福澤一太郎
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福澤 一太郎︵ふくざわ いちたろう、文久3年10月12日︵1863年11月22日[1]︶ - 昭和13年︵1938年︶6月4日[2]︶は、日本の教育家。慶應義塾創始者福澤諭吉と錦夫妻の長男。
生涯[編集]
江戸築地鉄砲洲︵現東京都中央区明石町︶にあった豊前中津藩中屋敷内で生まれ、両親の教育を経て明治5年︵1872年︶に弟の捨次郎と共に英語を習い始めた[3]。父から愛情を受けて育ち、明治3年︵1870年︶に母の安産祈願のため弟と一緒に父に三田の水天宮へ連れられ、明治4年︵1871年︶には教訓集﹃ひゞのをしへ﹄を書き与えられ、明治7年︵1874年︶からは父が住み込みの家庭教師にした宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーから英語を学んだ[4][5]。一方で人と交わることが苦手で、父から繊細な性格を心配され明治13年︵1880年︶に心得書を書き与えられている[2]。 捨次郎と共に東京大学予備門へ入学したが学風が合わず、体調を崩したこともあり明治15年︵1882年︶に退学して慶應義塾へ移り、明治16年︵1883年︶6月にアメリカへ留学した。しかしオハイオ州オーバリン、ニューヨーク州ポキプシー、同州コーネル大学で農学を学んだが、自身の希望と合わず明治19年︵1886年︶に退学、捨次郎とヨーロッパへ旅行した末の明治21年︵1888年︶11月4日に帰国した[2][6]。 以後は慶應義塾で活動、大学部設立後は文学科で英文学・歴史を講じて教鞭をとったが、やがて教壇に立たなくなり、明治40年︵1907年︶12月に慶應義塾社頭に就任、亡くなるまで30年余り在任した︵大正11年︵1922年︶12月から翌大正12年︵1923年︶11月まで慶應義塾長も兼任︶[2]。また一時時事新報に勤めたこともあり、明治32年︵1899年︶には父の教え子小幡篤次郎・石河幹明・鎌田栄吉・門野幾之進・土屋元作や捨次郎と共に﹃修身要領﹄編纂に当たった[2][7]。昭和13年︵1938年︶6月4日に死去、享年74。家族[編集]
2度結婚したが、明治22年︵1889年︶4月に結婚した最初の妻かつは1年ほどで離婚した[2]。この時期、妹の里が腸チフスにかかり重病で、父が必死に看病していた最中の明治22年11月に離婚のため実家へ戻ったことがきっかけになっていた[8]。 明治23年︵1890年︶4月に宇都宮三郎の義妹に当たる糸︵大澤昌督の娘・大澤三之助の妹・1871年生︶と再婚、1男2女を儲けた[2][9][10]。脚注[編集]
- ^ 西川俊作 & 西澤直子 1998, p. 92.
- ^ a b c d e f g 福沢諭吉事典編集委員会 2010, p. 561.
- ^ 福沢諭吉事典編集委員会 2010, p. 560-561.
- ^ 平山洋 2008, p. 248.
- ^ 小室正紀 2013, p. 123-126.
- ^ 平山洋 2008, p. 337-338.
- ^ 平山洋 2008, p. 375.
- ^ 西川俊作 & 西澤直子 1998, p. 237-238.
- ^ 人事興信録4 2001, p. ふ51.
- ^ 人事興信録7 2001, p. ふ78.
- ^ 名古屋大学大学院法学研究科『人事興信録』データベース『福澤駒吉』 第8版,1928年7月]
参考文献[編集]
- 西川俊作・西澤直子編『ふだん着の福澤諭吉』慶應義塾大学出版会(Keio UP選書)、1998年。
- 『人事興信録 第4版 下巻 復刻版』興信データ、2001年。
- 『人事興信録 第7版 下巻 復刻版』興信データ、2001年。
- 平山洋『福澤諭吉 文明の政治には六つの要訣あり』ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)、2008年。
- 福沢諭吉事典編集委員会編『福澤諭吉事典』慶応義塾、2010年。
- 小室正紀編『近代日本と福澤諭吉』慶應義塾大学出版会、2013年。