秋田戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋田戦争
戦争秋田戦争
年月日慶応4年7月11日1868年8月28日)- 同年9月17日11月1日
場所出羽国(現在の山形県最上地方秋田県のほぼ全域)
結果新政府軍官軍)の勝利
交戦勢力
新政府軍
(奥羽鎮撫隊)
旧幕府軍
奥羽越列藩同盟
指導者・指揮官
九条道孝
奥羽鎮撫総督
酒井忠篤
(庄内藩主)
戦力
10,327(久保田、本荘、亀田、矢島、仁賀保) 約2,000(庄内、松山、仙台、上山、山形)
約2,000名(盛岡)
損害
戦死者:461名(久保田藩士)、56名(佐賀藩士) 戦死者:332名
負傷者:412名(庄内藩士)
戊辰戦争

鹿

[]

[]


2,031184

[]


西


[]




411518681292171868310461868428



4201868610

調退1

鹿

使741868821使11

[]

[]

[]


761,000沿1,000711鹿

鹿712

711宿使

711宿7124713

714

8185811813151鹿

813退13

8月14日に庄内二番大隊は田村新田を出発して、昼前に角間川村についた。一方新政府軍は、澤為量副総督が本営を神宮寺に置き、増援部隊が次々に到着して、神宮寺・太平山を中心として雄物川対岸に巨大な防衛陣地を築いていた。18日より庄内軍は神宮寺攻略を始める。20日と22日に攻撃をするが失敗する。


8234鹿

82582622宿

828826退96


海道口の戦い[編集]


鹿200退

7288182

854退退86退

81314817

椿[]


82792

97298

内陸を進んだ庄内一番大隊・二番大隊と、由利から高尾山を越えて秋田に入った四番大隊が、こうして連携を取るようになった。9月9日には椿台(秋田市雄和)の目前に達した。


椿312km椿

910椿椿椿911912

82891291399912使913

914退

915162退91723

庄内藩の降伏[編集]


西927調70西西鹿

[]

[]


鹿8988退退

11124

8131158141001

20124006

大館城攻城戦[編集]


22589

13

きみまち阪周辺の戦い[編集]


退232425

25265

28退退300

29退

8月28日盛岡藩は庄内藩と共同で久保田藩を攻撃しようとし、角館方面にも攻め込んだ。

岩瀬会戦と大館戦[編集]


309126退退沿退辿4

2日から5日にかけては大館近郊での戦いが続いた。双方必死の攻防が続いた。6日朝6時に大館への総攻撃を計画していた久保田藩側だったが、盛岡藩側は扇田村が占領され退路を断たれる危険性をおそれたのか、5日夜に既に大館を総撤退しており戦闘はなかった。6日久保田藩は大館を奪還した。

7日久保田藩兵側は藩境の町である十二所を回復した。その後、十二所地区や雪沢地区で、終戦まで一進一退の攻防が続いた。盛岡藩側も藩境を突破されないように強硬に抵抗を行った。

盛岡藩の降伏[編集]


22使25

[]

[]


32使151675,00015,000375,00050,00025,000100,00070,00055,000[1]

218696215112

1502018[2]

[]


167,0001230[3]25,0002,500

西西7831870鹿4西西西西188922西西

[]


2013

2722133710

[]


退22,000


[]

[]


19305432

[]


200012in

[]


1986613542020[4]

1502018512竿in88

脚注[編集]



(一)^ ISBN 978-4-89544-633-4198212pp.169-170沿 p.225

(二)^  20181116.  . 202161

(三)^ 70

(四)^  . . (20201019). https://www.asahi.com/articles/ASNBL6R64NBLULUC003.html 

参考文献[編集]

  • 誉田慶恩、横山昭男『山形県の歴史』山川出版社,1970年
  • 星亮一、戊辰戦争研究委員会編『戊辰戦争を歩く』光人社、2010年
  • 『三百藩戊辰戦争事典 (上)』人物往来社、2000年
  • 『三百藩戊辰戦争事典 (下)』人物往来社、2000年
  • 郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』人物往来社、2001年
  • 狩野徳蔵 編、『戊辰出羽戦記』、吉川半七、1890年4月[1]