児童虐待、多重人格、PTSD、性同一性障害、高機能自閉症など
例‥イーサン・ウォッターズ﹃クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか﹄→2000年以降、日本のうつ病の定義を変え、その爆発的な増加を引き起こしたのは、グラクソ・スミスクライン社という一製薬会社のキャンペーンである。パキシルという抗うつ剤を日本に売り込むためにこの会社が仕掛けた戦略は驚くべきもので、DSMの普及や精神科治療の変革と手を携えて市場を創造した。市場の創造と人間の種類の創造、新しい治療法、ロビー活動、政治的圧力、医師のプライドをくすぐっていい気にさせるノウハウ、製薬会社のボロ儲け。そして背後にあった論文データのねつ造や研究者の抱き込み。実際には薬に本当に効果があるか、効果が発揮されると主張しているメカニズム自体、いまだ不明であること。
・人間の種類の創造は、一種の﹁流行﹂か?哲学的真理や自然科学の場合との比較。
・ハッキングとフーコーの違い‥フーコーの﹁知の考古学﹂と﹁権力の考古学﹂に共通する、思考の次元というか対象の取り扱い方はどんなものか。
3. 倫理
デカルトとヴィトゲンシュタインがそっくりって?!﹁知の歴史学﹂を提案してるのにそんなこと言っていいんでしょうか。
デカルトの置かれた状況をもう一度考えてみよう。われわれは普通、彼を観念の世界に閉じ込められたエゴとして捉えている。そのエゴは、自分の観念に対応するものを探し出そうと試み、﹁いかにして私は知ることができるのか?﹂という形の問題について、考えにふけっているのである、と。しかし、彼の作品の奥底には、もっと深刻な危機感が潜んでいる。真理などそもそも存在するのか?観念の領域においてさえ、真理が存在するとはもはや言いきれないのである。彼がいうには、永遠真理とは﹁われわれの思惟の外側には存在をもたない……知覚である﹂(Principles: I. xlviii)。ではわれわれの思惟の内側ではどうかというと、さまざまな永遠真理はある意味で、互いに孤立した知覚なのである。
確かにヴィトゲンシュタインは、心と身体は二つの﹁実体﹂であるとか、﹁心﹂がある特殊な事物を名指しているなどとは考えていなかった。だが多くの本質的な点で、彼はデカルトとまったく同じくらい二元論者なのである。両者はともに、心理学は、自然科学で求められるものとはまったく異なった記述の仕方や方法論を要求すると考えている。
デカルトの危機感の背景にあるものが、ロック、ヒューム、カントを経て現代哲学にまで受け継がれているというハッキングの見方。問いと答えは形を変えても、背後にある﹁世界と思考﹂についての見方は根本的には同型のままということか。
カントの哲学は、デカルトやロックやライプニッツの場合とまったく同様に、私秘性を基礎に構築されている。人間とは、感覚印象と思考が絶え間なくその中を飛び交うエゴである。するとここには、客観性の根拠はどうのようにして見出されるのかという難問が生じてくる。この客観性の問題に対する解答は…自然学についても倫理についても同じものになっている。すなわち判断とは、あらゆる合理的人間が同じ状況に置かれたときに下すような判断でなければならない。われわれが世界について得る知識の客観性は、空間と時間、そして因果性や実体などといった、経験のある種の前提条件に由来する。道徳の領域での客観性は、われわれが︵叡智的で私秘的な行為者として︶他の皆に意志してほしいと望むようなことだけを意志しようとすることで得られる。理性の声は標準化の声であり、また公共的規範の声なのである。そしてこの私秘性という本質の客観性は﹁統覚の超越論的統一﹂によって、すなわちどんな思考にも﹁私がこれを考えている﹂という思考が付随することによって初めて保証されるのだ。
私の思いや意識や知覚は、この世界が在るということ、あるいはこの世界に何かが、誰かが在るということと、いったいどのように関係しているのか、という問い。
ここから生じる問いは二つに分岐する。一つは認識と存在。思考と世界。意識と現実。
もう一つは自己と他者との﹁あるべき﹂つながりという問い。
カントの﹁超越論的﹂解決。実践理性と定言命法。
ハッキングは倫理の問題をどう位置づけているか。
私は、偶然、決定論、情報や統制といった概念を取り上げ、それらについてのわれわれの現在の考え方の中に組み込まれている、何が起こりえて何が起こりえないかという可能性と制約のネットワークを明らかにするという試みを行った…。
しかし、いま提案しているような研究の方向性のもとで、倫理的な概念はどう扱われるだろうか?この種類の研究をしてきたのはほぼ私一人だが、私が取り上げた例は児童虐待である。児童虐待は、単なる反道徳的な行いではない。それは現在では、絶対的な不正である。……
児童虐待は、人間の行動の種類を記述しかつ評価する、事実と価値が一緒くたになった概念である。
﹃監獄の誕生﹄と﹃知への意志﹄における、権力と自己との関連づけ︵ループ効果︶
真理の編成規則──権力行使のあり方──人間の自己認識や自己規定という三つのものの関係づけ。
フーコーの倫理が持つ、これとは別の側面。別のラインからのアプローチのしかた。
道徳的な義務は、道徳的な行為者としての我々自身が構成したものであり、そのような義務のみが、同じく道徳的な行為者である我々が必要としている自由と両立可能なのだ﹂という考えが、イマヌエル・カントの定言命法からジョン・ロールズの正義論やミシェル・フーコーの自己陶冶にいたるまで、一貫して受け継がれている……
カント、ロールズ、フーコーは倫理学において、道徳的命令をいかにして築くか、そして、なぜ築かねばならないかを示した。︵社会的︶構成主義者にも同様に、﹁構成﹂の原義に近い隠喩に忠実であろうとする信条を持ちつづけてもらいたい。