土方義苗
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土方 義苗 | |
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![]() 土方義苗像(見性寺蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 安永7年5月7日(1778年6月1日) |
死没 | 弘化2年6月28日(1845年8月1日) |
改名 | 彦吉(幼名)、義苗 |
戒名 | 霊光院殿一灯自照大居士 |
墓所 | 東京都文京区湯島の麟祥院 |
官位 |
従五位下、大和守 贈従四位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢国菰野藩主 |
氏族 | 木下氏→土方氏 |
父母 | 父:木下俊直、養父:土方雄貞 |
妻 | 正室:田沼意知の養女(田沼意致の娘) |
子 |
雄興、木下俊国(次男)、義方(三男)、 義行(四男)、折井義孝(五男)、 松田義保(六男)、娘(中根正昭室)、 娘(興津忠本養女)、娘(榊原正邦室)、 娘(土方光良室)、娘 |
土方 義苗︵ひじかた よしたね︶は、伊勢菰野藩の第9代藩主。
生涯[編集]
安永7年︵1778年︶5月7日、第6代藩主・土方雄端の三男・木下俊直の次男として、江戸愛宕下の菰野藩上屋敷で生まれる。父が豊後日出藩木下氏分家の5000石の旗本家の養子になるとそれに従う。天明2年︵1782年︶12月19日、菰野藩で第8代藩主・雄貞︵権勢を誇った田沼意次の子であり、土方家の養子︶の死去により、その末期養子として家督を継いだ。ただし幼少のため、藩政は隠居していた第7代藩主で伯父の雄年によって執り行なわれた。田沼家との血縁は、義苗の室に田沼意知の養女︵意次の甥田沼意致の女︶を迎えることで維持された[1]。寛政8年︵1796年︶8月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月19日、従五位下・大和守に叙任する。 寛政7年︵1795年︶、雄年が死去すると、藩政を主導する。雄年が生前に派手な生活を送って借金が重なり、藩財政が破綻寸前となっていたため、義苗はまず財政改革に乗り出した。﹁臨時準備積立法﹂を制定して年間225俵の米を1割2分の利子で13年間に1500両も積み立てた。さらに質素倹約や経費節減、灌漑工事、産業開発などを積極的に行なった。特に倹約は厳しく取り締まり、その結果12年間で9800両の借金を1400両にまで削減したと言われている。こうした一連の緊縮財政政策により、財政再建は成功した。 さらに民政においては、減税政策や目安箱設置による優秀な意見の採用を行ない、教育面では学問を奨励して、後の藩校・修文館の前身となる私塾・麗沢書院の設立を行なって人材の育成に努めた。 天保6年︵1835年︶1月、長男の雄興に家督を譲って隠居する。しかしその雄興が天保9年︵1838年︶に早世すると、孫の雄嘉に家督を継がせて、自らは藩政の実権を弘化2年︵1845年︶6月28日に死去するまで握り続けた。享年68。 菰野藩中興の名君と言われている。系譜[編集]
父母 ●木下俊直︵実父︶ ●土方雄貞︵養父︶ 正室 ●田沼意致の娘 ー 田沼意知の養女 子女註[編集]
- ^ 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)