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聯合映畫藝術家協會︵れんごうえいがげいじゅつかきょうかい、大正14年︵1925年︶設立 -昭和2年︵1927年︶ 解散︶は、かつて奈良に存在した日本の映画会社である。小説家の直木三十五が設立し、マキノ・プロダクションから撮影所を提供されて映画を連作した。
1925年︵大正14年︶3月、直木三十五︵当時34歳、﹁直木三十三﹂名義[1]︶が設立、経営に根岸寛一、文芸部に文藝春秋社を開いた菊池寛を招いた。同協会の撮影所は奈良・東大寺戒壇院近辺にあった。設立第一作は、マキノ省三に大いに協力を受け、東亜キネマ等持院撮影所で撮影した衣笠貞之助監督の﹃月形半平太﹄で、同年5月15日に﹁浅草大東京﹂ほかで公開された。同作のキャストは、マキノが同年正月に撮った﹃国定忠治﹄とまったく同じ陣容がそのまま出演している。
同年9月4日に公開された設立第2作﹃弥陀ヶ原の殺陣﹄の原作にクレジットされている﹁西方弥陀六﹂とは、のちの大河内傳次郎のペンネームである。同作は大河内の映画初出演作であり︵﹁室町次郎﹂名義︶、引き続き撮影された高松プロダクション製作の﹃義憤の血煙﹄︵監督高松操︶で大河内は早くも初主演となった。﹃義憤の血煙﹄には、大河内はもちろんのこと、原健作、榊亀治、西村実、森敏治ら、前者のキャストが引き続きそのまま出演している。﹃弥陀ヶ原の殺陣﹄は、直木が脚本を書いた中川映画製作所製作の﹃室町御所﹄と二本立てで公開されている。
1926年︵大正15年/昭和元年︶には、前年、帝国キネマの内紛から生まれた東邦映画製作所の設立第一作﹃煙﹄を撮った伊藤大輔が同社を飛び出し、直木の動きに合流、伊藤映画研究所を設立する。設立第一作は菊池寛原作の﹃京子と倭文子﹄で、かつて谷崎潤一郎が大正活映の設立第一作で妻の妹葉山三千子をデビューさせたように、直木は同作で当時の愛人の香西梨枝、実娘の直木木ノ実︵子役︶をデビューさせている。いっぽう同年の衣笠は、新感覚派映画連盟として﹃狂つた一頁﹄を発表後衣笠映画連盟を設立、マキノ省三の庇護下から飛び出し、松竹キネマと組むことになる。
1927年︵昭和2年︶5月にはマキノ・プロダクションが現在の名古屋市南区道徳新町に﹁マキノ中部撮影所﹂を開所しており、鈴木謙作監督の﹃新珠﹄と﹃炎の空﹄は、同撮影所をレンタルして撮影している。なお、﹃新珠﹄は同作の公開のわずか2日後に、松竹蒲田撮影所が島津保次郎監督、鈴木伝明主演の同一原作の同一タイトル作をぶつけてきている。
製作費6,000円で都内4館で封切れば3,000円の利益が出る、というビジネス・スキームを胸に、直木は映画事業に傾注したが、ヒットは第一作の﹃月形半平太﹄のみ。最終的に多大な負債を抱え、﹁キネマ界児戯に類す﹂と言い放ち、直木は映画事業から撤退した[2]。
文学の菊池寛や直木のみならず新感覚派の横光利一ら、漫画の﹃ノンキナトウサン﹄︵報知新聞連載︶、無声映画ニューウェイヴともいうべき衣笠貞之助や伊藤大輔、俳優の大河内傳次郎、そして東京のインディペンデント派の﹁台風の目﹂であるタカマツ・アズマプロダクションの面々が、マキノ省三と直木三十五を巨大な二連星として繰りひろげる、当時の大正サブカルチャーのクロスオーヴァーの現場が、まさに﹁連合映画芸術家協会﹂であったといえる。
直木三十五自身も脚本を書き、監督している。﹃一寸法師﹄の演出中、志波西果監督が逃亡し、後半直木が演出に乗り出したのに次いで、﹁新青年﹂誌に連載中の小酒井不木の﹃疑問の黒枠﹄を掲載誌を片手にシナリオもなく撮ったという[3]。
直木三十五は当時、映画界からは﹁作家ゴロ﹂、﹁映画ゴロ﹂などと陰口を叩かれて、評判が良くなかった。東亜キネマとマキノ・プロダクション間のいざこざを幸いと、聯合映画芸術家協会はマキノ省三に取り入り、衣笠監督に﹃弥陀ヶ原の殺陣﹄を撮らせ、続いて奈良の中川映画製作所に中川紫郎監督︵名義は総指揮︶、直木三十五脚色で﹃室町御所﹄を撮らせ、マキノに売りつけている。
マキノ雅弘は﹃室町御所﹄に出演した姉の輝子について、助監督を務めたが、このとき中川紫郎監督に﹁三年間俺の助監督につけば、日本一の監督にしてやる﹂と云われた。しかしマキノは﹁当の中川紫郎監督の映画を見たら、ひどい作品であった。聯合映画芸術家協会とは名ばかり、およそ﹃芸術﹄とはかけ離れた協会作品であった﹂と述べている。
聯合映画芸術家協会の作品のほとんどは、マキノに出資させて製作したものだった。のちに﹁大衆文芸同人﹂と名を改め、同じ陣容で﹃野火﹄を製作。マキノ雅弘は﹁大衆文芸同人も聯合映画芸術家協会も、相手は活動屋だとタカをくくって食い物にしていたようだ。連中に振り回されて、マキノは、せいぜいどっかの雑誌屋の宣伝のための映画を客に見せていたのではなかったろうか﹂と、﹁カツドウヤ﹂の立場からこの団体を痛烈に批判している[4]。
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