高屋山上陵
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高屋山上陵︵たかやのやまの えのみささぎ/たかやさんりょう/たかやさんじょうりょう︶は、日本書紀に現れる天津日高彦火火出見尊︵ホオリ︶の陵。
可愛山陵︵えのみささぎ、瓊瓊杵尊陵︶・吾平山上陵︵あひらのやまの えのみささぎ、天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊陵︶とともに、神代三山陵の一つである[1]。
歴史[編集]
﹃古事記﹄に﹁御陵者、即在二其高千穂山之西一也﹂とあり、﹃日本書紀﹄に﹁葬二高屋山上陵一﹂︵一、二は返り点︶、﹃延喜式諸陵式﹄には﹁日向高屋山上陵、彦火火出見尊陵、在二日向国一、無二陵戸一﹂とあるが、当時すでに所在が明確に知られていなかったらしい。久之、彥火火出見尊崩、葬日向高屋山上陵。近世、所在について種々の検討が行なわれた。 現在の治定地は鹿児島県︵大隅国︶であるが、大隅国は和銅6年︵713年︶にすでに日向国から分離して成立していたところ、日本書紀は720年にウガヤフキアエズが日向国︵宮崎県︶で没した旨を記録していることなどから、本来の神代三陵の場所は、宮崎県であるとする説が根強い。
現在の治定[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b5/Takaya_Sanryo%2C_haisho.jpg/280px-Takaya_Sanryo%2C_haisho.jpg)
天津日高彦火火出見尊
高屋山上陵 拝所
高屋山上陵 拝所
江戸時代後期の地誌﹃三国名勝図会﹄では内之浦︵現在の肝付町︶の北方村国見岳がその所在地とされた。
明治元年に三島通庸らが、明治3年に田中頼庸らが、1873年︵明治6年︶に樺山資雄がそれぞれ調査し、翌1874年︵明治7年︶7月10日、当時の政府によって溝辺村︵現在の霧島市︶の神割岡がホオリの陵と定められ整備された。
これは、古事記の﹁高千穂山の西﹂という記述に基づいて﹁高千穂山﹂を高千穂峰とみなし、高千穂峰の西に神割岡がありその近くに天津日高彦火火出見尊︵ホオリ︶を祀る﹁鷹大明神社﹂︵鷹屋神社︶があって、正保6年︵1649年︶の棟札に鷹屋大明神と記されていたことから﹁鷹﹂を﹁高屋﹂の﹁タカ﹂と結びつけたもの︵鷹屋=高屋である︶と考えられている[2]︵社伝によるとこの鷹屋神社は、往古は高屋山陵下の神割岡の一角に鎮座していたが、住民が神威を畏れ応永18年︵1411年︶に現在地に遷座されたという︶。
1874年︵明治7年︶、宮内省により、可愛山陵︵えのみささぎ︶、高屋山上陵︵たかやのやまの えのみささぎ︶、吾平山上陵︵あひらのやまの えのみささぎ︶が治定されたとき、高屋山上陵は鹿児島県霧島市溝辺町麓の墳墓に治定された。
御陵は標高390mの神割岡の頂にある。陵形は円墳で、鳥居と柵で仕切られた御拝所の正面から約60m上の山頂に築かれているという。山陵全体の敷地面積は約53,000平方メートルある。
明治5年5月23日に明治天皇が、1907年︵明治40年︶10月28日に当時の皇太子︵大正天皇︶の代理として侍従の有馬純文がそれぞれ参拝した。1920年︵大正9年︶3月30日には当時の皇太子︵昭和天皇︶が東郷平八郎を伴って参拝している。1940年代に皇紀2600年記念事業の一つとして東側からの参道が整備された。1962年︵昭和37年︶5月には当時の皇太子︵明仁上皇︶と皇太子妃︵上皇后美智子︶が参拝した。
1972年︵昭和47︶10月20日、第27回国民体育大会に出席するために来県した天皇、皇后が参拝[3]。
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鷹屋神社(霧島市溝辺町麓)
神威をおそれて高屋山上陵付近から遷座したという。
脚注[編集]
- ^ 奉祝会、1940。
- ^ 『日本歴史地名大系 47 鹿児島県の地名』平凡社、1998年
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、140頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
参考文献[編集]
- 溝辺町郷土誌編集委員会編『溝辺町郷土誌』、溝辺町長有馬四郎、1973年
- 紀元二千六百年鹿児島県奉祝会『神代三山陵に就いて』、紀元二千六百年鹿児島県奉祝会、1940年
関連項目[編集]
座標: 北緯31度49分36.83秒 東経130度41分28.79秒 / 北緯31.8268972度 東経130.6913306度