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人物とエピソード[編集]
●川島芳子に対し、利害関係なく愛情を注いだ数少ない人物である。
●芳子からは﹃赤羽のお母様﹄と呼ばれて親しまれ、芳子が甘えられる数少ない人物であった。
●利発な芳子のことを考え、単なる家庭教師には終わりたくない気持ちもあり、まつ江は謝金を断ったという。
●芳子は食事の時、まつ江の好物が膳に乗っていると、﹁わたし、これ嫌いだから赤羽のお母様召し上がって﹂と言って押し付けたという。芳子は何でも気のつく優しい子供だったそうだが、ひねくれた愛情を見せる子だったのであろう。
●まつ江は、当時にしてはインテリな女性であり、また国際的視野を持つ人物と思われる。
●結婚直後に3年間の留学生活に入るという、行動力の裏には、僧侶である夫の絶大な信頼関係があったからであり、その信頼関係は終生変わらなかったという。
●1933年︵昭和8年︶の再会の時は、芳子は事前にまつ江に手紙を出し、﹁久しぶりにお母様に会へると思ふと、飛びあがりたくなるようにうれしゆうございます。お出での時には、栄泉堂の最中と甘納豆をドッサリ買って来てね﹂と書いている。
●戦後、逮捕された芳子の獄中からの書簡の中に、﹁このわたしが死んだと聞いて、悲哀の涙にかきくれ、心から歎いて下さるのは、赤羽のお母様だらう﹂という、赤羽まつ江に関する記述がある。
●蔣介石夫人の宋美齢とは、コロンビア大学で同じ留学生クラブだった。
●芳子が戦後、軍事裁判で漢奸として処させると知るや、芳子の助命活動を始める。まずは松本の浅間温泉にいた芳子の養父・川島浪速を訪ね、散在している松本高女の卒業生を訪ね、東奔西走ののち、3千名以上の署名を集めた。その趣旨は﹁芳子はすでに日本人であるから、漢奸として扱うべきではない﹂というものだった。食糧難、交通難の中、親戚友人から寄せられた資金で上京。長年親交のある大妻コタカを訪ねて落ち着くと、政界の各方面に足を運んで援助を要請した。まず社会党の松岡駒吉、長野・愛知県選出の国会議員、川島浪速と懇意の頭山満の三男・頭山秀三、GHQの幹部などに再三訪問した。しかし、多大な協力によりいよいよ北京へ飛ぶ段取りがついた時、ラジオ放送で芳子の処刑を聞いて、精根尽き果てたまつ江は卒倒したという。
栄典・表彰[編集]
●1962年︵昭和37年︶11月 日本宗教連盟理事長より表彰
●1966年︵昭和41年︶7月 名古屋矯正管区長により感謝状授与
●1969年︵昭和44年︶4月26日 勲六等瑞宝章
関連文献[編集]
●本多まつ江顕彰会﹃松風の跡﹄本多まつ江顕彰会︵非売品︶1971年
●渡辺龍策﹃川島芳子 その生涯 見果てぬ滄海﹄番町書房 1972年︵単行本︶
●渡辺龍策﹃川島芳子 その生涯 見果てぬ滄海︵うみ︶﹄徳間文庫 1985年
●上坂冬子﹃男装の麗人・川島芳子伝﹄ 文藝春秋 1984年 ︵単行本︶
●上坂冬子﹃男装の麗人・川島芳子伝﹄ 文春文庫 1988年
●上坂冬子﹃女たちが経験したこと 昭和女性史三部作﹄ 中央公論新社︵新版︶ 2000年