野村浩将
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のむら ひろまさ 野村 浩将 | |
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キネマ旬報社『キネマ旬報』第481号(1933)より | |
本名 |
野村 員彦 のむら かずひこ (兼初期名) |
別名義 |
錦 美奈仁 にしき みなひと (伏見晁と共同) |
生年月日 | 1905年8月16日 |
没年月日 | 1979年7月8日(73歳没) |
出生地 | 日本 京都府 |
死没地 | 日本 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | 映画、テレビ映画 |
活動期間 | 1924年 - 1960年 |
活動内容 |
1924年 松竹蒲田に入社 1930年 監督デビュー 1931年 「与太者シリーズ」開始 1936年 松竹大船へ異動 1948年 新東宝に移籍 1960年 テレビ映画を監督 |
主な作品 | |
「与太者シリーズ」(全11作、1931年 - 1935年) 『人妻椿』 『愛染かつら』 |
野村 浩将︵のむら ひろまさ、1905年8月16日 - 1979年7月8日︶は、日本の映画監督、脚本家である。本名は野村 員彦︵-かずひこ︶、監督としてのデビュー時は本名でクレジットされた。
﹃力と女の世の中﹄、1932年 - 1933年
1931年︵昭和6年︶12月4日公開の﹃令嬢と与太者﹄がヒット[1]、磯野秋雄、三井秀男︵のちの三井弘次︶、阿部正三郎の3人組の﹁与太者シリーズ﹂として連作され、1935年︵昭和10年︶12月31日公開の﹃与太者と若夫婦﹄まで全11作を野村がすべて監督した。
1932年︵昭和7年︶には、松竹が政岡憲三を招いて前年から取り組んでいた、日本初のトーキーによるアニメーション映画﹃力と女の世の中﹄で、アフレコ演出を行い、﹁発声監督﹂としてクレジットされた。
1936年︵昭和11年︶、松竹大船撮影所へ異動した。同年に監督した川崎弘子主演の映画﹃人妻椿﹄、1938年︵昭和13年︶に監督した田中絹代主演映画﹃愛染かつら﹄で名を馳せる[1]。
第二次世界大戦後の1948年︵昭和23年︶、水戸光子・佐分利信主演の﹃駒鳥夫人﹄を最後に松竹を退社、新東宝に移籍した。同社での初仕事は、1949年︵昭和24年︶1月4日公開、上原謙・高杉早苗主演の﹃夢よもういちど﹄であった。1956年︵昭和31年︶、同社を離れ、大映で﹃祇園の姉妹﹄を含め、東京と京都の両撮影所で4作を監督した。1957年︵昭和32年︶に新東宝に復帰、﹃戦雲アジアの女王﹄を監督した。新東宝では、1959年︵昭和34年︶公開の日米映画製作、新東宝配給作品﹃恐怖の罠﹄まで、通算18本を監督した。
1960年︵昭和35年︶、テレビ映画﹃諜報﹄を監督、同年4月21日にフジテレビで放映された。
1979年︵昭和54年︶7月8日に死去した。満73歳没。生涯に100本を監督した[2]。
2005年︵平成17年︶11月、東京国立近代美術館フィルムセンターで、生誕百年を記念し、同年生まれの斎藤寅次郎とともに回顧上映が行われた[1]。
人物・来歴[編集]
1905年︵明治38年︶8月16日、京都府に生まれる。 1924年︵大正13年︶、松竹キネマの松竹蒲田撮影所に入社する[1]。助監督を務め、1930年︵昭和5年︶、鈴木伝明・田中絹代主演の映画﹃鉄拳制裁﹄で監督としてデビューした。デビュー時のペンネームは﹁野村員彦﹂名義であった。翌年の監督第8作﹃涙の愛嬌者﹄から﹁野村浩将﹂となる。おもなフィルモグラフィ[編集]
- 『鉄拳制裁』 : 1930年
- 『令嬢と与太者』 : 1931年
- 『力と女の世の中』 : 監督政岡憲三、1932年 - 1933年 - 発声監督
- 『与太者と若夫婦』 : 1935年
- 『人妻椿』 : 1936年
- 『国民の誓』 : 1938年
- 『愛染かつら』 : 1938~39年
- 『敵機空襲』 : 松竹大船1943.04.01
- 『駒鳥夫人』 : 1948年
- 『夢よもういちど』 : 1948年
- 『潜水艦ろ号 未だ浮上せず』 : 1956年
- 『祇園の姉妹』 Sisters of the Gion : 1956年
- 『戦雲アジアの女王』 Senun Ajia no joo : 1957年
- 『恐怖の罠』 : 1959年
- 『諜報』 : 1960年
註[編集]
(一)^ abcd生誕百年特集 映画監督 斎藤寅二郎と野村浩将、東京国立近代美術館フィルムセンター、2009年9月18日閲覧。
(二)^ #外部リンク欄、日本映画データベースの本稿リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。
外部リンク[編集]
- Hiromasa Nomura - IMDb(英語)
- 野村浩将 - 日本映画データベース