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昨日のエントリーに書き忘れたが、PDの10のカテゴリーにエビデンスがない、とはどういうことか。私も若い頃はDSMの10のカテゴリーについて、特に疑問を感じないでいた。しかし段々自分なりの考えが固まってきた。 もっとも筆頭にあげられるべきBPDはいったん置いておこう。従来それと同列に扱われることも多かったスキゾイドPDについては、それと発達障害との区別はますます難しくなってきた。スキゾタイパル、スキゾフレニフォルムなどはDSMでは統合失調症性のものとして改変されている。また自己愛性PDについては、それが置かれた社会環境により大きく変化して、あたかも二次的な障害として生まれてくる点で、従来定義されているPDとは異なるニュアンスがある。 ということで結論から言えば、DSMの10のカテゴリーの少なくとも一部についてはあまり信憑性もなさそうというのが実感なのである。私は個人的にはカテゴリーモデルを捨
ところで学問の世界は最初は非常に大雑把なものであった。直感的に正しそうだったら、あるいはあるその道の権威が言ったら、それが信じられてテキストになった。クレペリンやシュナイダーの理論も、そしてDSM-Ⅲに掲げられたPDもそうであった。しかし学問が細分化され、実証性が追及されるようになると、色々な矛盾が追及されるようになり、定説が覆されて学説がいろいろ変わっていく。統合失調症で言えば、昔言われていた破瓜型、妄想型、緊張型、という分類は随分長い間常識であったが、これらの分類の実証性が問われるようになり、結局DSM-5では消えてしまっている。これなどは一つの典型例ではないか。私が医師になって長い年数を当たり前のように使って来たこれらの概念は一体何処に行ってしまったのだろう? 話題をPDに戻す。 米国ではDSM-Ⅱ(1968)まではシュナイダーやクレッチマーのモデルに類似したものだったが、DSM-Ⅲ
本稿のテーマはあくまでも「PDについての教育の仕方」である。つまりPDとは何か、ということではなく、PDとは何かをどのように注意して若手医師に教育すればいいのか、ということである。つまりは教え方のポイントということだ。 PDのエッセンスとは何か 私達は人に何事かをレクチャーする時、そのテーマの本質についてなるべくわかりやすく、簡潔に伝えることを心がけるものだ。その意味でPDの議論の本質は何か? それはPDとは症状を伴う精神疾患ではなく、何らかの性格上の問題を扱うという点である。その人はうつや幻聴や失神などの症状を呈しているわけではない。だから病気とは言えない。でもどこかに生きにくさを備えている。例えば嘘をつく、怒りっぽい、など。それは性格に属するのだろう。それは誰でもある程度は持っている性質だが、それが極端な形で現れる。そこでそれを性格(人格)障害と呼ぼう、ということになった。しかし人格、
ところでICD-11で5のかわりに採用された制縛性(強迫性)anankastia が入っているのも正直わからない。というより「アナンキャスティック」なんて表現、ムカ~シ医局の先輩が「彼はアナンカストだな」とつぶやいたので意味を調べたという記憶以外に思い出せない。それに「セイバクセイ」という表現もほとんど聞かない。だからせめて「強迫性 obsessive」くらいにしてくれないだろうか。DSMの精神病性 psychotic の代わりにこちらが選ばれた理由についてはある文献に書いてあった。それによるとこの精神病性は他のパーソナリティ障害とは一線を画し、むしろ統合失調症関連としてとらえるべきだから、というのである(Bach, et al, 2018)。それにICD-11では「パーソナリティ障害の深刻さ」のなかに現れるのだ。要するに精神病性は別格、その代わりに強迫性を入れよう、というのは私も賛成であ
本来転換性という用語はFreudの唱えたドイツ語の「転換 Konversion」(英語のconversion)に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移されることで身体症状が生まれるという意味で、この転換という言葉を使った。 ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「患者は、相容れない強力な表象を弱体化し、消し去るため、そこに「付着している興奮量全体すなわち情動をそこから奪い取る」(GW1: 63)。そしてその表象から切り離された興奮量は別の利用へと回されるが、そこで興奮量の身体的なものへの「転換(Konversion)」が生 じると、ヒステリー症状が生まれるのである。 さらにFreudは言った。「ヒステリーが、和解しない表象を無害なものにすることは、興奮全量を身体的なものに置き換えた結果としてできる(防衛―神経精神病、1894)」 しかし問題はこの転換という機
地獄は他者か 恥というテーマは、私が1982年に精神科医になって最初に取り組んだ問題であるが、本書の執筆を機会にトラウマの観点から再考を加えたい。 恥の体験もまた私たちにとって深刻なトラウマとなりうる。恥はまたトラウマを受傷したという事実そのものに対しても向けられる。特に性的なトラウマはそれが生じたこと自体を他人に相談することへの強い抑制が働く傾向があり、その一つの重要なファクターが恥の意識なのである。 まずは恥のテーマとの私の関わりについて簡単に述べる。私はいわゆる対人恐怖症への関心から出発した。つまり精神の病理一般の中でも特に、恥の持つ病理性に着目していたのである。恥は広範な感情体験を包み込むが、その中でも特に「恥辱 shame」と呼ばれる感情は、深刻な自己価値感の低下を伴い、一種のトラウマ的な体験ともなりうる。私たちの多くは、そのような体験をいかに回避し、過去のその様な体験の残滓とい
English (1) English entry (1) win-win (3) いじめ、自殺 (1) うつ病 (16) オタクについて (11) チビの後ずさり (2) ニューラルネットワーク (1) パリ留学 (27) 愛他性 (1) 解離 (18) 解離、挿絵 (2) 快楽原則 (26) 閑話休題 (1) 関係性のストレス (5) 気弱さ (1) 現実、 (1) 治療論 (28) 治療論(改訂版) (10) 自己開示 (2) 失敗学 (19) 女性性 (1) 小沢さん (1) 上から目線 (2) 心得23 (1) 心得7 (1) 心得8 (1) 真面目さ (1) 親子の関係 (16) 生きがい (1) 精神科医 (1) 精神科面接 (11) 精神分析 (3) 精神分析と言葉 (3) 対人恐怖 (21) 怠け病 (11) 男はどうしようもない (1) 恥と自己愛 (11) 怒らないこ
コロナというトラウマを乗り越えて 今でも少し不思議な気がする。あの災厄は何だったろうか? あれは現実の話だったのか?それとも私たちはそこから本当に抜け出しているのだろうか?あるいは抜け出したという感じ方の方が幻想なのだろうか?またいつ何時、世界中の救急治療室に患者が殺到し始めていて、また新たな株が猛威を振るい始めているという報道を耳にするかわからないではないか? あの災厄とはもちろん例のコロナ禍である。トラウマについての本をまとめるにあたり、このテーマについて書いてみることに私は大きな意義を感じている。 私は本書の出版から3年以上前の2021年に、当時赴任していた京都大学教育学研究科のある出版物に以下のような文章を書いた。今から読み直すと結構臨場感に満ちているので再録をしよう。 コロナ禍における臨床を余儀なくされるようになってから久しい。すでに昨年の本誌の巻頭言において、西見奈子准教授は
MUSの概念はどのように再構成されていくか? 以上みたいくつかの例からわかる通り、MUSに分類されていた疾患の一部は、その医学的な所見が新たに見いだされたことで外されていくという運命をたどる。そのような例としてはME/CFS, FM, イップスなどをあげた。 またそれとは逆に、それまで身体疾患と思われていたものがMUSに再分類されることもある。その例としていわゆるPNES などが挙げられることになる。 そのようにしてMUSという疾患群はいわば新陳代謝を続けるのだ。その様子を示した図を締めそう。言うまでもなくこれは先に示した図に該当項目を書き込んだものである。まさにこの概念は生き物ということが出来よう。そしておそらく遠い将来には、現在MUSに留まる様々な疾患に関して医学的な説明がつくようになることで、そこから抜けていき、MUSの全体集合自体が縮小していくであろう。 しかしそれでもこのMUS
「MUS」はヒステリーの現代版か? 本章ではトラウマと現代的な心身問題というテーマで論じる。 まずは「MUS」という概念の話から始めよう。これは「 医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」の頭文字であるが、本章の以下の論述でもこのMUSという表現を用いたい。 このMUSという疾患群は取り立てて新しい疾患とは言えない。というよりその言葉の定義からして医学が生まれた時から存在したはずである。そして常に悩ましい存在でもあった。それは現在においても同様である。そうしてMUSに分類される患者は概ね「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として扱われることになるのだ。 こう述べただけではMUSの意味するところがピンとこないかも知れないが、昔のヒステリーと同類だと考えていただきたい。すぐに「ハハー。あれか!」とピンとくる方が多いであろう。そしてこのMUSがト
トラウマと脳のマクロスコピックな変化 上記のPTSDにおける脳の機能の変化は、海馬や扁桃核、前頭前野などの特定の部位に関わっていたが、それに呼応するようなこれらの部位のマクロスコピックな変化についての新たな所見が報告されている。これらは最近のCTやMRIの解像度の上昇とも深く関係しているのである。 主として記憶を司る部位である海馬については、その容積の減少がうつ病や統合失調症やアルコール中毒にも多くみられることが知られているが、とりわけPTSDやストレスによるコルチゾールの影響との関連が報告されている。(Bonne, O., Brandes, D. et al. 2001)。 ただし最近の双子研究は、トラウマやPTSDを経験した双子の、これらを経験しなかった片割れにおいても海馬の容積が小さいことが見いだされ(Kremen, WS., Koenen, KC., et al,2012)、海馬の
読者の皆さんは、この「トラウマと男性性」という章の出現に戸惑われるかもしれない。しかしそれが本章のテーマである。私は男性と自認しているが、社会において男性がいかに他者に対してトラウマを与えているかということについて、同じ男性目線から何が言えるのかについて、この際自分自身の考えを掘り下げてみたいのだ。 まず問題意識としては、過去および現在の独裁者や小児性愛者や凶悪犯罪者およびサイコパスのほとんどが男性であるのはなぜか、という疑問がある。これほど明確な性差が見られる社会現象が他にあるだろうか。そしてそれについて男性自身による釈明は十分に行われていない気がする。これは大いに疑問だろう。 臨床上のなやみ このテーマについて、私は一つの臨床上の問題を体験している。私は男性による性被害にあった女性の患者に会うことがとても多いが、その被害状況で実際に何が起きていたかについて患者と一緒に辿ることがある。も
本稿のテーマはあくまでも「PDについての教育の仕方」である。つまりPDとは何か、ということではなく、PDとは何かをどのように注意して若手医師に教育すればいいのか、ということである。つまりは教え方のポイントということだ。しかし書いていて紛らわしい。これは企画として成立するのだろうか? PDのエッセンスとは何か まず私は人に何事かをレクチャーする時、そのテーマの本質についてなるべくわかりやすく、簡潔に伝えることを心がける。その意味でPDの議論の本質は、PDとは症状を伴う精神疾患ではなく、何らかの認知、感情、対人関係の問題あるパターンについて扱うという点である。だからそれは「困った傾向を持つ人」ということで言い表される。(こんなことを書くと、「お前さん自身が困った人ではないか。そんな偉そうに書くな!」という突込みが自分の中に入る。) DSMのPDでA,B,C群に分かれていたのが象徴的だ。アメリカ
共感のトラウマ性 これまで共感について、それを基本的には人間にとって必要なもの、有益なものとしてとらえて論じた。その理論に従うならば、共感を得られないことがある体験のトラウマ性を増すことになる。多くの患者にとって自分の話を信じてもらえなかった、分ってもらえなかったという体験は大きな心の痛手になる。逆に言えばトラウマとなりうる体験も、それを話し、分かってくれる相手と出会うことで、深刻なトラウマ体験となることが回避されるのである。もとアメリカ大統領のバラク・オバマは「現代の社会や世界における最大の欠陥は共感の欠如である」といったという(「反共感論」 p.28)。 彼の言葉を代弁するならば、「独裁者が少しでもわが子を送り出す自国の兵士の親や、敵国の被災者の気持ちに共感できるのであれば、あのような無慈悲な攻撃をすることはないであろう。」 ということが出来るだろう。 ところが共感の負の側面も論じられ
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