堀三太郎
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堀 三太郎︵ほり さんたろう、1866年10月2日︵慶応2年8月24日[1]︶- 1958年︵昭和33年︶7月19日[2]︶は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・瓜生。筑豊の五大炭鉱主と称された[3]。
経歴[編集]
筑前国鞍手郡、のちの福岡県[2]鞍手郡直方町[4][5]新町[3]︵現直方市︶で、醤油醸造業・瓜生幾次の長男として生まれる[3]。小学校の課程を修了すると私塾で漢文学、数学を修めた[2][4]。1886年︵明治19年︶8月、先代亡堀甚四郎の養子となり死跡を相続した[1][注釈 1]。 1889年︵明治22年︶小竹町の御徳炭鉱の経営を始め、付近の海軍鉱区の払下げを受け、当時、直鞍地区随一の炭鉱に発展した[3]。さらに本洞︵直方︶、若瀬︵中間︶、平山︵嘉穂︶、中津川︵田川︶、篠栗︵篠栗︶の各炭鉱を買収し、堀鉱業を設立し代表取締役となる[3][5]。その後、長崎県の東松島炭鉱を経営した[3]。炭坑以外でも事業を拡大し、銅山、硫化鉱山、朝鮮・台湾の金山、台湾製塩会社、鞍手銀行などを経営し、豊国セメント取締役、東邦電力取締役、福博電車社長なども務めた[3]。その他、相続税審査委員、福岡地方森林会議員などに在任した[2][4]。 政界を好んでいなかったが[3]1915年︵大正4年︶3月、第12回衆議院議員総選挙︵福岡県郡部、立憲政友会︶で推薦されたため、選挙期間中別府に逃れていたが当選し[3][6]、衆議院議員に1期在任した[2]。 1941年︵昭和16年︶には一切の事業を整理し、直方市の本宅を市に寄贈して、福間町の別荘に移り住み隠棲した[3]。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『ふるさと人物記』574頁によると、父幾次が戸主は兵役免除となるので堀という架空の姓をつくり三太郎を戸主にしたとある。