、現在の銀座1丁目のうち昭和通りより東部分︶と称するようになり[4]、その飛地と考えられている。芝田金六の名が由来である。沿革[編集]
●1710年︵宝永7年︶、芝口御門造営のため﹁出雲町﹂の南部分が接収される[2] ●1725年︵享保9年︶、芝口御門火災により焼失、その後跡地に再度つくられた町を﹁芝口金六町﹂とする︵町域の始まり︶[2] ●1868年︵明治元年︶、東京府の成立 ●1869年︵明治2年︶、﹁三十間堀八丁目﹂を﹁芝口金六町﹂と﹁出雲町﹂に編入、同年、﹁芝口北紺屋町﹂に旧幕府拝領地﹁金春屋敷﹂を合併[5] ●1872年︵明治5年︶、銀座大火、同年、﹁芝口金六町﹂に﹁芝口北紺屋町﹂等を編入し﹁南金六町﹂と改称 ●1877年︵明治10年︶、同町域を含めた銀座煉瓦街完成 ●1878年︵明治11年︶11月2日、郡区町村編制法により京橋区が設置され同区域とされる ●1889年︵明治22年︶5月1日、東京市の成立 ●1923年︵大正12年︶9月1日、関東大震災 ●1930年︵昭和5年︶3月4日、﹁出雲町﹂とともに﹁銀座八丁目﹂に改称︵町名の消滅︶交通[編集]
鉄道[編集]
●東京市電金杉線・本通線 - 新橋駅 ︵現在の博品館前に位置︶ ●鉄道省 - 新橋停車場︵のちの汐留駅、1986年廃止、隣接する汐留川の対岸に位置︶道路[編集]
●1號國道 - 現在の国道15号番地ごとの施設[編集]
カッコ内は現在の住居表示﹁銀座8丁目﹂以下の地番。 ●1番地 ︵現・8番10号︶ - 佐竹袋物店 ●2番地 ︵現・8番9号︶ ●3番地 ︵現・8番8号︶ - 千疋屋フルーツパーラー︵1894年 - 1999年5丁目店に統合・撤退︶[6]、青柳総本店︵現在の青柳ビル︶ ●4番地 ︵現・8番11号︶ - 帝国博品館勧工場 ︵1899年、その後復活、博品館として現存︶、三銀陶器店、大徳帽子 ●5番地 ︵現・9番11号︶ - 恵比寿ビヤホール ︵カフエーシンバシ、1899年 - ︶[7]、繁松亭[8]、銀座天國︵1924年 - 現存︶[9] ●6番地 ︵現・9番12号︶ - 電友社︵出版社、加藤木重教︶ ●7番地 ︵現・9番13号︶ - 日米商店売捌所 ︵宇都宮回漕店内、1899年︶ ●8番地 ︵現・9番14号︶ - 東京煉瓦通︵5番地-10番地︶ ●9番地 ︵現・9番15号︶ - 田中製造所︵1875年、東芝発祥の地︶ ●10番地 ︵現・9番16号︶ - 西沢旅館︵現在の長崎センタービル、1階にカフェーパウリスタ︶、カフェー・プランタン ●11番地 ︵現・10番6号︶ ●12番地 ︵現・10番7号︶ ●13番地 ︵現・10番8号︶ - 吉沢商店 [10][11] ●14番地 ︵現・7番5号︶ - 金春湯︵1863年 - 現存︶[12]、月岡芳年居宅 ●15番地 ︵現・7番13号︶ - 東新商店︵安成三郎︶、ニコニコ倶楽部︵大正年間︶[13][14]、のちに銀座全線座︵現在の銀座国際ホテル︶ 天下堂デパートは、南金六町1番地の北隣﹁出雲町2番地﹂、精養軒西店は﹁采女町﹂、当時のカフェーパウリスタは現在と異なり﹁南鍋町﹂にあった。史跡[編集]
脚注[編集]
(一)^ abcdefg南金六町、goo古地図、2012年5月24日閲覧。
(二)^ abc犬塚、p.37.
(三)^ ファッションと文化の街 東京の繁華街とその系譜、ハイライフ研究所、2012年5月24日閲覧。
(四)^ 犬塚、p.132.
(五)^ 芝口北紺屋町、角川日本地名大辞典、jlogos.com, 2012年5月24日閲覧。
(六)^ 建築写真類聚 バラック建築 巻一 - 千疋屋フルーツパーラー、中央区立京橋図書館、2012年5月24日閲覧。
(七)^ 当社の創業、サッポロライオン、2012年5月24日閲覧。
(八)^ 新橋より煉瓦通を望む - 右角は寄席繁松亭、中央区立京橋図書館、2012年5月24日閲覧。
(九)^ 天國の歴史、銀座天國、2012年5月25日閲覧。
(十)^ ﹃北清事変写真帖﹄、奥付。
(11)^ 東京写真帖 吉澤商店、中央区立京橋図書館、2012年5月24日閲覧。
(12)^ 金春湯について、金春湯、2012年5月24日閲覧。
(13)^ ﹃偉人の家﹄、長田秋濤、ニコニコ倶楽部、奥付。
(14)^ 雑誌ニコニコ発送の光景、中央区立京橋図書館、2012年5月24日閲覧。