天狗党の乱
1864年から1865年にかけて日本で発生した一連の争乱
背景
水戸藩主第2代徳川光圀が彰考館において大日本史の編纂を始めて以来、第10代徳川慶篤の孫徳川圀順が1906年︵明治39年︶に完成させるまで、代々多くの藩士が事業に携わることとなった。
編纂が進むにつれてその思想体系などが整備され、やがて水戸学と呼ばれる学問の一派へと成長し、水戸藩士は皆等しく水戸学の尊皇思想の影響を受けることとなる。
しかし、この思想は尊皇を説くあまりに、幕府より皇室を重んじる傾向があったため幕府から猜疑の目で見られる原因となり、幕政の中心から遠ざかる原因ともなった。
派閥間の対立
大日本史の編纂事業は、江戸時代中頃に停滞期へ入ってしまうが、それを復興したのが立原翠軒であった。立原の下には多くの門人が集まり、その中には弱冠10歳で入門を許された古着商藤田屋の息子、藤田幽谷の姿もあった。
幽谷は18歳で幕府老中の松平定信に求められて﹁正名論﹂を提出するなど才能を開花させるが、立原との大日本史編纂を巡る考え方の違いや、立原に謹慎を申し渡されていた中で藩主徳川治保へ封事を提出して免職されるなどしたため、立原は絶交。師弟は対立するようになる。
1797年︵寛政9年︶、藩主治保は幽谷の考えに沿って大日本史の編纂を進めることを決定し、立原は彰考館を退職。これによって両者の対立は派閥間の争いに発展することとなる。
その後、立原派=保守派、藤田派=改革派として政治的対立が続く。改革派を継いだ藤田東湖が両派の関係修復に尽力するも、1855年に発生した安政の大地震にて東湖が圧死すると調停役を失った抗争は一気に泥沼化。血の粛清へと発展する。
これら抗争によって両派とも巨頭になり得る人材を失い、問題の解決と関係の修復を行う力を失っていった。
挙兵
改革派から過激派へ
日米修好通商条約許さずの天意を無視する形で条約調印に踏み切った幕府に激怒した孝明天皇は、幕政における復権を画策していた水戸藩の朝廷工作に乗り、1858年9月14日︵安政5年8月8日︶、同藩に対して直接勅書を下賜するという異例の行動に出た︵詳細は﹁戊午の密勅﹂を参照︶。
大老・井伊直弼ら幕府主流派は密勅が倒幕を画策するものであると捉え、水戸藩に対して勅書の幕府への引渡しを命じる一方で、将軍家定の後継者問題を巡る対立で水戸藩が中心となっていた、いわゆる一橋派に加担していた人物への弾圧を強めていった︵﹁安政の大獄﹂︶。
幕府からの勅書返納命令に対し、水戸藩内は旧保守派を中心として返納する論︵鎮派︶と、旧改革派を中心とした反対論︵激派︶に分かれて対立する。翌年に朝廷から出された返納の勅により、ようやく藩論を朝廷へ直接返納することで統一される。
藩論が返納となったことで激派への弾圧はいっそう厳しいものとなった。また、激派の中には返納派が密かに幕府へ勅書を渡してしまうのではないかと疑い、脱藩して実力行使にて幕府返納を阻止しようと考える者もいた。
高橋多一郎ら脱藩した水戸浪士達は長岡に集結し、同志・農民など数百人がこれに賛同して合流した。彼等は﹁大日本至大至忠楠公招魂表﹂と書かれた札を立てて長岡宿での検問を実施、江戸への勅書搬入を阻止しようとしたのである。
後に﹁長岡屯集﹂と呼ばれるこの行動は、鎮派を牽制する程度の効果はあったものの、水戸に残る激派の立場を更に危うくすることになり、謹慎中の前藩主斉昭も﹁返納の阻止は天意に反する﹂と説得した為、主だったメンバーが江戸に脱出することで解散した。
脱出した水戸浪士らは数日後、薩摩藩士と共謀して井伊直弼を暗殺︵桜田門外の変︶。1860年9月29日︵万延元年8月15日︶に斉昭が病死すると行動は更に活発となる。半月後の10月11日︵旧暦8月27日︶には竹内百太郎ら浪士37人が江戸︵芝︶薩摩藩邸に駆け込み攘夷の先鋒ならんとする意見書を提出したことを皮切りに、玉造勢騒動、英国仮公使館襲撃事件、坂下門外の変などを起こし、ここ完全に過激派と化すに至った。
挙兵
1862年春︵文久2年夏︶、島津久光の政略によって一橋慶喜・松平春嶽の2人が幕政に復帰すると、春嶽によって﹁将軍家茂は上洛して帝にこれまでの失政を陳謝すべき﹂との進言が為され、また2度に渡る勅使下向によって幕府の勅命実行の確約︵条約破棄+攘夷︶は、もはや避けられないものとなっていた。
まず将軍上洛に先立ち、後見職にあった慶喜が先に入京することとなったが、まだ慶喜には幕府から与えられた家臣がいるのみで信頼委任できる腹心がいなかった。そこで実家である水戸藩へ命じ、上洛に追従させることにした。
1863年2月3日︵文久2年12月15日︶に一橋慶喜が江戸を出立すると、9日後の2月12日︵旧暦12月24日︶水戸藩主徳川慶篤らが追従し江戸を出立する。その中には武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が連なっていた。
彼らは京都において、長州藩士桂小五郎、久坂玄瑞、その他京都に集う志士達と交流を重ねるうちに尊皇攘夷の志をますます堅固なものとして行ったのである。
更に藤田は長州藩と図り、東西で一斉に挙兵して幕府に攘夷を迫る計画を立てるが、これは時期尚早であると耕雲斎に諌められ失敗に終わっている。
一方、慶喜は既に攘夷の実行は不能と悟っており、しかし将軍上洛までに何らかの行動を起こさなければ将軍が矢面に立たされることとなってしまう。そこで攘夷実行の期日を将軍帰京後より1月後という短期間に設定することで逆に実行不能の口実を作ろうと画策したのであるが、これが後に激派の不満を爆発させる一因となってしまう。
幕府は八月十八日の政変で猶予を得たものの、天皇の攘夷の意思は変わらず、横浜港鎖港督促の沙汰が10月13日︵旧暦9月1日︶には慶喜に対して、10月26日︵旧暦9月14日︶には朝廷に参内した首席老中酒井忠績に対して行なわれると、引き伸ばし工作も限界となり、2回目督促と同日、ようやく横浜港鎖港交渉を開始する。交渉相手となった米蘭公使には事前に﹁朝廷をなだめる為に仕方なくやっている﹂と通告していた為、交渉は穏やかに進んだと言われている。
米蘭との交渉で鎖港を拒否された為、今度は10月31日︵旧暦9月19日︶に、米・英・仏・露の4カ国公使と会見しての説得を試みたが、今度は会見そのものを拒絶されてしまう。
松平容保による朝廷工作もあって、巧みに攘夷実行を遅らせることに成功した幕府であったが、攘夷派の不満は増す一方であった。
1864年3月26日︵文久3年2月19日︶に朝廷が出した横浜港の鎖港と海防軍備に関する勅愉に対しても幕府は無策を続けるつもりだと判断した藤田小四郎は挙兵の意を固め、同志を募る。
そして1864年5月2日︵元治元年3月27日︶、筑波山に集結した62人の同志たちと共に気勢を上げ、遂に挙兵に至る。
小四郎挙兵の報を聞いた水戸藩目付役の山国兵部は、弟の水戸町奉行田丸稲之衛門が主将に担がれていることを知り、藩主慶篤の命を受けて説得に赴くも、逆に諭されて天狗党に加担することになってしまう。この時、兵部は71歳であったと言われ、23歳の小四郎の若さに任せた勢いに飲み込まれたものと推測される。
挙兵後、各地から続々と浪士、町民、農民らが集結し、数日後には150人、その後、最も勢いのあった時期で約1,000人という大規模な集団に膨れ上がった。
「天狗党」の由来
﹁天狗党﹂の由来には二通りの説がある。
(一)保守派︵門閥派︶の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、﹁成り上がり者が調子に乗っている︵天狗になっている︶﹂といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派をそう呼んだところから来ているという説。
(二)改革派は世直しをするものとして、自らを天狗と称したという説。
挙兵後の争乱
保守派による排撃
筑波山で挙兵したことから筑波勢、波山勢などと称された天狗党には、藤田小四郎の勧誘に同調した浪士、藩士はもとより、町民、農民や神官なども多く加わっていた。
1864年5月8日︵元治元年4月3日︶には下野国日光︵栃木県日光市︶へと進み、日光東照宮へ参拝しようとしたが、途中日光奉行に妨げられた為、一部の者が参拝したに止まった。
日光を出発した天狗党は常陸へと向かっていたが、水戸藩内で保守派の市川三左衛門が弘道館の反藤田派を巻き込んで諸生党を結成し、藩内での激派排撃を始めたことを知り、筑波山へと引き返す。
途中、田中愿蔵が別働隊を組織して栃木、真鍋などに送り、資金調達を図るも失敗。このとき断られた腹いせに町へ放火するなどした為、天狗党は﹁暴徒﹂として認知されることとなってしまった。
幕府は天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じる。水戸藩もこれに応じて市川らを中心とする追討軍を結成し、1864年8月8日︵元治元年7月7日︶に諸藩連合軍と天狗党との戦闘が始まった。
下妻近くの多宝院で天狗党の夜襲を受けるなどして諸藩軍は敗走。市川らは水戸へ逃げ帰ると水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火、家人を投獄するなど︵銃殺したという話も残っている︶の報復を行なった。
挙兵時は尊皇攘夷の旗印の下に集った志士達であったが、身内虐待の情報による動揺は藤田らも抑えることができなかった。他藩の志士たちは天狗党の目的が水戸藩内の対立優先に傾いて来た頃から次第に離れ始める。彼らは横浜港鎖港の実力行使を行なうべく江戸へ向かって進撃して行くが、途中幕府軍と交戦し敗散している。
残された天狗党は水戸城へ向かい市川一派と交戦するがこちらも敗退し、那珂湊の近くまで退却する。
一方、京都にいる藩主慶篤の名代として宍戸藩主松平頼徳が内乱鎮圧のため水戸へ下向するも、鎮圧軍の中に武田耕雲斎ら激派の要人がいた為、市川らに入城を阻まれてしまう。仕方なく水戸に近い那珂湊へ退いて布陣し、神勢館で頼徳入城の交渉を行なうが市川は拒絶。逆にこの頃には鎮圧軍の中にも天狗党に対する賛同論が広がっており、頼徳は翻意して天狗党と合流し共に市川勢と戦うことにしたのであった。
この合流によって武田耕雲斎が天狗党幹部に加わり、主要メンバーの顔ぶれが出揃ったことになる。
尚、以前、町に放火するなどして民衆の反感を買ったことを反省した天狗党は、以来、諸費用をきちんと宿場に支払うなど規律厳守に努めたことが、後に島崎藤村の代表作﹃夜明け前﹄にも記述されている。
幕府による追撃
一度は敗戦した市川ら諸生党は幕府に応援を要請し、那珂湊を包囲する。幕府は田沼意尊を将とする部隊を派遣。共に那珂湊を包囲する。
11月4日︵旧暦10月5日︶に松平頼徳が幕軍に誘き出されて切腹、千人余りが投降するなど天狗党は大混乱に陥るが、何とか脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村︵茨城県大子町︶に集結する。彼らは幕軍の追っ手から逃れると共に、京都に上り朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決し、11月29日︵旧暦11月1日︶に大子を出発、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、進軍を続けた。
当然、諸藩には天狗党追討の命令が出ていたのであるが、天狗党が数々の戦闘を経験して精鋭であったことと、一説には数十門とも言われる大砲を所持していたことなどから、多くの諸藩は臆して手が出せず、天狗党と幕軍が逃追しながら通過して行くのを見守るしかなかったようである。
しかし、戦闘がなかったわけではなく、上州では高崎藩の藩兵と、信州諏訪湖近くの和田峠では高島藩・松本藩連合軍と交戦する。この時、天狗党の中に、その剛力から﹁今弁慶﹂の名で呼ばれていた常陸久慈の僧侶、不動院全海という人物が戦死し、高島藩士北沢与三郎は彼の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして焙って食べたとの逸話が残されている。
投降
武田耕雲斎を総大将とし、大軍師に山国兵部、本陣に田丸稲之衛門、輔翼に藤田小四郎と竹内百太郎を中心として天勇隊を組織、以下、虎勇隊、竜勇隊、正武隊、義勇隊、奇兵隊を従えて、1865年1月8日︵元治元年12月11日︶、一行は遂に最期の地、越前新保︵福井県敦賀市︶に至る。
彼らは徳川慶篤と徳川慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、京都から来た幕府軍を徳川慶喜が率いていることを知り、自分達の志が潰えたことを悟る。
1865年1月14日︵元治元年12月17日︶、武田耕雲斎ら天狗党の主要メンバーが加賀藩に投降し、乱は完全に鎮圧される。
当初、加賀藩は、彼等の勤皇の志に胸を打たれ、かなりの好待遇をもって迎えたようである。しかし幕府軍は到着するとすぐに彼等を捕縛、鰊倉のなかに監禁した。
藤田をはじめとする主な人物はただ倉の中に放り込まれただけであったが、その他のものはきつく手枷足枷をはめられ閉じこめれた。
厳寒の中、用便用の桶と魚の異臭籠る倉の中で倒れる者が続出し、病死者は20名以上と言われている。また1日握飯一つと湯水一杯と大変粗食であった。
加賀藩は天狗党の行動は単に勤皇の志に動かされてのものであり、寛大な処分を願うとの嘆願書を幕府に提出し、彼等の助命を願い出るものの、同情論や過激派による更なる挙兵を防ぎたい幕府によって全員の処刑が決定される。
3月1日︵旧暦2月4日︶、武田耕雲斎が斬首されたのを最初に、3月20日︵旧暦2月23日︶までの間に353人が斬首、他は遠島、追放などの処分が科された。
なお、遠島処分となった武田金次郎以下110名は、小浜藩に預けられて謹慎処分となった。同藩は彼らを准藩士格として扱い、佐柿︵福井県美浜町佐柿︶に収容のための屋敷を建てて厚遇した。慶応4年︵1868年︶、朝廷より水戸への帰藩を命ぜられ、佐柿を後にした。
主導者への裁定
名前、処刑日(旧暦)、辞世の句の順に記載。
斬首の後、水戸にて梟首
・ | 武田耕雲斎 | 3月1日(2月4日) | かたしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪 |
雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪 | |||
・ | 田丸稲之衛門 | 3月1日(2月4日) | |
・ | 山国兵部 | 3月1日(2月4日) | ゆく先は冥土の鬼と一と勝負 |
・ | 藤田小四郎 | 3月20日(2月23日) | かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき |
さく梅は風にはかなくちるとても にほひは君が袖にうつして |
斬首
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乱後
乱が鎮圧されると、水戸藩では諸生党が中心となって乱に加担した者の家族を尽く処刑した。しかし、天狗党の一部で赦免された者は、長州藩の支援なども受け京に潜伏し、本国寺党と称して復権を目指して行動していた。
一方、保守派によって完全な佐幕派となってしまった水戸藩に対し、戊辰戦争が勃発すると諸生党に対する追討命令が朝廷から出された。これにより、本国寺党をはじめとする天狗党の残党が次々に水戸藩に舞い戻った。
それを好機と見た、かつての天狗党派の者たちが一気に勢力を逆転し、今度は親の敵とばかりに諸生党を激しく弾圧した。
藩内では武田金次郎ら天狗党が盛り返すとともに、諸生党に対する迫害が激化した。藩士ばかりでなく農民・町民の間でも凄惨な報復やリンチが繰り広げられた。市川三左衛門ら諸生党は水戸藩を脱すると、北越戦争や会津戦争を転戦。新政府軍に対して善戦した事もあったが、東北での戦線が新政府軍勝利の形で沈静化すると、一行は天狗党が政権を握った水戸藩へ舞い戻り水戸城を奇襲した︵弘道館戦争︶。しかし、水戸城は諸生党の攻勢に耐え、攻めあぐねた諸生党は水戸を脱出し、なおも新政府軍や水戸藩軍と戦い続けたが下総八日市場の戦いで壊滅。市川を始め、諸生党の多くが処刑された。
これら度重なる内部抗争により多くの血が流れ、才能が消散してゆく。激動の幕末期において一時は牽引役として活躍した水戸藩も、ついにはこれといった才覚ある人物もいない状態となり、明治になってみれば新政府に1人の要人を出すこともできなかった。
エピソード・その他
●山国兵部の辞世の句は、暗い句が多い中で異彩を放っているが、彼の弟である田丸稲之衛門の次女八重︵諸生党によって斬首︶も、17歳とは思えない辞世の句を残している。
引きつれて 死出の旅路も 花ざかり
●敦賀市の古老がかつて︵戦時中頃か︶身近な人々に語った記憶によれば、処刑に引き出された党員は、逃亡を阻止するためか、両足を竹に括られていたという。処刑は公開で見物に行ったそうである。
●乱後~いわゆる﹁弘道館戦争﹂に至るまでの水戸藩における粛清と混乱に関しては、山川菊栄﹃覚書 幕末の水戸藩﹄にくわしい。
●水戸を初めとする茨城県では、身内で争うことを﹁天狗﹂と呼ぶ地域もある。
●天狗党の乱の繋がりで、水戸と敦賀は姉妹都市となっている。
●上述の通り、旧水戸藩からは明治初期の新政府には主要な人材が出ていない。水戸藩地域からの出身者で公務員となったものはいるが、ほとんどが下級の警官である。故郷を離れ全国に赴任していった彼らが人を怒る際に、﹁おい﹂や﹁こら﹂という茨城の方言を使ったため、この感嘆符は全国に広まり、事実上の標準語となっていった。
●水戸藩士の墓所である常盤共同墓地に天狗党員が拘束された鰊倉が敦賀から移築された。倉の壁に天狗党員が血で書いたとされる﹁呪い﹂という文字がある。
外部リンク
- 水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱) (茨城大学図書館サイトより)
- DL新八