軍隊調理法
表示
﹃軍隊調理法﹄︵ぐんたいちょうりほう︶は、大日本帝国陸軍が昭和期に編纂・発行した料理の基礎と献立をまとめたレシピ集。本稿では明治期に編纂された、﹃軍隊調理法﹄の前身である﹃軍隊料理法﹄︵ぐんたいりょうりほう︶および、兵食︵へいしょく︶と称される﹁軍隊料理﹂こと﹁帝国陸軍の食事︵﹁日本陸軍の食事﹂︶﹂自体についても詳述する。
なお、本書は主に兵営や駐屯地において調理される兵食のレシピであり、乾パン・缶詰肉︵大和煮など︶・乾燥食品・粉末調味料などといった演習地や戦地でも前線で食される野戦糧食︵戦用糧食・携帯口糧・レーション︶については別に開発・供給されている[1]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/The_National_Art_Center_Annex.jpg/200px-The_National_Art_Center_Annex.jpg)
部分現存する麻布歩兵第3連隊の兵舎
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Sendai_City_Museum_of_History_and_Folklore_20090910.JPG/200px-Sendai_City_Museum_of_History_and_Folklore_20090910.JPG)
現存する仙台歩兵第4連隊の兵舎
基本的に兵は兵舎内の所属内務班の大部屋︵起居を含む普段の居住場所︶で、炊事場で調理された食缶入りの兵食を運び︵﹁飯上げ﹂︶、部屋で食器に盛り分けて食べる。兵と同様に営内居住者である下級下士官は専用の下士官室︵起居を含む普段の居住場所および仕事場所︶ないし下士官集会所︵准士官下士官集会所︶で食べる︵配膳は当番兵が行う︶。
営外居住者である准士官・上級下士官は昼食こそ下士官室ないし下士官集会所で行うが︵朝食・夕食は自宅︶、兵食ではなく持込弁当や、注文した出入業者の仕出弁当や出前の店屋物を自費で食べる[8]。同じく営外居住者である将校の食事も同様に自費であり原則兵食は食さず、基本的に将校集会所で部隊長以下が揃う会食形式であった。食事は部隊の炊事場で行われるか、将校集会所内の厨房で部隊指定の出入業者が下準備済みの食材を持ち込み調理し提供され、メニューは民間と同等の和洋中各種料理であった[9]︵将校自身や将校集会所には当番兵が配される︶。これら将校准士官および上級下士官は週番や超過勤務の場合などに兵食を食すことも可能であるが、その場合は衣食住が保障されている営内居住者と異なり有料であり月々の給料から食事代が引かれる。ほか、食堂・レストランでの外食も可能である。
全寮制の軍学校︵陸軍士官学校・陸軍航空士官学校・陸軍予科士官学校・陸軍予備士官学校・陸軍幼年学校・東京陸軍少年飛行兵学校・陸軍少年戦車兵学校等︶では、一般諸部隊と異なり校内に設けられている食堂で生徒達は兵食を食す。
兵食[編集]
厳しい軍隊生活において、日々の食事は給養のみならず士気の観点からも重要であった。そのため帝国陸海軍の兵食には、戦前の日本人が慣れ親しんでいた食物のみならず、パン食・洋食・肉食を積極的に取り入れたメニュー、おやつ︵デザート︶といった嗜好品、飽きさせない副食の設定がされていた。当時の日本の一般庶民、特に地方では大多数を占めた農民の子弟の兵士たちにとって、娑婆︵俗世間︶と異なる軍隊の食事は、兵舎のベッド︵寝台︶や洋服︵軍服︶と共に新鮮なものであった。 一例として、のちに﹁兵隊作家﹂となる棟田博は、昭和恐慌当時の1929年︵昭和4年︶1月から1930年︵昭和5年︶11月にかけて現役兵として在隊していた岡山歩兵第10連隊の兵食事情について、以下の如く懐古している。 ●﹁あの時代の一般家庭の食事にくらべると、たしかに当時の軍隊の食事は上等であり、ご馳走の名にふさわしいものだったと思う﹂[2] ●﹁こういう時代背景を思いあわせると、軍隊の兵食は、眉に唾をつけて聞きたくなるほどのゼイタクであったといえる﹂[3] ●﹁ぼくは、じかに聞いたわけではないが、Aは同年兵の仲良しに洩らしていたそうである。こんなうまいもの︵たぶん、トンカツとかコロッケであったろう︶は、うちの者は口にすることがない。わしだけこうして食べるのが辛い、と﹂︵同じ内務班の初年兵Aについて︶[4] 情報量の少なかった戦前において、日本全国津々浦々への﹁国民食﹂の普及という観点からすると本書の影響は大きかった︵#炊事場・調理員︶。﹃軍隊調理法﹄および兵食について作家の山本七平は﹁おふくろの味という言葉があるが、当時の軍隊食は、まさに日本的平均おふくろの味であった﹂[5]と、伊藤桂一は﹁元兵隊だった人たちは、この本の料理を通じて、当時を郷愁し、話題をゆたかにされるだろう﹂[5]との言葉を残している。また、﹁天皇の料理番﹂こと秋山徳蔵が少年期当時に家業の関係で訪れた鯖江歩兵第36連隊将校集会所で初めて口にしたカツレツの味に衝撃を受け、これをきっかけに西洋料理人を志し、のちに宮内省大膳寮司厨長︵宮内庁管理部大膳課主厨長︶となったことが知られている。 なお、改訂昭和12年版﹃軍隊調理法﹄の前書きに 本書ハ軍隊兵食調理ニ關スル一般ノ原則竝標準ヲ示セルモノナルヲ以テ、之カ實施ニ當リテハ部隊ノ性質、土地、氣候、物資、設備、嗜好等ニ應シ適宜斟酌ヲ加ヘ克ク其ノ實状ニ適應セシムルモノトス — ﹃軍隊調理法﹄ とある通り、﹃軍隊調理法﹄はあくまで合理的な参考レシピであり、帝国陸軍においては同じ料理であっても各部隊等によってある程度の独自性・個性がありバラエティ豊かなものであった。炊事場・調理員[編集]
部隊の食事︵兵食︶は部隊本部の隷下である経理委員︵部隊の糧秣を掌る経理部主計将兵で構成。歩兵連隊では首座である陸軍主計少佐ないし陸軍主計大尉以下委員全員が主計将校︶が運営し、献立の決定や食材・調理機械の購入などを行う。炊事場では経理委員の配下である炊事班長︵古参の軍曹︶が後述の調理員となる炊事兵や、食材などの納入を行う出入業者を監督した。 兵食は部隊などの炊事場で調理されるが、その調理員はその部隊の兵員で構成される︵炊事兵︶。その選考は中隊の人事掛准尉︵特務曹長︶が行い、毎期入営してくる新兵の前職・特技・家業・性格・性根等を鑑み入営約3、4ヶ月後の第一期検閲時期に選抜者を炊事兵に指名した[6]。そのため板前やコックといった元料理人は優先的に炊事兵に指名されるが、入営者にそのような適当な者が居ない場合は畑違いの者が充当される。なお、炊事兵以外にも銃工兵・靴工兵・縫工兵・蹄鉄工兵・通信兵・鳩兵・衛生兵・喇叭兵などがあり、これらは﹁特業兵﹂と称しそれら分野の専門者となる。 炊事兵は普段の居住場所こそ内務班の大部屋であるが生活や勤務内容は一般兵とは別立てであり、午前2時や3時の真夜中に不寝番に起こされ炊事場に出勤し︵昼食後に炊事場で仮眠が与えられる︶日夕点呼頃に班に戻り、三度の食事も班ではなく炊事場で食した。炊事兵ほか﹁特業兵﹂は歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵・戦車兵・船舶兵などといった兵科ないし兵種に属し、それらの部隊で勤務するが、一般の兵と異なり演習への不参加が許可されるなど区別はされた。炊事兵の役得として﹁炊事特製﹂とも称されるトンカツやステーキといったスペシャル料理を作ることができ、面倒見の良い古兵の炊事兵は普段洗濯といった自身の身の回りの世話を行ってくれている初年兵︵﹁戦友﹂と称す︶に、この﹁炊事特製﹂をこっそり持ち帰り与えることもあった[7]。 軍隊を除隊し﹁地方﹂に帰ったそれら元特業兵の中には軍隊時代の﹁特業﹂の経験を生かした職に就く者もおり、元炊事兵は料理人として食堂・レストランを開業することもあった。料理人にならなかった元炊事兵も軍隊で覚えた食事・調理法を﹁地方﹂に持ち帰った。食事場所[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/The_National_Art_Center_Annex.jpg/200px-The_National_Art_Center_Annex.jpg)
食事喇叭[編集]
帝国陸軍に限らず古今東西の軍隊では、起床から就寝に至るまで喇叭兵が吹奏する喇叭︵ラッパ / らっぱ︶の音色︵喇叭譜︶をもってこれらの時間を将兵に伝えており︵日課号音︶、食事にも喇叭譜︵喇叭譜﹁食事﹂・食事喇叭︶が存在する。各喇叭譜には将兵によって非公式の歌詞がつけられ口ずさまれるなど親しまれており、食事喇叭には一例として﹁一中隊と二中隊はまだ飯食わぬ 三中隊はもう飯食って食器上げた﹂の詞があてられている。
なお、この食事喇叭は﹁帝国陸軍の喇叭﹂を社章︵﹁ラッパのマーク﹂︶とする大幸薬品の正露丸のCMに1951年︵昭和26年︶から使用され、突撃喇叭︵喇叭譜﹁突撃﹂︶とともに広く世間に知られている。
材料 豚︵又は鮫、牛肉︶ 一〇〇瓦 パン粉 二〇瓦 胡椒 少量 ラード 二〇瓦 小麦粉 一〇瓦 食塩 少量 卵 四瓦 ソース 二〇竓 附け合せ 玉菜又は白菜︵又は吹馬鈴︶ 二〇〇瓦 ソース 一五竓 準備 イ、豚肉又は鮫は一糎位厚一人一切宛の大切りとなし、之に食塩、胡椒を振りかけ置く。ロ、卵は割りて等量の水を加へ良く攪拌し置く。 調理 肉は小麦粉をまぶし、之を卵水に浸し、次にパン粉をまぶし両手にて圧えてよく付け、十分間位して揚笊に並べ、煮立て置きたるラードの将に煙立たんとするとき投じて火の通る迄揚げる。 備考 硬き肉を使用するときは良く筋を取り、魚切包丁の背にて叩き肉の周囲に包丁目を入れておく。 — ﹃軍隊調理法﹄一九五ページ
概要[編集]
﹃軍隊料理法﹄[編集]
日清戦争や日露戦争で兵士の脚気に悩まされた帝国陸軍は兵食を含む糧食の向上に取り組んでいた。脚気が細菌による感染症などでなく、ビタミンB1つまりチアミンの欠乏であると明らかにされてから[10]、陸軍糧秣本廠︵陸軍省外局︶は安価で栄養価に富み、調理も容易な料理レシピの開発を続けていた。 その様な状況で編纂され、明治末期の1910年︵明治43年︶の﹁明治43年陸普3134号﹂で制定されたレシピ集が﹃軍隊料理法﹄である[11]。本書は近衛師団を筆頭に各師団の隷下部隊︵歩兵連隊・騎兵連隊等︶・ 各軍学校︵陸軍士官学校等︶・各陸軍病院・各陸軍衛戍監獄、および外地に駐留する台湾軍・韓国駐箚軍・関東軍・樺太守備隊といった軍隊ないし学校に配賦された[12]。 計145ページの﹃軍隊料理法﹄の構成は、﹁第一章 調理ノ心得 第一節 鹽梅﹂︵塩梅︶にはじまり、﹁配合ト盛リ方﹂・﹁食ノ習慣﹂・﹁炊事用材料ノ取扱方﹂・﹁切方﹂・﹁串ノ刺方﹂・﹁煠方﹂︵茹方︶・﹁材料ノ使方﹂・﹁煮汁ノ使用法﹂の各節が続き、特に﹁切方﹂・﹁串ノ刺方﹂の節では詳細な絵図が用いられ初心者にも分かりやすく料理のイロハ・心得が詳述されている。﹁第二章 各種調理法﹂・﹁第三章 麭類﹂・﹁第四章 菓子類﹂で各レシピが列挙され、﹁第五章 戰用糧食品使用法﹂では野戦糧食について、﹁第六章 食品撰擇標準﹂︵食品選択標準︶では文字通り食材や調味料の目利きおよび燃料︵薪・木炭・石炭︶についての説明がある。﹃軍隊調理法﹄[編集]
時代を経た1928年︵昭和3年︶、﹃軍隊料理法﹄に代わり﹁昭和3年陸普第3548号﹂で制定された﹃軍隊調理法﹄は炊事調理実施上の参考資料として配賦されたが、さらに糧秣廠や部隊において調理研究を行った結果、更なる加味が求められたため1931年︵昭和6年︶の﹁昭和6年陸普第3759号﹂で改訂・制定・配賦された[13]。 1937年︵昭和12年︶、﹁昭和12年陸普第3678号﹂で﹃軍隊調理法﹄はさらに改訂され、これが支那事変︵日中戦争︶・太平洋戦争︵大東亜戦争︶における事実上の﹁帝国陸軍のレシピ﹂となった[14]。なお、同1932年にはこの﹃軍隊調理法﹄のほかにも陸軍糧秣本廠は四季に対応する理想献立を明記した﹃陸軍兵食四季標準献立表﹄が関係部隊に配賦されている[15]。 計440ページ近い改訂昭和12年版﹃軍隊調理法﹄の構成は、﹁第一章 調理一般の心得 第一 基本調理﹂にはじまり、﹁火の焚き方﹂・﹁選方﹂・﹁洗ひ方﹂・﹁切方﹂・﹁茹方﹂・﹁煮方﹂・﹁蒸方﹂・﹁燒方﹂・﹁揚方﹂・﹁和方﹂︵あえ方︶・﹁味の付方﹂・﹁飯の炊き方﹂と続き、かつての﹃軍隊料理法﹄と同様に詳細な絵図が用いられるなど配慮がされている。﹁第二章 調理法﹂で各レシピが列挙され、﹁附録﹂︵付録︶では乾燥野菜各種と特殊調味料の使用法を説明、末尾には度量衡早見表として﹁貫とキログラム/キログラムと貫﹂・﹁斤とキログラム/キログラムと斤﹂・﹁升とリットル/リットルと升﹂・﹁尺とメートル/メートルと尺﹂の速算表やラテン文字略字が付されていた。 ﹃軍隊調理法﹄の発行は、主に糧友会︵1925年︵大正14年︶に食糧問題の研究・改善を目的として、陸軍省を中心に内務省・農林省など各省庁が関わり設立された陸軍糧秣本廠の外郭団体。東京栄養食糧専門学校などを運営する現在の学校法人食糧学院の前身︶が行っていた。書籍である﹃軍隊調理法﹄は1937年以降も版を重ねていき、帝国陸軍の解体まで広く使用された。レシピ例[編集]
﹃軍隊調理法﹄は、﹃軍隊料理法﹄と比べ全体的に分かりやすく・見やすく改良されておりレシピ集としてより完成したものとなっている。レシピは軍隊らしく極めて合理的なところがあり、調理方法の記述は概ね数行程度に抑えられ、また﹁煮立て置きたるラードの将に煙立たんとするとき投じて﹂︵カツレツ︶・﹁サラダ油を少しづゝ流し固くなり過ぎたる時酢を少し入れて緩るめ﹂︵マヨネーズ︶・﹁煉乳缶を切りて器にあけ、其空缶にて五杯の水、或は湯を投入して﹂︵カルピス様飲料︶といったように、あえて詳述しない独特の言い回しを用いている特徴がある。 以下に参考として兵食の人気メニューであったカツレツのレシピを記す︵改訂昭和12年版﹃軍隊調理法﹄、原文縦書き・旧字体︶。 四、カツレツ 熱量六九四、カロリー 蛋白質 二二・〇六瓦材料 豚︵又は鮫、牛肉︶ 一〇〇瓦 パン粉 二〇瓦 胡椒 少量 ラード 二〇瓦 小麦粉 一〇瓦 食塩 少量 卵 四瓦 ソース 二〇竓 附け合せ 玉菜又は白菜︵又は吹馬鈴︶ 二〇〇瓦 ソース 一五竓 準備 イ、豚肉又は鮫は一糎位厚一人一切宛の大切りとなし、之に食塩、胡椒を振りかけ置く。ロ、卵は割りて等量の水を加へ良く攪拌し置く。 調理 肉は小麦粉をまぶし、之を卵水に浸し、次にパン粉をまぶし両手にて圧えてよく付け、十分間位して揚笊に並べ、煮立て置きたるラードの将に煙立たんとするとき投じて火の通る迄揚げる。 備考 硬き肉を使用するときは良く筋を取り、魚切包丁の背にて叩き肉の周囲に包丁目を入れておく。 — ﹃軍隊調理法﹄一九五ページ