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filmmer.hatenablog.com
最近気分が良いのはネットから距離を置いているからだと思う。 仕事も日常のやり取りもネットありきになってしまった現代においてネットを完全に断つことは不可能になってしまったけれど、僕たちの身体がWifiに接続されるように改造されていない以上、スマホやタブレットから距離を置くことは頑張ればまだ可能だ。 気を病むような嫌なニュースとニュースに群がる評論家おじ、画面いっぱいに散りばめられたひどく不愉快で雑な広告、話題をフォアグラのように流し込んでくるXや永遠に「この人知り合いかも」を押し付けてくるInstagramとFacebook、SNSに巣食っている人々から少し離れてみるとネットの世界はやはり異常なのだ。 リアルな世界はネットの中で語られる程悲惨でもないし悲観するものでもない。 深呼吸はとても大切 ガーデンチェアで昼寝する 庭と七輪と野球中継 味付け焼き肉セットがおもしろい モノクロームフィルム
ゴールデンウィークも終わり仕事場に戻ったと思ったら見事に適応障害に陥った。 もうこの社会から遠く離れたところに行ってしまいたい。仕事も家庭も何もかも放り投げて写真と料理があればそれでいい。そんな生活をしたい。無人島がいいかな。山奥がいいかな。でも海辺もいいし水の音や木々のざわめきが聞こえる土地がいいな。 薄汚れた街並みと自分のことばかり考えている人間がいる東京はもう嫌だ。人里離れた遠くに、遠くの土地にラジオとカメラを持って猫と一緒に行ってしまいたい。 いま一番欲しいものは自由と小さな小屋です。そんな5月のあとがき。 20年以上連れ添った箸を折ってしまった Apple Watchを買ったら1週間で飽きた 撮影機材のインナーケースを新調した 20年以上連れ添った箸を折ってしまった 欧米人は歯医者と床屋を変えないと言うけれど、日本人の僕は使い慣れた箸こそがフェイバリットなので、どんなに高級な箸を
自分もいつかは中年になり人生に迷って苦しむのだろう。 それでも世の大人はあんな苦悶の表情で悲壮感を背負って歩かなくてもよいだろうに、ましてや電車に飛び込んだり首を吊る必要なんて絶対にない。そもそも人がそこまで追い詰められる社会や世の中の仕組みがおかしいのだ。 20代の頃は漠然とそう考えていて、なんなら今でも他人事のようにミドルエイジクライシスに思いを巡らせているのだけれど、ここ数年僕の意識を覆う理由なき焦燥感だとか社会への無力感や自分の無価値感はたぶん世間で言うミドルエイジクライシスで、 もしかしたら知らぬ間に僕もこの苦しみに片足を踏み入れているのかもしれない。 ちょうど「きょうのはてなブログ」でミドルクライシス関連の記事が2つも上がっていたので、これらの記事を読んで考えたことを書いてみようと思う。 僕は心理学の教育を受けた人間ではないから気の利いたことも書けないし聞き齧りの話を文字起こし
KYOTO GRAPHIE 2024を観るために新幹線のチケットを取り一路西へ。 残り少なくなってきたTmaxの購入に充てなきゃいけないお金だけど、思い切って新幹線のチケットを取り京都へ向かった。本当はじっくり写真展を見たいけれど、宿もなくのんびりできる時間もなかったので日帰り京都となった。 京都に行くのは10年以上ぶりだ。10年前と言えば京都がまだ日本人相手に商売をしていた頃で外国人観光客をチヤホヤし始める前の話だから、この10年で京都が外国人観光客様の街になってしまったのか心配だったし、10年以上も離れていたら完全にお上りさんだ。京都駅の動線は覚えているけど地下鉄の乗り換えなんてさっぱり忘れてしまった。 KYOTO GRAPHIEは京都を舞台にした国際写真展だ。 このイベントはただ写真を会場に展示するだけではなく、京都ならではの建築や空間と写真を高度に融合させることで素晴らしい「写真体
春はあけぼのカラーネガ、ということでVISION 3をカメラに詰めて週末の散歩に出かけた。 ここ数年はほとんどフィルムカメラしか持ち出していなかったのだけど、今年は思うところがありデジタルも一緒に持ち出して気の向くままにシャッターを切ってきた。出番の少ないデジタルを手放す前に最後に一緒に散歩してみたかったのだ。難しいことを考えずに頭空っぽにしてこの世界を面白がってみようと思い、行き先を考えずにふらっと外出した。 カラーネガで撮った写真は後々現像するとしてまずはデジタルカメラで撮った2024年の春を数枚掲載する。 今回はHASSELBLAD SWCにデジタルバックをつけてあちこち散歩した。 SWCの性質上ピントは目測だし、ライブビューが事実上出来ない*1のでファインダーの上下1/5程度が見切れることを織り込んで撮るのだけど、被写体を探してぶらぶら歩きながら同時に目測で距離感を測るのが妙に楽し
写真とSNSが一体になってしまったところから考え直していいかもしれないし、僕は写真とSNSを引き剥がす時期にきたんじゃないかと感じてる。 少なくとも写真に纏わりついてしまった「即時性」は引き剥がしていいと思う。 https://twitter.com/VP_Analogue/status/1770023306835669488 こんなことをXに呟いたら思いのほか多くの反応を頂くことになった。SNSに流れてくる写真に対して僕が感じている違和感と似た感情を実は多くの人が持っているのかもしれない。 深く考えずに感じたことを生焼けのままネットの海に放流したこの呟きの背景には、撮る目的とかパッションがSNSに占領されてしまった結果、世の中の写真と撮る人の価値観がおかしくなってしまったのではないか?という漠然とした思いがあった。 面白い写真を撮る人は変わらず一定数いるけれどSNSに流れてくる写真はあま
季節外れの生温い気温の昼、都内の高層ビルの窓際に座りコーヒーを注文した。 鉛色の空を眺めながらあっという間にすっ飛んでいった2月に思いを馳せ、記憶をひっくり返してみても今月は仕事していたことくらいしか思い出せない。毎年この季節って新年の仕事に追われているもんね。 毎月末恒例の今月のあとがきだけど、今月は短文に写真を添えて。 生まれて初めて節分の豆まき会に参加した 眩暈がして寒気がしたと思ったら熱が出た コダックのフィルムケースがいいぞ、と方々で言っている ねこの日2024 来月こそは写真を撮る 生まれて初めて節分の豆まき会に参加した 遠い昔、おばあさんに手を引かれて連れられて行った建前の餅投げを思い出した。 有名なところじゃないから芸能人も相撲取りも噺家も来ないけど、地元のじいちゃんばあちゃんに混じって飛んでくる豆袋を掴みに行ったり、お菓子の入った袋にきゃっきゃと群がる子供をみているだけで
閉店間際のApple Storeに駆け込みiPad miniを買ってきた。 そろそろマイナーチェンジの時期かもしれないというルーマーサイトのご意見なんて気にせず1nmのためらいもなく、スッとカードを出したらサッと商品が裏から出てきて10分で会計が終了し銀座の夜に飛び出した。スマホやタブレットはもう進歩の余地がないだろうし、新型が出てきても後悔はないだろう。 iPadを買ったのは10年以上ぶり。 当時は初物の話題に乗って飛び付いたものの想像以上に使い道がなく鞄の中のお荷物になって以降新しいiPadが発売されても全然興味がわかなかったのだが、あれから長い時間が経過する中でタブレット端末の立ち位置が世の中的に定まってきたし、この10年の間で僕は仕事が変わり家族と暮らすようになったことで生活が大きく変わってしまった。 いくらでもやりくりできた時間が大いに削られ、いまや僕が自由に使える時間は熟練の職
あのね、首都圏に住む僕たちにとって雪は数年に一度のアトラクションなの。 だから降雪を喜ぶなんて不謹慎!とか交通機関で大混乱が起きたらどうするんだ!なんて怒鳴り込んでこないでね。 ぼんやりネットを見ていたら首都圏に大雪が降り電車が止まったり行政が外出自粛をお伝えしている様をつまみ上げた雪国の方が鼻息荒く「首都圏は雪に慣れてない」とドヤポストをXに投げ込んでいた。 そんな正義感を石膏で固めた意固地ポジショントークおじさんを横目で眺めながら、首都圏の僕らは眉間に皺を寄せて「困りましたなぁ、どうにかならないもんですかなぁ…」と口にしつつも内心ワクワクしていて、学校や仕事が休みになったり不可抗力で早帰りできることを何よりも楽しみにしているのだ。 首都圏が雪にびくともしない世界になったら永遠に働かされるんだから。 そんな世界になったらこの世の終わりだし、ちょっとくらい社会の中に息抜きができる隙間があっ
みんな一年よく頑張ったねって肩を抱き合うような優しさに溢れた年末から急転直下で「さぁ、今年も正しく生きましょう!まずは目標から!」みたいな正月の手のひら返しが凄く苦手で、急に日本社会の理不尽さが春の海と共に入場してくるこの感じは何度経験しても順応できない。ついさっきまで何もかも終わった感に包まれていたじゃないか。 え?今更?って驚かれるかもしれないけど、ようやく年末年始の適応障害から回復して仕事のエンジンがかかった。エンジンがかかるまでに20日ほどかかったので、追われるように仕事ばかりしていて私生活のことをあまり覚えていない。わずかな記憶をたどりながら今月のあとがきを書いている。 今年は厄祓いから PERFECT DAYSをもう一度観に行ってきた 冬休みは自宅暗室に勤しんでました MacBook Proのバッテリーがさらに膨らんでいた 現像液を変えた 今年は厄祓いから 仕事での人間関係で滅
今年の行動指針は捨てると止める。 このブログでも紹介したジョナサン・マレシック著「なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか」の中で引用されている「雑用の渋滞」という概念をもう一度振り返ってみると、ここ数年の僕は子育てと仕事に忙殺されて明らかに雑用が大渋滞を起こしていたし、批評と論争ばかりのSNSを眺めていつの間にか感情の渋滞にも巻き込まれていた。 雑用が渋滞を起こすまで膨れ上がってしまったのは、テクノロジーの進歩の結果なのだ。 買い物もイベントの予約もネットでできるようになったし、昔よりも単位時間あたりに実行できるタスクが増えている。本来ならばそれは可処分時間になり人は雑用から解放されるはずだったのに、この世界は余暇の時間を楽しむことではなく生産性を上げることに向かってしまった。 20年前は3人でやっていた仕事はいつの間にか1人でする仕事になり、「セルフケア」や「自分の機嫌は自分で取る」なんて耳障
2023年も残すところあと僅か。 ブログの記事にする程ではなかった小さな話を書き綴る「今月のあとがき」の2回目。まとまりの無い思考の断片、見聞きしたあれやこれやの感想。カレーも豚汁も鍋底に残った具の残骸が一番美味しいのだ。 「ありがとう」と「ごめんなさい」 この国で子を持つこと ローストビーフの正しい焼き方について 【写真】地面に激突したレンズのその後 【買い物】さよならニューバランス童貞 やっと、印画紙を買えた 今年も一年間ありがとうございました 「ありがとう」と「ごめんなさい」 気が付けば3年くらい大掃除から遠ざかっていることにふと気づき、少し早い気がするけどクローゼットの中身を整理したら着古した服や壊れた鞄がゴミ袋2分も溜まっていた。 寝ぼけ眼を擦りながら袋を両手に持ちゴミ捨て場に向かっていると、歩を進めるごとになんだか後ろめたい気持ちになる。自分の身体に一番近いところにあった衣類だ
本の最後に添えられる「あとがき」が好きだ。 読了した満足感や高揚感、腑に落ちない問題提起で終わってしまったルポルタージュでも不協和音めいたエッセイでも最後に添えられるあとがきはデザートのようでもあり、読み手をそっと受け入れ本文が書かれた時代と今を繋げながら背表紙を閉じるセレモニーの主催者でもあり、読了後にゴールで初めて顔を合わせる伴走者のような存在でもある。 ブログってそもそもなんだっけ?という何百万回も繰り返された問に対するひとつの解は「日記」なんだと思う。 とはいえ僕を含め大多数の人はハリウッド映画のようにピンチと爆発とロマンスが120分に詰められた超高密度な生活なんてしていないのだから、安定して面白い日記を書き続けるのはちょっと難しい。 日記の代わりに「月報」なら書けると思うんだけど、月報というと仕事を思い出して嫌な気分がゲップと一緒に飛び出してしまいそうなので、これからは月末に「暮
仕事を片付けたふりをして電車の中で寝落ちしたのだと自分に嘯いて乗り過ごし、夕暮れの海を眺めてから帰る。 そういえば僕が小さい頃は軽トラックの助手席に乗せられて海によく連れて行かれた。配達帰りの昼下がりに畑道を抜けて、砂浜のちょっと手前で止めた軽トラックから降りて海をぶらぶらして帰る。ただそれだけの寄り道。 何かをした記憶はないけれど、光の色と潮騒はよく覚えている。 大人になると海のありがたさがちょっとだけ増す気がする。ウィークデイに負った心の傷の回復は歳を取ると段々遅くなるから、時々海の力を借りないといけない。 山派の人とか潮風が嫌いな人もいると思うので全ての人に当てはまることじゃないけれど、意味もなく夕方の海岸をぶらぶら寄り道するとすごく気持ちがいい。 暖かな秋の夕方の海辺は本を読む人やビール片手に夕焼けを眺めている人、写真を撮っている人、僕みたいに当てもなくぶらぶらする人がたくさんいる
なつやすみの思い出をHASSELBLAD 907Xで撮った記事の続き。 今年の夏休みは久しぶりにデジタルを持ち出してあちこちぶらぶらしていたけど、もちろんフィルムカメラも連れ出していた。ようやく現像が終わったのでカラーネガフィルムに記録された今年の夏休みをずらっと並べてみる。 このままだと近い将来本当になくなってしまうかもしれないカラーネガフィルムにはデジタルのような便利さはないけれど、デジタルが逆立ちしても真似できないような豊かな色を持っている。空の色や海の色、田んぼの緑、路地裏の淀みの色が溢れ出るように濃いのだ。画面全体に湿り気があって、そのシーンの香りや光の形まで閉じ込めているように思える。 フィルム写真やアナログ生活の豊かさとゆるさを残すことがこのブログを続けている理由なので、ぜひデジタル写真と比べながらPortra 400の豊かな色を感じていただきたいと思う。もし何かの間違いで「
フィルム代についてジョセフ・クーデルカは以下のように語っている。 If I couldn’t shoot lots of photos, I would not be the photographer that I am. Still, the cost of film has often been a problem. At times, to save money, I had to work with remainders of movie-film, and even to buy film that was stolen. たくさんの写真を撮れなかったら私は写真家になり得なかった。それでもフィルムのコストはしばしば問題でした。お金を節約するためにある時は私は映画フィルムの残りと仕事をしなければならず、またある時は盗品のフィルムさえ買わなければなりませんでした。 ここ数年ずっと続い
ダムダムダム…ダムダム…ガコン…ザッ…ダムダムダムダム…ガッコン… ベッドに寝転がっていたら近所の子供がバスケットの練習をする音を遠くに聞きながら眠りに落ちていたらしい。リズム感のある音の反復は眠りの入り口だ。目を覚ますとリビングからは朝ごはんの会話が聴こえる。 この日は熱気と湿度で目が覚めたのが午前4時30分。窓から差し込む朝焼けの残りが影を潜め強烈な日差しに変わる頃には眠気がどこかに飛んで行ってしまったので、カメラを持って海辺をぶらぶらし海風を浴びながらコーヒーを飲んでいた。帰宅した後ベッドに腰掛けていたらそのまま眠りに落ちていた。 心地よい疲労と眠り。ベッドの脇に置いていたラジオのスイッチを回す。連休はもう少しでおしまい。 今年はなんと10日も夏休みがあった。 思えば夏休みをちゃんととるなんて9年ぶりだったので、田舎に帰ったりぶらぶら散歩したりして羽を伸ばしていた。家事に育児に仕事に
春はあけぼのカラーネガ。 出会いと別れの季節をきちんと写真に残してあげるためにポートラを買った。 あっという間に価格が高騰し5本で18,800円というとんでもない価格なのでもう日本で買うことはできないけど、海外から調達すれば10本で160ドルほどで調達できるのでまだどうにか継続できる。まだ、どうにか。 高い高い文句を言うけど、ここ一番って時はフィルムで撮りたい。 最新のデジタルカメラで撮ってフィルム風フィルタをかけてもすっ飛んだハイライトやシャドウは復元できないし、かといってHDRで撮ってフィルタをかけ始めるとCGのようなファンタジーになってしまう。等倍まで広げた時にディテールがきっちりしているのもちょっと、ね。 ディスプレイでしか見れない写真とかデータが破損したら永久に失われる写真もなんだか嫌だ。現物としてのネガやプリントが手元にあってほしいし、手に取れる形で長く残っていてほしい。 大切
写真なんて何使ったって撮れるよって話はよく耳にするフレーズなのに、そんなことを言う人に限ってライカ使ってる気がする。 かく言う僕自身も一番稼働しているカメラはライカM6だ。 ライカじゃなきゃだめなんてことはないけど、フィルムのM型ライカは写真を撮る楽しさを残してる数少ないカメラなのだ。その人の技術がダイレクトに反映されるし適当に使えばちゃんと失敗写真を作ってくれるところがいい。現代のカメラでは「美味しい失敗写真」を作る方が大変だけどフィルムライカは素敵な失敗も作ってくれる。 露出からフォーカスまでカメラがやってくれて、なんなら手ブレまでカメラが面倒見てくれるようになってしまった現代において、M型ライカは自分の頭で考えてフォーカスを合わせて息を止めてシャッターを切らなければならないのだが、この一連の行為を通してライカは「写真の主体性」を写真の撮り手に引き戻してくれるのだ。 機械任せではない、
正対した左右対称の写真はテクノだという話を耳にして面白い例えだなぁって思った。 スタジオで撮ったビシッと左右対称な写真はミニマルテクノっぽいし、自然の中にある左右対称はアンビエントテクノっぽい。キラキラした都会の夜の左右対称はテクノポップっぽいしフォーマットが正方形になるといよいよ本気のテクノっぽくなる。 写真を音楽に置き換えると、正対真横シンメトリーはテクノという比喩になるほどと思った。 舞台が都市ではなく郊外だとアンビエントテクノあたりだろうか。 やっぱり血に響くのは生演でリズムの効いたファンクやジャズとかかな。 ポップスでもいいし。 写真ならファイン要素があったら美味しいなとか。 pic.twitter.com/dkcv8DQuxG — クライシ コウタロウ (@KuraishiKotaro) 2023年2月24日 勝手な解釈をすると、この話の面白いところはテクノを想起させる絵面じゃ
みんながあまり気づいていない(と勝手に考えている)二日目の豚汁の旨さについて。 寒い夜に啜る出来立ての豚汁は勿論美味いのだが、翌日に温め直した豚汁も実に美味い。鍋の底に残る煮崩れた野菜と豚肉の残骸が醸し出す旨味のカオスが脳を駆け巡るのだ。 土曜日の朝はあまりにも寒かったので早朝から豚汁を作る。 冷え切ったキッチンでどうにか暖を取りたかったし、朝から豚汁を煮込めば部屋も暖かくなり夜には豚汁Day2が楽しめるだろうと思い冷蔵庫に寝ていた野菜を切る。料理写真のお供はRICOH GRIIIだ。 人参が大きく切られているのは僕の人参に対する恨みの表れだ。要するに人参がきらいなのだ。 冷たい水を鍋に張り、大根と人参を放り込む。 えぐみを取るために一煮立ちさせたら湯を捨て根菜を冷水に潜らせる。水道水の冷たさは過激だしまだ外は薄暗い。 豚肉は別に炒めてから煮込む派。 煮立った鍋に直接放り込むと灰汁取りが面
私事だけど2022年は大波乱の年で、気分の落ち込みと超激務と身内(猫)の不幸が一気に押し寄せてきた。 死ぬかと思ったしこの世界からフェードアウトしてしまいたいとも思ったけど、ちゃんと乗り越えられるんだから人間という生き物は結構タフに作られているんだと思う。 もう二度と2022年をやりたくないと思いつつ、心と身体に残った引っ掻き傷のかさぶたをめくりながらこの時期に得た学びの数々を振り返ってみて思うのは、やる気が出なかったり白昼夢に耽る時間が多くなったらメンタルがやばいサインかもしれないということと、この状況で悪あがきしても何も良くならないので一時停止して色々放り投げて何もしない方がいいんじゃないかということ。要するにやる気が出ない=何かがヤバいサイン=いのちをだいじに(場合によっては撤退!)ということ。 まだ大丈夫!…なんて思ってるうちに一線を超えてるから。 そんな今年前半の学びから「やる気
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