服部貞勝
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服部 貞勝︵はっとり さだかつ、宝暦11年︵1761年[1]︶ - 文政7年5月22日︵1824年6月18日︶︶は、江戸時代後期の旗本。松前奉行、勘定奉行などを務めた。旗本服部貞徳の長男。母は酒井忠香の養女。通称は久太郎、頼母、久右衛門。官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。室は高家旗本の戸田氏朋の娘。子女に服部貞陽ら。
1824年︵文政7年︶死去。墓所は服部氏の領地であった赤堤村︵東京都世田谷区赤堤3丁目︶の西福寺。 同年に子息の貞陽が建立した、幕府侍講成島司直の撰文、戸川安恵揮毫の墓碑が残る。
来歴[編集]
中奥番・服部貞徳の長男として生まれる。1786年︵天明6年︶3月22日、将軍・徳川家治に御目見[2]。1794年︵寛政6年︶5月22日小姓組となり、1796年︵寛政8年︶10月4日に家督相続、1400石を継ぐ[2]。 1797年︵寛政9年︶12月18日に中奥番士[2]、1805年︵文化2年︶御徒頭、1806年︵文化3年︶西丸目付、1807年︵文化4年︶本丸目付と昇進し、1810年︵文化7年︶、駿府町奉行となる。1812年︵文化9年︶地誌﹁駿河大地誌﹂の編纂を企画したが、11月に松前奉行に転任となった。 翌1813年︵文化10年︶9月、前任者より引き継いだロシアとの国際紛争﹁ゴローニン事件﹂の解決にあたる。 1816年︵文化13年︶5月に勘定奉行勝手方兼務︵松前奉行は12月に退任︶となる。1819年︵文政2年︶閏4月に勘定奉行公事方となり、道中奉行も兼務。同年6月に行われた小判の吹替えにより同年末迄に銀相場が高騰し、世間の奢侈的な風潮の中、幕府の支出増加による財政悪化を解消するため、貞勝の上申により出目︵改鋳利益︶獲得を目的として小判に遅れること1年後、丁銀の貨幣吹替えが行われた︵文政丁銀︶。 但し貞勝は同年9月、小普請組支配となっている。1824年︵文政7年︶死去。墓所は服部氏の領地であった赤堤村︵東京都世田谷区赤堤3丁目︶の西福寺。 同年に子息の貞陽が建立した、幕府侍講成島司直の撰文、戸川安恵揮毫の墓碑が残る。