壱岐要塞
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壱岐要塞︵いきようさい︶とは、対馬要塞と共に対馬海峡の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞である。
概要[編集]
対馬海峡、壱岐海峡の防備のため1924年10月から工事が開始され、1938年12月までに全ての砲台が竣工した。 的山大島砲台は戦艦﹁鹿島﹂の主砲塔︵陸軍での名称は砲塔四五口径三〇糎加農砲︶[1]を、黒崎砲台は未成巡洋戦艦﹁赤城﹂︵空母﹁赤城﹂に改装︶の主砲塔︵同、砲塔四五口径四〇糎加農︶[2]を設置した砲塔砲台であり、水上艦船への対処を目的としていた。また、おもに潜水艦の浮上襲撃への対処を目的として名烏島・小呂島・渡良大島の各砲台には四五式十五糎加農砲が[3]、生月砲台には九六式十五糎加農砲が[4]設置された。 壱岐島渡良大島地区には、陸軍の海岸要塞としては唯一の水中聴音機を有する水中観測所が設置されていた[5]。 1939年3月10日時点の人員は、戦闘員28名︵定員に対する不足2名︶、非戦闘員23名で、ほかに馬が3匹いた[6]。沿革[編集]
●1909年︵明治42年︶‥﹁要塞整理方針﹂の﹁要塞整理要領﹂で﹁朝鮮海峡要塞系構想﹂で壱岐に要塞新設の構想[注釈 1]。 ●対馬海峡東水道に向け‥勝本第1・第2・第3砲台に、砲塔35糎加農砲[注釈 2] 各2門。 ●壱岐水道に向け ●馬渡島・加唐島・壱岐大島・的山大島‥23口径30糎榴弾砲[注釈 3] 各4門。 ●鷹島 ‥28糎榴弾砲 各4門。 * ( 要塞砲塔加農砲 も参照 )
●1922年︵大正11年︶8月‥陸軍築城部は、要塞工事のため壱岐島に臨時派出所を開設準備。
●1923年︵大正12年︶
●4月‥臨時派出所を築城部壱岐支部に改編。
● ‥帝国国防方針の改訂により﹁要塞再整理要領﹂が策定。その中で、砲台設置場所や備砲の再検討がなされる[注釈 4]。
●1924年︵大正13年︶10月12日‥的山大島砲台 着工
●1926年︵大正15年︶8月1日‥壱岐要塞司令部・壱岐要塞重砲兵連隊 設置
●1927年︵昭和2年︶8月1日‥壱岐要塞の重砲兵部隊の動員計画作成。(*永久動員計画令・動員管理第12師団)
●1928年︵昭和3年︶8月25日‥黒崎砲台 着工
●1929年︵昭和4年︶1月15日‥的山大島砲台 竣工 ( 砲塔四五口径三十糎加農 連装1基2門)
●1933年︵昭和8年︶
●2月14日‥黒崎砲台 竣工 (砲塔四五口径四〇糎加農 連装1基2門)
● ‥﹁要塞修正再整理要領﹂により大口径加農砲の多くが設置中止[注釈 5]。
●若宮島砲台 ⇒ 中止 (砲塔四五口径四〇糎加農 連装1基2門)
●1934年︵昭和9年︶
●2月‥若宮島砲台 着工
●7月16日‥名烏島[注釈 6]砲台 着工
●1935年︵昭和10年︶4月15日‥小呂ノ島砲台 着工
●1936年︵昭和11年︶
●8月1日‥渡良大島砲台 着工
●12月‥若宮島砲台 竣工
●1937年︵昭和12年︶
●3月20日‥名烏島砲台 竣工
●3月20日‥小呂ノ島砲台 竣工
●7月6日‥生月島砲台 着工
●12月30日‥渡良大島砲台 竣工
●1938年︵昭和13年︶12月12日‥生月島砲台竣工
●1941年︵昭和16年︶
●6月 ‥関東軍特種演習により壱岐要塞司令部・壱岐要塞重砲兵連隊 動員。西部軍に編入。
●11月8日‥予備兵器の38式野砲で、印通寺・馬渡島・長崎鼻 に臨時砲台動員。
●12月8日‥大東亜戦争 開戦。
●1942年︵昭和17年︶末‥対潜水艦防備強化のため、神集島・玄海島 に、砲台 (12速加4門)を新設[注釈 7]。
●1944年︵昭和19年︶9月‥特設警備第219中隊編入。
●1945年︵昭和20年︶
●2月6日 ‥第16方面軍の戦闘序列に編入。
●4月 ‥壱岐要塞守備隊の編成を下令。
●4月21日‥第56軍の発足に伴いその戦闘序列に編入
●5月 ‥小呂ノ島・神集島・玄海島の各砲台の備砲を、北部九州方面の決戦準備のために転用 (ケ号演習)。
●5月 ‥第3次兵備により要塞歩兵第7~9大隊が増強。
●7月 ‥壱岐要塞守備隊作戦計画を作成[注釈 8]
●8月15日‥﹃大東亞戰爭終結ノ詔書﹄を拝。
●8月16日‥停戦
主要な施設[編集]
(壱岐諸島)
●黒崎 砲台 ‥砲塔四五口径四〇糎加農 連装1基2門。[注釈 9]
●印通寺 臨時砲台 ‥予備兵器の38式野砲4門 配備。
●勝本 臨時砲台 ‥海軍14加2門。(昭和20年・北部九州沿岸防備強化に転用した火砲の代わりに編入)
●初山 臨時砲台 ‥海軍14加2門。(昭和20年・北部九州沿岸防備強化に転用した火砲の代わりに編入)
●初瀬 臨時砲台 ‥海軍14加2門。(昭和20年・北部九州沿岸防備強化に転用した火砲の代わりに編入)
●若宮島 砲台 ‥﹁要塞修正再整理要領﹂により中止。(砲塔四五口径四〇糎加農 連装1基2門)
●名烏島 砲台 ‥四五式十五糎加農砲 改造固定式㊕2門。のち増設‥同 改造固定式2門‥計4門。
●渡良大島 砲台 ‥四五式十五糎加農砲 改造固定式4門。
●渡良長島 ‥昭和19年に菊型水中聴測機 設置。水中聴測部隊による海上監視と潜水艦情報の収集。
小呂島
(福岡県玄界灘)
●小呂ノ島 砲台 ‥四五式十五糎加農砲 改造固定式4門。︵ 昭和20年5月‥備砲を、北部九州方面の決戦準備のために転用・ケ号演習︶
的山大島
(長崎県平戸島の北方)
●的山大島 砲台 ‥砲塔四五口径三十糎加農 連装1基2門。[注釈 10]
●馬の頭鼻 電燈所
●長崎鼻 電燈所
●的山大島 臨時砲台‥予備兵器の38式野砲2門 配備。
●長崎鼻 臨時砲台 ‥予備兵器の38式野砲4門 配備。
生月島
(長崎県の平戸島の北西)
●御崎 砲台 ‥九六式十五糎加農砲2門。
●御崎 臨時砲台 ‥海軍14加2門。(昭和20年・北部九州沿岸防備強化に転用した火砲の代わりに編入)
平戸島
︵佐世保軍港防備のための砲台であるが、生月砲台と隣接しているため壱岐要塞に編入︶
●平戸 砲台 ‥
●高島 砲台
馬渡島
(佐賀県唐津沖合玄界灘)
●馬渡島 臨時砲台 ‥予備兵器の38式野砲4門 配備。
神集島
(佐賀県唐津沖合玄界灘)
●臨時砲台 ‥12速加4門︵昭和17年末‥臨時配備/ 昭和20年5月‥備砲を、北部九州方面の決戦準備のために転用・ケ号演習︶
玄海島
(福岡県博多沖合)
●臨時砲台 ‥12速加4門︵昭和17年末‥臨時配備 / 昭和20年5月‥備砲を第145師団 (福岡県芦屋)に転用・ケ号演習︶
加唐島
(佐賀県波戸岬北方の玄界灘)
● ‥﹁要塞修正再整理要領﹂により中止。
鷹島
(長崎県・伊万里湾口)
● ‥﹁要塞修正再整理要領﹂により中止。
歴代司令官[編集]
●松井喬 大佐‥1926年8月1日 - ●三宅雄一 大佐‥1928年8月10日 - ●萩原勝千代 大佐‥1929年3月16日 - ●井原斉 大佐‥1930年8月1日 - ●高橋政蔵 中佐‥1932年4月11日 - ●井原斉 歩兵大佐‥1933年8月1日[7] - ●福島和吉郎 大佐‥1934年8月1日 - ●手塚省三 少将‥1936年8月1日 - ●根上清太郎 少将‥1937年8月2日 - ●榎本宮 少将‥1939年3月9日 - ●村治敏男 少将‥1940年12月2日 - ●三島義一郎 少将‥1942年6月26日 - ●千知波幸治 少将‥1944年2月14日 -最終所属部隊[編集]
壱岐要塞司令部‥千知波幸治 少将︵陸士26期︶- 壱岐要塞重砲兵連隊:関武思 大佐(陸士29期)
- 壱岐要塞歩兵第1大隊
- 壱岐要塞歩兵第2大隊
- 壱岐要塞歩兵第3大隊
- 壱岐要塞歩兵第4大隊
- 壱岐要塞歩兵第5大隊:後藤健 大尉(陸士55期)
- 壱岐要塞歩兵第6大隊
- 壱岐要塞歩兵第7大隊
- 壱岐要塞歩兵第8大隊
- 壱岐要塞歩兵第9大隊
- 西部軍管区直轄 壱岐陸軍病院:高椋秀雄 軍医少佐
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 朝鮮海峡要塞系の目的は﹁特ニ我海軍ト協同シテ敵艦隊ニ対シ本土大陸間ノ連絡ヲ確保シ且津 軽要塞ト相俟チテ敵艦隊の行動ヲ制限ス﹂とあり、大陸方面との連絡交通線の確保と津軽海峡と連携した 日本海の内域化を目指した。本要塞系の特徴は、要塞﹁系﹂とあるように複数要塞でその任にあたることにある。壱岐要塞の任務についても、第一に﹁対馬要塞及鎮海湾要塞ト相俟チテ本土、朝鮮間ニ於ケル我交 通ヲ掩護ス﹂とされ、対馬東水道においては既設の対馬・鎮海湾両要塞との連携が前提にある。そのため、 組織上は要塞系司令官の統一指揮下で管理されることになっており、従来の国内要塞とは異なる 。壱岐水道側においては﹁壱岐海峡ニ於ケル敵艦の航通ヲ杜絶シ且対馬海峡東水道に於ケル敵艦ノ航通ヲ妨害﹂するとともに、﹁敵海軍ノ攻撃ニ対シ伊万里湾を掩護﹂することとされており、北部九州沿岸部に対する敵艦隊の侵入阻止を企図した。北部九州はこの時期から八幡製鉄所をはじめとした鉱工業地域としての発展著しく、国内経済に占める地位は高かった。また満州・朝鮮・大陸航路の起点中継点として門司・ 若松・三池・博多・唐津・長崎等の重要港湾が集中し、大陸政策における観点からも重要な地域であったのである。
(二)^ 砲弾は、海軍の45口径四一式36cm連装砲と同一仕様として共用する予定であった。
(三)^ 正式採用され﹁七年式三十糎榴弾砲﹂。
(四)^ 再整理要領の最も 大きな変更点は、八八艦隊計画中止と軍縮により廃艦となった艦艇の砲塔を要塞砲に採用する。そのため、従来陸軍が新規開発していた要塞砲の採用を中止する。
(五)^ 壱岐要塞については着手済みの黒崎・的山大島砲台を除いて、未着工であった大口径砲台の建設を中止し、代わりに速射性に優れた中口径の15糎砲を備え付けることになった。 これは昭和7年にソ連の太平洋艦隊が創設され、日増しに戦力が増強されつつあったことが背景にあり、 主として潜水艦の浮上航行を妨害し駆潜艇の対潜活動を掩護することが目的であった。築城工事は名烏島から逐次着工に移され、小呂ノ島・渡良大島・生月の各砲台が順次完成する。壱岐要塞は最終的に、昭和13年の生月砲台の竣工によって、合計6ヶ所の砲台とその付属施設からなる要塞として完成する。
(六)^ 壱岐島勝本港の北方に位置する無人島。
(七)^ 昭和17年5月に、長崎港沖合で陸軍の配当船太洋丸が敵潜水艦に撃沈された事件の対策。
(八)^ 従来の敵艦隊に対する壱岐・対馬両海峡の封鎖以外に、敵上陸降下部隊と海空基地の設置を阻止妨害して、長期にわたり壱岐島を確保することが方針に加えられる。同指導要領によれば、水際での決戦を基調として敵艦艇・航空機・上陸空挺攻撃を全力で撃退し、仮に敵に上陸を許せば拠点を死守するとともに活発な遊撃戦を展開して壱岐島の長期持久を図る︵状況によっては主力を持って決戦、敵部隊を撃破︶こととされた。その計画に基づき、砲塔砲台は砲身掩体の構築や偽装を完了させ、15加各砲台は備砲を洞窟陣地内に収容してその付属坑道を構築中で、各要塞歩兵大隊においては地上戦に備えた火器 掩体を完了させている。
(九)^ 巡洋戦艦赤城の一番砲塔 転用。
(十)^ 戦艦鹿島 後部主砲の転用。